第5話 コーヒーブラウンの匂い
喫茶マロードは一見、個人経営の店に見えるが実は全国に数店舗存在する。あるオフィス街のテナント店舗はガラス張りで無駄を省いた内装、またある路面店は緑に囲まれた煉瓦造りだったりと、地域によってその姿を変えている。
店舗により看板はひらがな表記やローマ字、漢字一文字の『客』、など様々だ。経営者が飽きっぽいとか副業の道楽として好きにやっているからだ、などと同業者間で噂されることもあるが、真相は定かではない。
美術大学の1回生、梓ゆみと玄川彩羽はそんなことは全く知らずに『マロード』の窓際テーブル席に座っていた。彩羽が外の通りから窓越しに店内を見た印象では、カウンターにフラスコの様な器具が並び自分ひとりでは入りづらい雰囲気だった。
「わたし、はじめはさっき前を通ったドーナツ屋さんに入ろうと思ったんだよ。大学の入学式の後かな。でもわりと混んでてね、構内で見かけた人もいて…もうグループ?友達?になってるっぽくてさ。どうしようかなとか迷っちゃって」
この店の常連客であるゆみが、メニューを熟考中の彩羽に話しかける。
「…なんかわかる」
「それでマップで調べたら商店街を少し外れた場所にこの店があって。入ってみたの」
彼女たちがメニューを決断した頃合いに、女性店員が注文を聞きにやってきた。昼食を済ませていた2人はそれぞれ自家製のケーキセットを注文した。ゆみはショコラテリーヌと冷たいカフェラテ、彩羽は柑橘類のタルトとサイフォンコーヒーを選んだ。
「店内、2階もあるなんて広いね。コンセントもあるし」
「そうでしょ。レポート捗はかどるんだよね、家だと誘惑が多すぎるから」
2人が午前中に見て回った古着屋の話をしていると、低い男性の声がしてテーブルの角に影が落ちた。彩羽が見上げると、ダークグレーのカッターシャツに、ギャルソンエプロンを腰に巻いた男性店員が立っていた。
黒い髪をひとつ結びにした彼は、ゆみたちが注文した品を木製のテーブルに音を立てずに置き、ごゆっくりどうぞ、と言って去っていった。
おそらく彼の手が大きいのか、ソーサー類がなんだか小さく見えた。
彩羽とゆみはなぜか息を止めてその男性の後ろ姿を見送った。チラリと目に入った彼の側頭部の髪にひと筋の異色のメッシュが入っていた。最近は髪の長い男性を見かけるのは珍しくない。彩羽の知り合いの青年は肩までの長さがあるが、その店員は結んでいたためどれだけ長いのかはわからなかった。
完全に姿が見えなくなってから、ゆみがひと言だけ呟く。
「SHIN」
「えっ。なんて?」
「あの店員さんの名札、初めて見えた。シン、『S,H,I,N』って書いてあった。彩ちゃん見た?」
彩羽は首を左右に振って答えた。
ゆみは頬杖をついて窓ぎわに置かれた観葉植物に顔を向けたが、瞳は全くその艶やかなヒメモンステラの葉を見ていない。頭の中はその4文字がネオンサインのように光っているようだった。そして抑えきれずに顔をほころばせた。小さな花が開いたようにとても魅力的な瞬間だった。
2人は残りの夏休みの過ごし方や、後期のカリキュラムなどについて話しあった。のは最後の10分ほどで、ゆみは食べ終わると赤のショルダーポーチから手帳を取り出し、先ほどのアルファベット4文字から考えうる名前を一通り空想しながら書き連ねた。
シンタニ、シンジョウ、シンジ、シンイチ、しんたろう、シン、エトセトラ。シンは彩羽が挙げた名である。なくは無い、とゆみはそのシンプルさを気にいっていた。
1時間ほどそうして過ごし、ゆみと彩羽は店を出た。『SHIN』の名札をつけた男性店員がレジに立ち、ありがとうございました、と彼女たちを見送った。
身長が160センチの彩羽と比べて、彼とは頭ひとつ分ほどの差があった。滑らかで、太すぎず低すぎない声だった。以前彼がゆみに話しかけたときはどんな風だったのかなと彩羽は思った。
テーブルを片付けて厨房に向かったその男性に、やや年長の女性店員が声をかける。
「じゃあ休憩いってね。しのくん、お疲れさま」
「はい、休憩いただきます。お疲れさまです」
大学生のアルバイト店員、紫野翼が振り返って答えた。
「そうだ、近くのドーナツ店の割引券が何枚かあって休憩室のテーブルに置いてあるの。私は使わないから、良かったら使って」
「ありがとうございます。では遠慮なく」
スタッフルームに入ったSHINO翼は腰からエプロンを外してロッカーにしまい、携帯電話を取り出していくつかの通知に目を通す。
『ドーナツ食べたいから夕方にその辺行く。きてもいい』
アンリ
まとめ買いすると値引きされるからと、しばしばこうして大学の同期生に誘われるのだ。
『マロでドーナツの割引券もらった。あげてもいい』
しの
割引券を見ながらアンリとドーナツ全種類制覇でもするか、と紫野翼は思った。大学の夏休みはまだ半分以上残っている。正直に言うといっそ身体を冷凍保存しておきたいくらいだ。
あとそういえばシャンプーの詰め替えを買わないといけないが、あのシリーズのどの種類か思い出せなかった。一日の労働代の半分はこうして消えてゆく。
バイト終わりに合流すると返信を打った紫野翼は、ふと先ほど窓際席にいた若い女性客が思い浮かんだ。ひとりは今年の春頃からよく見かけるようになった学生っぽい女性だ。
友達といたからか、あんな風に笑う姿を初めて見た気がするし、あのひとは今日は割としっかりメイクをしていたなと思った。普段は素っぽい、ナチュラルメイク?の印象だ。彼にはその違いがよくわからないが目元は憶えている。
瞼の淡い紫のグラデーションが夕暮れのようにコーヒーブラウンのアイラインに沈んでいた。と言っても紫野翼は地平線に沈む夕陽なんて見たことがない。それは彩羽とゆみも同様で、彼らの住むひたあい市の夕陽はいつも水平の海に沈むのだ。
第5話 コーヒーブラウンの匂い 終わり




