第4話 ~人魚は泳げない~
昔のおとぎ話では、人魚は生まれたときから人魚です。
誰かに泳ぎ方を教わる必要もなければ、尾びれの使い方を練習する必要もありません。
海へ飛び込めば、すいすいと泳いでいきます。
けれど、令和の人魚姫は違いました。
真珠は二十二年間、人間として生きてきました。
そして今日。
その二十二年間で初めて――両脚を一本にして、水へ入ろうとしていました。
「……よし」
プールサイドに腰を下ろした真珠は、自分の脚を見下ろします。
足先から腰の近くまでを覆う、自作のドルフィンテール。
青紫から銀色へ移る鱗模様は、水辺の光を受けて思った以上に美しく輝いていました。
何度も作り直した内部の骨組み。
水を押すための大きなフィン。
緊急時には自分で外せる固定具。
昨夜まで机の上にあったものが、いまは自分の身体につながっています。
見た目だけなら、なかなかのものです。
「ふふっ」
真珠はちょっと嬉しくなりました。
足を揃えたまま、尾びれを上下させてみます。
ぱたん。
「おお」
もう一度。
ぱたん。
「……人魚だ」
まだ水にも入っていないのに、たいへん満足そうです。
しかし。
人魚になるという夢に浮かれていても、水は手加減してくれません。
真珠はプールの縁に両手をつき、ゆっくりと身体を水へ滑らせました。
ひやり。
腰。
胸。
肩。
水が身体を包みます。
ここまでは、いつもと同じでした。
真珠は泳ぐことが苦手ではありません。
水族館で働いていることもあり、水そのものへの怖さもない。
だから、少しくらい変わった泳ぎ方でも何とかなると思っていました。
「じゃ、いきますか」
壁を軽く蹴りました。
すうっと身体が前へ出ます。
真珠は腰を曲げ、尾びれを動かしました。
ばしゃん。
「ん?」
もう一度。
ばしゃっ。
「…………あれ?」
進みません。
正確には、壁を蹴った勢いがなくなった途端、ほとんど前へ進まなくなりました。
尾びれだけは立派に動いています。
水も盛大に動いています。
なのに身体は進みません。
「待って待って」
真珠は反射的に右脚を動かそうとしました。
動きません。
では左脚。
こちらも動きません。
当然です。
自分で一本にしたのですから。
「あっ、そっか!」
今さら気づきました。
いつもの泳ぎなら、右脚と左脚を交互に使えます。
姿勢が崩れれば、どちらかの脚で水を蹴ればいい。
ところが今は、それができません。
右へ傾けば、そのまま右へ。
左へ傾けば、そのまま左へ。
人間が二本の脚を持っていることには、ちゃんと意味があったのです。
「人間、便利……!」
人魚になりたい女の子が、人間の身体へ感心していました。
◇
二度目。
今度は慎重に壁を蹴ります。
腕を前へ伸ばし、身体を一直線にする。
昨日まで何度も動画で見たドルフィンキックを思い出しました。
胸。
腹。
腰。
脚。
尾びれ。
頭の中では完璧です。
「……こう!」
腰を大きく振りました。
尾びれが水を押します。
その反動で上半身が浮きました。
「おっ――」
次の瞬間、身体がくの字に曲がります。
「ぶっ!」
水面へ顔を出した真珠は、髪をかき上げました。
前へ進むために使った力のほとんどが、身体を上下させるために消えてしまったようです。
「難しいなあ……」
今度は尾びれを強く振ってみます。
ばしゃん。
さらに強く。
ばしゃん!
水しぶきだけは立派でした。
人魚というより、巨大な魚が浅瀬で暴れているようです。
それでも真珠は何度も試しました。
壁へ戻る。
姿勢を整える。
蹴る。
沈む。
戻る。
蹴る。
曲がる。
また戻る。
そして、だんだん腹が立ってきました。
「もうっ!」
思わず腕で水をかきます。
すると――。
すいっ。
進みました。
「…………」
真珠は止まりました。
もう一度、腕で水をかきます。
すいっ。
「いやいやいや」
これは違います。
これでは、尾びれをつけた人が腕で泳いでいるだけです。
真珠がやりたいのは、人魚のように泳ぐこと。
腕はできるだけ使わず、身体と尾びれで水を押して進みたいのです。
真珠はプールの縁につかまり、息を整えました。
水面が小さく揺れています。
自分が暴れたぶんだけ、水はいつまでも波打っていました。
「……力、入れすