第6話 ~令和の人魚になりました~
人魚は、どうなれば人魚なのでしょう。
尾びれがあれば、人魚でしょうか。
水の中を泳げれば、人魚でしょうか。
それとも、海の底のお城に住み、
魚たちと言葉を交わせるようにならなければ、人魚とは呼べないのでしょうか。
真珠には、まだわかりません。
けれど一つだけ、わかるようになったことがありました。
人魚はきっと――泳ぐことを頑張ったりはしないのです。
◇
あれから真珠は、何度も水へ入りました。
最初のころは、胸から腹へ、腹から腰へ、腰から脚へ、
と一つずつ頭の中で確認していました。
身体の波を尾びれまで届ける。
力を入れすぎない。
水と喧嘩をしない。
水へ身体を預ける。
けれど、それを何度も繰り返しているうちに、いつしか考えることが減っていきました。
歩くときに、右脚を出して、次に左脚を出して――などと考えないのと同じです。
泳ごうと思えば、身体が動く。
潜ろうと思えば、胸が沈む。
浮かびたいと思えば、身体の角度が自然に変わる。
右へ行きたい。
左へ行きたい。
少し深く。
今度は水面へ。
思ったことが、そのまま身体へ伝わるようになりました。
そうなって初めて、真珠は水の中を見る余裕を持ちました。
水面から差し込む光。
底で揺れている光の模様。
自分の腕を撫でて後ろへ流れていく、小さな気泡。
尾びれを動かすたび、鱗模様の表面を光が走ります。
「…………」
真珠は水中で笑いました。
もちろん、声は出せません。
代わりに口元から、小さな泡がこぼれました。
ぽこっ。
その泡が、ゆっくり水面へ昇っていきます。
真珠は目で追いました。
ぽこ。
ぽこぽこ。
息を少しずつ吐いてみます。
大きな泡。
小さな泡。
連なった泡。
これまでは呼吸のためだけに使っていた空気が、
今日はなんだか玩具のように思えました。
真珠は水面へ上がります。
「……遊べるじゃん」
誰に言うでもなく呟きました。
そして、また潜ります。
泳ぐ練習をするためではありません。
今日は、水の中で遊ぶために。
◇
最初に思いついたのは、輪っかでした。
真珠は水中で姿勢を整え、口から少し強めに空気を吐き出します。
ぼこっ。
「…………」
ただの大きな泡でした。
もう一度。
ぼこぼこっ。
今度は二つに割れました。
真珠は眉を寄せます。
なぜか妙に悔しい。
泳げなかったころに比べれば、どうでもいい失敗です。
けれど、できないと思うとやりたくなる。
そういう性格なのです。
何度か試しているうちに、少しだけ形を作れるようになりました。
口の開き方。
吐き出す空気の量。
顔の角度。
そして、水の流れ。
真珠は気づきました。
ここでも同じです。
力任せでは駄目でした。
強く吹けば形になるわけではありません。
水の動きを感じながら、そこへ空気をそっと渡してやる。
すると泡は、思ったより長く形を保ちました。
真珠は水面へ上がり、大きく息を吸います。
「ふふふ……」
何かを思いつきました。
よからぬ顔です。
もっとも、人魚が水中で思いつく悪だくみなど、たいしたものではありません。
「輪っかができるなら……」
両手の指を合わせました。
親指と人差し指で形を作ります。
「ハートも、いけるんじゃない?」
こうして令和の人魚姫は、誰からも頼まれていない新技の開発を始めました。
◇
結果から申し上げますと。
ハートは、簡単ではありませんでした。
一回目。
丸。
二回目。
丸。
三回目。
なんとなく三角。
四回目。
ただの泡。
五回目。
途中まではよかったのに、水面へ昇る途中で崩壊。
「…………」
真珠は水中で腕を組みました。
尾びれをつけたまま、水中で腕を組んで考え込む女性。
少々珍しい光景です。
しかし本人は真剣でした。
いったん水面へ戻ります。
「上が割れるんだよね」
指先で空中にハートを描きます。
「ここを少しへこませて……」
泳ぎ方を覚えたときと同じでした。
失敗する。
考える。
少し変える。
また試す。
尾びれを作ったときから、真珠のやり方は変わりません。
夢というものは、願っているだけではなかなか近づいてきてくれません。
けれど手を伸ばして、失敗して、もう一度手を伸ばせば。
ほんの少しだけ、こちらへ近づいてくれることがあります。
真珠は再び潜りました。
身体を水平に保ちます。
今日はもう、その姿勢を作ることに意識はいりません。
尾びれがゆっくり揺れています。
水の動きを待ちました。
そして。
口元から、そっと空気を送り出します。
ぽこっ。
泡が広がります。
真珠は指先を添えました。
丸かった泡の上側が、ほんの少しくぼみます。
