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第5話 ~先生はイルカ~

よい先生というものは、必ずしも言葉で教えてくれるとは限りません。


 黒板も使いません。


 教科書も開きません。


 宿題だって出しません。


 ただ、泳ぎます。


 今日の真珠の先生は、一頭のイルカでした。


          ◇


 水族館の朝は早いものです。


 お客さんがやって来るよりもずっと前から、飼育員たちは動き始めています。


 水槽の確認。


 餌の準備。


 設備の点検。


 床には水が跳ね、あちこちから機械の低い音が聞こえていました。


「おはようございまーす!」


 いつものように元気よく挨拶をした真珠も、自分の仕事を片づけていきます。


 けれど今日は、ときどき視線が横へ逃げました。


 その先にいるのは、イルカです。


 昨日までなら、かわいいな、速いな、くらいにしか思っていませんでした。


 ところが一度「先生」と思ってしまうと、見え方が変わります。


「…………」


 一頭のイルカが、水中を横切ります。


 速い。


 けれど、忙しそうではありません。


 人間が全力で泳ぐときのように、必死に水をかいているわけでもない。


 身体を大きく折り曲げているわけでもありません。


 それなのに、するすると進んでいきます。


 真珠は水槽の前で、少し腰を落としました。


「尾びれじゃないんだ」


 昨日の自分は、尾びればかり動かしていました。


 大きく。


 強く。


 もっと水を押そうとして。


 そのたびに姿勢が崩れました。


 けれど目の前のイルカは違います。


 頭の後ろから胴へ。


 胴から尾へ。


 身体全体を通って、小さな波が流れていく。


 最後に尾びれが水を押す。


 尾びれだけが泳いでいるのではありません。


 身体全部で泳いでいるのです。


「なるほど……」


 真珠は腕を組みました。


「先生、わかりやすいです」


 イルカはそのまま通り過ぎました。


「無視ですか」


 もちろんです。


 授業料を払った覚えもありません。


          ◇


 その日の練習。


 真珠は昨日と同じドルフィンテールを身につけ、水へ入りました。


 けれど、一つだけ違うことがあります。


 今日は、急ぎません。


 水面へ身体を浮かべます。


 まず、何もしない。


 水が頬を撫でます。


 耳が沈むと、外の音が遠くなりました。


 昨日までは、進むことばかり考えていました。


 前へ。


 もっと前へ。


 そのために水を押そうとしていた。


 けれど今日は、水そのものを感じてみます。


 胸の下にある水。


 腹を支える水。


 腰を包む水。


 そして、長い尾びれの周囲にある水。


「……よし」


 真珠は息を吸いました。


 胸を少し沈めます。


 その動きを腹へ送る。


 腹から腰へ。


 腰から脚へ。


 そして尾びれへ。


 ゆらり。


 身体が前へ出ました。


 昨日のような偶然ではありません。


 もう一度。


 胸。


 腹。


 腰。


 脚。


 尾びれ。


 ゆらり。


 また進みます。


「おお……」


 嬉しくなった真珠は、少し力を入れました。


 途端に身体が折れました。


「ぶっ!」


 顔を上げます。


「欲張ると駄目なのね」


 水は正直でした。


 こちらが慌てれば、動きも乱れます。


 力任せに押せば、力任せに押し返されます。


 真珠はもう一度、力を抜きました。


 水面へ浮かぶ。


 呼吸を整える。


 身体をまっすぐにする。


 それから、小さく動き始めます。


 胸から。


 腹へ。


 腰へ。


 尾びれへ。


 何度も。


 何度も。


 昨日まで別々だった動きが、少しずつ一つになっていきます。


 尾びれを動かそうとしなくても、身体の波が最後まで届けば、

尾びれは自然についてきました。


 真珠はそこで、ようやく気づきました。


「私……水と喧嘩してたんだ」


 昨日は水に勝とうとしていました。


 強く蹴って。


 強く押して。


 自分の行きたい方向へ、水を無理やり退かそうとしていました。


 けれど水は、道ではありません。


 踏みしめる地面でもありません。


 身体を包み、支え、ときには押し返してくるものです。


 ならば。


 勝たなくてもいい。


 真珠は腕を身体の横へ添えました。


 水へ、身体を預けます。


 そして、胸から小さな波を作りました。


 するり。


 身体が前へ滑りました。


「……あ」


 もう一度。


 するり。


 水が頬から耳へ流れていきます。


 目の前の景色が、ゆっくり後ろへ動きます。


 昨日とは違いました。


 頑張って進んでいる感じがしません。


 水を押しのけているのでもない。


 自分の身体が、水の中へ溶け込んでいくようでした。


          ◇


 それから真珠は、毎日のように泳ぎました。


 一日で人魚になれるほど、現実は都合よくできていません。


 うまくいった翌日に、また崩れることもあります。


 速く泳ごうとして失敗する日もありました。


 曲がろうとして、思った方向とは反対へ進んだこともあります。


 水面へ上がるつもりが、なぜか少し潜ってしまい、


「そっちじゃない!」


 と、水中で自分へ文句を言ったこともありました。


 けれど失敗するたびに、真珠は一つずつ覚えていきました。


 身体をどこから動かせばいいのか。


 どこで力を抜けばいいのか。


 尾びれが水をつかんだ瞬間は、どんな感覚なのか。


 そして何より――水に身体を預けること。


 それを覚えると、真珠の泳ぎは変わりました。


 大きな動きが減っていきます。


 水しぶきも減りました。


 身体の中を通る波だけが、少しずつ滑らかになっていきます。


 ある日。


 真珠は水中で、ふと横を見ました。


 水槽の向こうを、あのイルカが泳いでいます。


 真珠も身体をしならせました。


 イルカが進む。


 真珠も進む。


 もちろん速さは比べものになりません。


 先生は、あっという間に先へ行ってしまいます。


「待ってよ」


 水中なので声にはなりません。


 代わりに、口から泡がこぼれました。


 ぽこぽこぽこ。


 真珠は笑います。


 するとまた泡が出ました。


 まだイルカには追いつけません。


 けれど昨日までのように、必死に腕で水をかくこともありません。


 追いかける必要すらないような気がしました。


 自分には、自分の速さがあります。


 真珠は身体を少し傾けました。


 水が肩を滑ります。


 腰から尾びれへ波を送り、そのまま緩やかに方向を変える。


 できました。


 もう一度。


 今度は反対へ。


 できました。


「…………!」


 声を出せない真珠の顔が、ぱっと明るくなりました。


 嬉しくなって、少し速く泳ぎます。


 今度は崩れません。


 水が身体の横を流れていきます。


 上も。


 下も。


 右も。


 左も。


 地上のような道は、どこにもありません。


 だからこそ――どこへでも行けます。


 真珠はようやく、憧れていた水の自由を、自分の身体で知り始めていました。


          ◇


 練習を終え、真珠はプールサイドへ上がりました。


 息を弾ませながら、仰向けに寝転がります。


「疲れたあ……」


 天井を見上げました。


 身体は重い。


 腹も腰も、しっかり疲れています。


 けれど昨日とは違う疲れでした。


 できなかったことを無理やり続けた疲れではありません。


 できるようになった身体を、何度も確かめた疲れです。


 真珠は横を向きました。


 向こうでは、先生が今日も悠々と泳いでいます。


「ありがとうございました、先生」


 いつもの接客と同じように、丁寧に頭を下げました。


 イルカは水面から顔を出します。


 ぷしゅっ。


 呼吸孔から空気が弾けました。


 真珠は目を丸くします。


 それから、声を上げて笑いました。


「それ、返事ってことでいい?」


 たぶん違います。


 けれど、おとぎ話なのですから。


 今日くらいは、そういうことにしておきましょう。


 人魚になりたい女の子は、尾びれを作りました。


 泳げなくて困りました。


 そして、イルカから水との付き合い方を教わりました。


 けれど真珠は、まだ自分のことを人魚とは呼びません。


 だって、泳ぐことにまだ一生懸命なのです。


 水の中で遊ぶ余裕なんて、まだありません。


 人魚ならきっと。


 泳ぐことさえ忘れて、水の中を楽しむのでしょう。


 それができたとき――。


 令和の人魚姫は、本当に生まれるのかもしれません。

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