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第8話 ~人魚でも~

病院という場所には、たくさんの白があります。


 白い壁。


 白い天井。


 白いシーツ。


 白い照明。


 そして、白衣。


 水族館にも白いものはたくさんありますが、同じ白でも、ずいぶん違って見えるものです。


 水族館の白には、いつも青が混じっています。


 水槽からこぼれる光が壁を揺らし、床には水面の影が映ります。


 けれど病院の白は、どこまでも静かでした。


 光は揺れません。


 魚も泳ぎません。


 イルカ先生も、もちろんいません。


 その白い廊下を、真珠は一人で歩いていました。


 今日は大学生でも、水族館のスタッフでもありません。


 ましてや、人魚でもありません。


 ただの二十二歳の患者です。


          ◇


「真珠さん」


「はい」


 名前を呼ばれ、真珠は顔を上げました。


 CT検査室の前です。


 扉の向こうには、大きな機械が待っています。


 以前にも検査を受けたことはありました。


 だから、何をするのかは知っています。


 怖い機械ではありません。


 大きな輪の中を寝台が通り抜け、身体の中を画像にする。


 それだけです。


 痛みも、ほとんどありません。


 知っています。


 ちゃんと知っています。


 それでも、扉の前に立つと胸の奥が少しだけ重くなりました。


「お願いします」


 真珠は軽く頭を下げて、中へ入りました。


 検査室は明るく、ひんやりしていました。


 中央には、大きな白い輪があります。


 真珠はそれを見上げます。


「……大きな浮き輪」


 小さく呟きました。


 もちろん、浮き輪ではありません。


 これをプールへ投げ込んだら大変なことになります。


 そんなくだらないことを考えられる程度には、いつもの真珠でした。


 寝台へ仰向けになります。


 硬い感触が背中へ伝わりました。


 水の上とは、まるで違います。


 プールなら、身体の力を抜けば水が支えてくれました。


 胸を沈めれば腹へ。


 腹から腰へ。


 腰から尾びれへ。


 身体を水へ預けることで、真珠は人魚のように泳げるようになりました。


 けれど今日は。


 白い寝台へ身体を預けます。


「動かないでくださいね」


「はい」


 真珠は目を閉じました。


 機械の音がします。


 寝台がゆっくり動き始めました。


 水はありません。


 泡もありません。


 青い光もありません。


 ただ、機械だけが真珠の身体を静かに調べていきます。


 自分では見ることのできない場所。


 触れることもできない場所。


 そこに何があるのかを、現代医学は画像にして見せてくれます。


 おとぎ話の魔法より、ずっと地味です。


 けれど。


 ずっと正確です。

 

 挿絵(By みてみん)


