第一幕 おしまい
おとぎ話には、終わりがあります。
長い旅を終えた王子さまがお城へ帰ったり。
眠っていたお姫さまが目を覚ましたり。
悪い魔女がいなくなったり。
そして最後のページには、たいていこう書かれています。
――めでたし、めでたし。
とても便利な言葉です。
その二つを書けば、どれほど長い物語にも、きちんと終わりがやってきます。
けれど。
人の人生には、最後のページが見えません。
今日が何ページ目なのか。
明日から何章が始まるのか。
誰も教えてはくれないのです。
◇
真珠は、人魚になりました。
もちろん、本物の人魚ではありません。
魔法で脚が尾びれになったわけでもありません。
海の魔女と取り引きをしたわけでもなければ、
不思議な薬を飲んだわけでもありません。
ホームセンターへ行きました。
材料を買いました。
切って、削って、組み合わせました。
失敗して、作り直しました。
そうして完成した尾びれをつけて水へ入り――。
まったく泳げませんでした。
それでも諦めませんでした。
水を叩いて。
沈んで。
ひっくり返って。
イルカを勝手に先生にして。
やがて、水と喧嘩をしなくなりました。
最後には、泳ぐことさえ忘れて水の中で遊び、
小さなハートの泡まで作れるようになりました。
だから。
真珠は、人魚になったのです。
少なくとも本人は、そう思っています。
それなら、それでよいのでしょう。
夢というものには、役所もなければ認定試験もありません。
「あなたは今日から人魚です」
と、誰かに許可してもらう必要などないのですから。
◇
けれど。
人魚になっても、変わらなかったものがありました。
真珠は二十二歳の大学生です。
水族館で働いています。
お腹が空けば、ご飯を食べます。
眠ければ、あくびもします。
失敗すれば落ち込みます。
楽しいことがあれば笑います。
そして――。
病気にもなります。
昔のおとぎ話では、人魚の血や肉には、
人の命を長くする不思議な力があるといわれていました。
老いない。
死なない。
何十年も。
何百年も。
人間には許されていないほど長い時間を生きる。
それは、ずいぶん魅力的な魔法に思えます。
だから、この物語は人魚の血から始まりました。
けれど真珠は、本当に人魚になってみて、一つだけ困ったことに気づきました。
尾びれは作れます。
泳ぎ方も覚えられます。
ハートの泡だって、練習すれば作れます。
でも。
人魚の血だけは、作れませんでした。
真珠の身体を流れているのは、最初から最後まで人間の血です。
白血球があり。
赤血球があり。
血小板があり。
その一つ一つが、毎日休まず身体の中を巡っています。
数字にすれば、ただの検査結果になります。
高い数字。
低い数字。
基準の中にいる数字。
そこから大きく外へ飛び出した数字。
紙の上では、どれも同じ大きさの文字です。
けれど、その数字の向こう側には。
一人の人間がいます。
◇
真珠は、CTの白い輪をくぐりました。
自分では見ることのできない身体の中を、機械に見てもらいました。
そして医師と一緒に、その画像を見ました。
そこに魔法はありませんでした。
水槽の青い光もありません。
イルカ先生もいません。
あるのは、白と黒と灰色で描かれた自分の身体。
それを見ながら真珠は、自分の命というものを、ほんの少しだけ考えました。
永遠に生きたいか。
そう聞かれたら。
今の真珠なら、たぶん困るでしょう。
永遠とは、あまりにも長すぎます。
百年。
二百年。
五百年。
そんな先のことまで、二十二歳の女の子には想像できません。
それよりも。
明日のほうが大切でした。
次の休み。
次の季節。
大学を卒業する日。
また水族館へ行く日。
もう一度、尾びれをつける日。
水へ潜って。
身体をしならせて。
そして今度は、もっと綺麗なハートを作る。
永遠などいりません。
ただ。
その「次」が、もう少し欲しい。
真珠が欲しかったのは、それだけでした。
◇
それなら、この物語は悲しいお話なのでしょうか。
まだ、わかりません。
真珠は病気になりました。
けれど、まだ生きています。
だからこれは、悲しい結末ではありません。
病気が消えたわけでもありません。
だから、
――めでたし、めでたし。
と書いてしまうのも、少し早いようです。
困りました。
童話なのに、終わりの言葉が見つかりません。
けれど。
もしかすると、それでよいのかもしれません。
人は、物語の結末を知ってから生きているわけではないのですから。
怖い日があります。
笑える日があります。
数字に一喜一憂する日もあるでしょう。
昨日まで知らなかった言葉を覚える日もあります。
誰かに助けてもらう日も。
誰かとくだらない話をする日も。
きっとあります。
そうやって一日ずつ進んでいく。
水の中を泳ぐときと、少し似ています。
水の中には、道がありません。
けれど、道がないからといって。
進めないわけではありません。
◇
ここから先。
真珠が向かう場所には、これまでとは違う人たちが待っています。
医師。
看護師。
検査に携わる人。
薬に携わる人。
そして。
同じように、自分の「次」を求めて病院へやって来る人たち。
そこでは、尾びれの作り方よりも難しい言葉がたくさん出てくるでしょう。
血液検査。
画像検査。
点滴。
薬。
治療。
副作用。
そんな言葉の一つ一つが、今度は真珠の日常になっていきます。
そこまで来ると、もう。
人魚になりたい女の子だけのおとぎ話では、収まりそうにありません。
ですから。
そのお話を始めるのは、もう少し先にしましょう。
今はまだ。
水族館の青い水の中を泳ぐ、令和の人魚姫を覚えていてください。
尾びれを作って。
泳げなくて。
イルカに教わって。
最後にはハートの泡を浮かべて笑った女の子を。
◇
昔から、人魚の血には永遠の命を与える力があるといわれています。
本当かどうかは、誰にもわかりません。
おとぎ話ですから。
けれど令和の人魚姫は、永遠を望みませんでした。
明日を。
その次の日を。
また笑える一日を。
もう一度、水の中へ潜れる日を。
ただ、それだけを望みました。
だから、このお話の最後には。
まだ、
「めでたし、めでたし」
とは書かないことにしましょう。
真珠の人生は、まだ続いているのですから。
代わりに。
ここには、こう書いておくことにします。
――『令和の人魚姫』
第一幕 おしまい。
ここまで『令和の人魚姫』をお読みいただき、ありがとうございました。
真珠が人魚を目指して始まったこのお話。
第一幕は、これにておしまいです。
最後にもう一枚だけ――
この物語に添えておきたいものがあります。
この数字について、ここで詳しいお話はしません。
数字には、数字なりのお話があります。
そして、その向こう側にもまた、ひとつのお話があります。
数日後、本作に**「閑話」を一話だけ**投稿する予定です。
そこで少しだけ、真珠に何が起きていたのか。
そして、この先に考えている第二幕についてお話ししたいと思います。
第二幕は、この童話とは少し違う場所へ向かうことになりそうです。
それまでは――。
令和の人魚姫と、この90個の数字を、そっとここに残しておきます。




