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第7話 ~人魚の血~

ここまで、

真珠が「人魚になるまで」の物語をお読みいただき、ありがとうございます。


第1話と同じ題名――『人魚の血』。


なぜ、この物語を「永遠の命」という昔話から始めたのか。

ここから少しずつ、その答えへ戻ります。


令和の人魚姫に、魔法はありません。

あるのは、おとぎ話と現実だけです。

昔から、人魚の血には不思議な力があるといわれています。


 人の命をつなぎ、老いを遠ざけ、ときには永遠の命さえ与えるのだと。


 もちろん、おとぎ話です。


 令和の病院で、


「人魚の血を処方してください」


 などとお願いしても、お医者さんはきっと困るでしょう。


 薬局へ処方箋を持っていっても、人魚の血は出てきません。


 けれど、おとぎ話というものは不思議です。


 そんなものは存在しないと知っていても、ときどき人は、その中に自分の願いを預けます。


 真珠も、そうでした。


          ◇


 真珠が自分の身体の異変を知ったのは、人魚の尾びれを作るよりも前のことでした。


 大学へ行き、水族館で働き、友人と笑い、帰りにコンビニへ寄る。


 そんな、ごく普通の日々の中です。


 最初から、何か劇的なことが起きたわけではありません。


 ある日突然倒れたわけでもありません。


 救急車の赤い光の中で運ばれたわけでもありません。


 ただ、調べる必要があって。


 調べてみたら、もう少し詳しく調べる必要ができました。


 そして、詳しく調べれば調べるほど、聞いたことのない言葉が増えていきました。


 検査。


 血液。


 画像。


 腫瘍。


 そんな言葉が、自分とは関係のない世界から、少しずつ近づいてきたのです。


 病院から帰った日の夜。


 真珠はベッドの上でスマートフォンを眺めていました。


 検索窓には、病院で聞いた言葉が残っています。


 ひとつ調べる。


 知らない言葉が二つ増える。


 その二つを調べる。


 さらに知らない言葉が増える。


「……増えるなあ」


 思わず呟きました。


 勉強熱心なのはよいことですが、

 インターネットという先生は、聞いてもいないことまで教えてくれます。


 真珠はスマートフォンを伏せました。


 天井を見ます。


 いつもと同じ天井でした。


 明日になれば大学があります。


 水族館へ行けば仕事があります。


 床が濡れていれば拭かなければなりません。


 お客さんに声をかけられれば、


「ありがとうございます!」


 と笑うでしょう。


 世界は何も変わっていないように見えました。


 けれど、自分の身体の中だけが。


 昨日までとは、少し違うものになったような気がしました。


          ◇


 怖くなかった、といえば嘘になります。


 二十二歳です。


 これから先の予定なら、いくらでもありました。


 大学を卒業する。


 仕事をする。


 遊びに行く。


 おいしいものを食べる。


 くだらないことで笑う。


 失敗する。


 恋をするかもしれない。


 しないかもしれない。


 十年後には、今とはまるで違う場所にいるかもしれない。


 そんな未来は、それまで真珠にとって「あるのが普通」のものでした。


 明日は来る。


 来年も来る。


 十年後だって、たぶん来る。


 若いということは、ときどき未来を無限に感じられることなのかもしれません。


 ところが一度、

 自分の身体に「病気」という言葉が置かれると、その当たり前が少し揺れました。


 来年は?


 五年後は?


 十年後は?


 そこまで考えて、真珠は布団を頭までかぶりました。


「やめやめ」


 考えたところで、今夜答えが出るわけではありません。


 怖いものは、怖い。


 それでいい。


 ただし、怖がるだけで一日を使ってしまうのは、なんだかもったいない。


 布団から顔を出した真珠は、もう一度スマートフォンを手に取りました。


 けれど今度は、病気のことを検索しませんでした。


 検索窓に入れたのは――。


 人魚。


          ◇


 子どものころから、人魚が好きでした。


 水の中を自由に泳ぐ姿が好きでした。


 人間にはない尾びれも。


 青い海の中をどこまでも進んでいけることも。


 だから、人魚になりたいという夢そのものは、

 病気になるよりずっと前から真珠の中にありました。


 病気になったから生まれた夢ではありません。


 そこだけは、間違えてはいけません。


 けれど。


 昔話の中にある、もう一つの人魚。


 その血や肉には、人の命を長くする力がある。


 そんな伝承を読み返したとき。


 真珠は少しだけ笑いました。


「……ずるいなあ、人魚」


 水の中を自由に泳げて。


 綺麗な尾びれまで持っていて。


 そのうえ、命まで長いというのです。


 ずいぶん欲張りな生き物です。


 真珠は画面を眺めたまま、しばらく考えました。


 そして。


「それなら、人魚になってみよう」


 誰に聞かせるでもなく、そう言いました。


 もちろん、本気で人魚の血が自分の身体に流れると思ったわけではありません。


 尾びれを作れば病気が治るとも思っていません。


 真珠はおとぎ話と現実の区別くらい、ちゃんとついていました。


 だからこそ。


 これは願掛けでも、治療でもありません。


 もっと単純なことでした。


 いつかやりたかったことを。


 いつかではなく、今やってみる。


 ただ、それだけです。


 夢を見るだけなら、明日でもできます。


 来年でもできます。


 十年後でもできるでしょう。


 けれど。


 その十年後が必ず来るなんて、誰が約束してくれるのでしょう。


 ならば――。


 作ればいい。


 泳げばいい。


 人魚になりたいのなら、なってしまえばいい。


 そうして真珠は材料を調べました。


 尾びれを作りました。


 水へ入りました。


 まったく泳げませんでした。


 イルカを勝手に先生にしました。


 水と喧嘩することをやめました。


 そしてとうとう、水中でハートの泡を作って遊べるほどになりました。


 人魚になるという夢を、本当に叶えてしまったのです。


          ◇


 真珠は水槽の前に立っていました。


 青い光が頬を照らします。


 向こう側を魚たちが泳いでいます。


 水の中には道がありません。


 上へ行ってもいい。


 下へ行ってもいい。


 右でも、左でもいい。


 どこへ進むかは、自分で決められます。


 第2話のころ、真珠が憧れた自由です。


 けれど今なら、もう一つわかります。


 自由というものは。


 どこまでも進めることではなく。


 進めるうちに、自分で行き先を選べることなのかもしれません。


「真珠ちゃん?」


 後ろから声をかけられました。


「はーい!」


 真珠はいつもの声で振り返ります。


 仕事が残っています。


 考え事をしていても、水族館の床は勝手に綺麗にはなりません。


 真珠は歩き出しました。


 数歩進んでから、もう一度だけ水槽を振り返ります。


 そして小さく笑いました。


「人魚には、なったしね」


 永遠の命は、まだ手に入っていません。


 当たり前です。


 そもそも、そんなものがあるのかどうかさえわかりません。


 けれど、ひとつだけ。


 人魚になる前とは違うものを、真珠はもう持っていました。


 いつかではなく、今を選ぶこと。


 怖くても、笑うこと。


 そして。


 自分の身体を、自分の人生を、これから先も使っていきたいと思うこと。


 昔のおとぎ話では、人魚の血が人の命をつなぎました。


 では、令和では。


 何が人の命をつなぐのでしょう。


 薬でしょうか。


 医師でしょうか。


 機械でしょうか。


 それとも――生きたいと願う、人の心でしょうか。


 その答えを探すために。


 令和の人魚姫は、今度は水族館ではなく。


 白い病院へ向かいます。


 そこで彼女を待っているのは、魔法でも伝説でもありません。


 現代医学です。

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