          ◇


 検査が終わっても、答えがその場でもらえるわけではありません。


 服を整え、廊下へ戻ります。


 待ちます。


 病院では、待つことも大切な仕事です。


 真珠は椅子へ腰を下ろしました。


 スマートフォンを取り出します。


 画面を開く。


 閉じる。


 また開く。


 特に見たいものがあるわけではありません。


 時計を見る。


 数分しか経っていません。


「長いなあ」


 水族館で一時間働くのは、あっという間なのに。


 病院で結果を待つ十分は、どうしてこんなに長いのでしょう。


 真珠は脚を揃えました。


 もちろん今日は尾びれなどついていません。


 二本の脚です。


 第4話では、二本の脚が使えないことに驚きました。


 人間の身体は便利だ、と感心しました。


 今、その二本の脚が床についています。


 真珠は自分の膝を見つめました。


 この身体で大学へ行きました。


 この脚で水族館の床を歩きました。


 この手で尾びれを作りました。


 この肺に空気を入れて、水の中へ潜りました。


 この腹と腰で波を作り、イルカの真似をしました。


 そして、この血が。


 今も身体中を流れています。


 人魚の血ではありません。


 何の不思議な力も持っていない、人間の血です。


 けれど。


 真珠にとっては、たった一つしかない血でした。


          ◇


「どうぞ」


 診察室へ呼ばれました。


「失礼します」


 真珠は椅子へ座ります。


 机の向こうには医師がいます。


 その横の画面には、先ほど撮影した画像が映っていました。


 白。


 黒。


 灰色。


 輪切りになった身体の中。


 真珠はじっと見ました。


 自分の身体なのに、知らない国の地図のようです。


 医師は画像を動かしながら、ひとつずつ説明していきます。


 どこを見ているのか。


 何が写っているのか。


 以前と比べてどうなのか。


 そして。


 どこに、問題があるのか。


 真珠は聞いていました。


 途中で質問もしました。


 わからない言葉は聞き返しました。


「それは、つまりどういう意味ですか?」


 説明を聞きます。


「なるほど」


 頷きます。


 また次の説明。


 難しい言葉が出ます。


「ごめんなさい。そこ、もう一回お願いします」


 もう一度説明してもらいます。


 真珠は頷きました。


 わからないまま帰るのは嫌でした。


 自分の身体の話なのです。


 怖いから聞かない、という選択もできたでしょう。


 けれど真珠は、怖いからこそ聞きました。


 画像が切り替わります。


 医師の指が、ある場所で止まりました。


 真珠の視線も止まります。


 そこにあるもの。


 それは、昔話の怪物ではありません。


 呪いでもありません。


 海の魔女が置いていったものでもありません。


 現実に、自分の身体の中にあるものです。


「……これですか」


「はい」


 真珠は画面を見つめました。


 不思議でした。


 もっと恐ろしい姿をしていると思っていました。


 黒い影か。


 尖った何かか。


 見るだけで悪いものだとわかる形か。


 けれど、画像の中にあるそれは。


 ただ、そこにありました。


 人間が名前をつけなければ、それが何なのかさえわからないような姿で。


 真珠は少しだけ唇を結びました。


          ◇


 怖くないわけがありません。


 二十二歳です。


 まだやっていないことが、山ほどあります。


 行ったことのない場所があります。


 食べたことのないものがあります。


 読みたい本があります。


 見たい映画があります。


 大学も卒業しなければなりません。


 水族館では、まだ覚えていない仕事があります。


 尾びれだって、もっと改良できます。


 イルカ先生には、一度くらい勝ってみたいところです。


 無理でしょうけれど。


 来年。


 再来年。


 五年後。


 十年後。


 昨日までは遠くに見えていた未来が、診察室では急に輪郭を持ち始めます。


 真珠は両手を膝の上で重ねました。


 少し冷たい。


 自分の手なのに。


 医師は説明を続けています。


 これから何を調べるのか。


 どういう治療が考えられるのか。


 何を確認していくのか。


 聞き慣れない言葉が、いくつも出てきます。


 真珠は聞きました。


 一つずつ。


 逃げずに。


 けれど、強がりもしませんでした。


「先生」


「はい」


「怖いですね、これ」


 真珠は言いました。


 医師は少し間を置いてから、頷きました。


 それでよかったのです。


 怖いものを、怖くないことにする必要はありません。


 人魚になれたからといって、勇者になったわけではないのですから。


 真珠は息を吐きました。


 長く。


 ゆっくり。


 プールの中で、水へ身体を預けたときのように。


 水と喧嘩をしない。


 力を入れすぎない。


 押し返されるものを、無理やり押し返そうとしない。


 あのときイルカから教わったことは、病院では役に立たないはずでした。


 けれど、少しだけ似ているような気がしました。


 病気と喧嘩をしない、という意味ではありません。


 戦わなくていい、という意味でもありません。


 ただ。


 怖いという自分まで敵にしなくてもいい。


 わからないなら聞く。


 できないなら助けてもらう。


 そして、自分で進めるところでは、自分で進む。


 水の中には道がありませんでした。


 病気の先にも、きっと決まった道などありません。


 だったら。


 また、自分で行き先を探せばいい。


 挿絵(By みてみん)


          ◇


 説明が一段落しました。


 診察室に、短い静けさが訪れます。


 真珠はもう一度、CT画像を見ました。


 自分の身体。


 自分の血。


 自分の病気。


 そして、自分の命。


 第1話で問いかけた言葉が、ふいに頭へ浮かびました。


 ――永遠に生きるとは、どんなことなのでしょう。


 あのときは、ずいぶん大きな問いだと思っていました。


 永遠。


 不老不死。


 人魚の血。


 何百年も生き続ける人間。


 けれど今の真珠には、永遠など大きすぎました。


 明日のほうが大切です。


 次の季節。


 来年。


 大学を卒業する日。


 また水族館へ行く日。


 もう一度、尾びれをつける日。


 そんな一日一日のほうが、ずっと欲しい。


 永遠でなくていい。


 まだ終わりたくない。


 真珠は、そう思いました。


 それは、とても小さな願いです。


 けれど。


 命をつなぐ願いとは、案外そういうものなのかもしれません。


          ◇


「先生」


 真珠が呼びました。


「はい」


「ひとつだけ、変なこと言ってもいいですか?」


 医師が真珠を見ます。


「どうぞ」


 真珠は画面を指さしました。


「私、人魚になったんですよ」


 医師の表情が止まりました。


 当然です。


 CT画像を前に突然そんなことを言われたら、どんな医師でも少し困ります。


 真珠は吹き出しました。


「いや、本当に。尾びれ作って、泳げるようになったんです」


「……そうなんですね」


「はい。結構ちゃんと泳げます。ハートの泡も作れます」


 医師はどう返事をすればいいのか、ますます困っているようでした。


 真珠は笑います。


 その笑いは、病気を軽く見ているから出たものではありません。


 怖さが消えたからでもありません。


 怖いままです。


 これから何が起こるのかも、まだ全部はわかりません。


 それでも。


 病気を知る前に笑っていた真珠と。


 病気を知ったあとに笑う真珠は。


 同じ真珠でした。


 病気になったからといって、人間が丸ごと別の誰かになるわけではありません。


 明るい人は笑います。


 冗談を言う人は冗談を言います。


 泣きたい日は泣くでしょう。


 腹が立つ日もあるでしょう。


 そして、お腹だって空きます。


 人は病気になると「患者」と呼ばれます。


 けれど、患者になる前に。


 その人は、一人の人間なのです。


 真珠はもう一度CT画像を見ました。


 そして、ほんの少しだけ首を傾げます。


 昔のおとぎ話なら。


 ここで人魚の血を一滴飲めば、すべて解決したのかもしれません。


 けれど令和には、そんな便利な血はありません。


 代わりに。


 検査があります。


 薬があります。


 医師がいます。


 看護師がいます。


 たくさんの人がいます。


 そして。


 生きたいと思っている、自分がいます。


 真珠は少し笑いました。


「先生」


「はい」


 CT画像を見たまま、言いました。


「やはり、人魚でも死ぬかもね」


 診察室の白い光は、何も答えませんでした。


 けれど。


 それでいいのです。


 おとぎ話は、いつだって答えを教えてくれるわけではありません。


 ときには問いだけを残して、終わることもあります。


 人魚の血は、本当に命をつなぐのでしょうか。


 永遠に生きることは、幸せなのでしょうか。


 そして。


 限りがあるかもしれない命を、それでも生きたいと願うことは――。


 いったい、どんなことなのでしょう。


 令和の人魚姫のお話は。


 ここで、いったんおしまいです。


 めでたし、めでたし。


 そう書いてしまうには。


 ほんの少しだけ、続きを生きなくてはならないようでした。

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