左右が膨らむ。
下側が細くなる。
「…………!」
ハートです。
少し不格好です。
左右の大きさも違います。
それでも確かに、ハートでした。
真珠は思わず笑いました。
ぶくぶくぶくっ。
せっかくできたハートが、その笑いで一瞬にして崩れました。
真珠は両手で口を押さえます。
遅すぎました。
◇
それから、また何度も練習しました。
今度は一つ。
次は少し大きく。
身体を傾けながら。
ゆっくり泳ぎながら。
やがて真珠は、泳いでいる途中でも泡の形を作れるようになりました。
水中を進む。
身体をしならせる。
胸から生まれた波が腰を通り、尾びれへ抜けていく。
青紫と銀色の尾びれが、光の中を揺れます。
真珠は少しだけ身体をひねりました。
水の流れに乗り、そのまま横へ。
もう腕で必死に水をかく必要はありません。
少し潜る。
水面を見上げる。
光がきらきらと揺れています。
真珠は、その光へ向かって息を吐きました。
ひとつ。
ふたつ。
そして――ハート。
小さな泡のハートが、真珠の顔の前で揺れました。
今度は笑って壊さないよう、口元だけで微笑みます。
そのままハートは、ゆっくり水面へ昇っていきました。
真珠は尾びれを一度、大きくしならせます。
するり。
身体が前へ出ます。
もう「泳ぐ」という言葉すら、頭にはありませんでした。
ただ、水の中にいる。
それだけでした。
◇
水から上がった真珠は、プールサイドに腰を下ろしました。
濡れた髪を後ろへ払い、自分の尾びれを見ます。
傷も増えました。
補修した跡もあります。
最初に作ったときほど、ぴかぴかではありません。
けれど真珠には、今のほうがずっと美しく見えました。
これはもう、机の上に置いて眺めるための夢ではありません。
一緒に失敗しました。
一緒に沈みました。
水を叩いて、ひっくり返って、何度も作り直して。
そして今は、自分を水の中へ連れていってくれます。
「……なれたかな」
真珠は小さく呟きました。
誰も答えません。
だから、自分で答えることにしました。
「うん」
真珠は笑います。
「なれた」
魔法は使いませんでした。
人魚の血を飲んだわけでもありません。
神様にお願いしたわけでもありません。
ホームセンターへ行きました。
材料を買いました。
尾びれを作りました。
失敗しました。
泳げませんでした。
イルカを先生にしました。
何度も水へ入りました。
そして最後には、水の中でハートまで作って遊べるようになりました。
昔のおとぎ話の人魚姫とは、ずいぶん違います。
けれど。
令和には、令和の人魚姫がいてもよいのでしょう。
人魚になりたいと願った女の子は、自分の手で尾びれを作り、
自分の身体で泳ぎ方を覚えました。
そしてとうとう――。
令和の人魚になりました。
めでたし。
めでたし。
……と。
昔のおとぎ話なら、ここで本を閉じるところです。
けれど、この物語には。
まだ、最初に置いたままになっている問いがありました。
永遠に生きるとは、どんなことなのでしょう。
その答えを探すには。
もう一度だけ――。
人魚の血のお話へ、戻らなくてはなりません。
――人魚の血――
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
真珠はとうとう、人魚になりました。
尾びれを自分で作り、泳げなくて悪戦苦闘し、イルカを先生にして、
最後には水の中でハートまで作るようになりました。
童話なら、ここで「めでたし、めでたし」。
本を閉じてもよいところです。
けれど、この物語の第1話には『人魚の血』という、少し不思議な題名をつけました。
昔から伝わる、人魚の肉を食べれば老いない、
人魚の血には命をつなぐ力がある――そんなおとぎ話。
なぜ、令和の女の子が人魚になる物語を、
わざわざ「永遠の命」の話から始めたのでしょう。
そして先日のあとがきには、物語とは何の関係もなさそうな、
実際の血液検査の数字を三つだけ置きました。
あれも、間違えて載せたわけではありません。
ただし、今ここで答えを書くのはやめておきます。
人魚の血は、本当に人を長く生かしてくれるのでしょうか。
もし、おとぎ話の中にしか存在しない「人魚の血」と、
令和の「現代医学」を同じ場所に並べたなら
――どちらが人の命をつなぐのでしょう。
あるいは、この二つは最初から競うものではないのかもしれません。
数字には、数字なりのお話があります。
そして、おとぎ話にも、おとぎ話だからこそ語れる「生きること」のお話があります。
次のお話では、少しだけ。
第1話へ戻ってみましょう。




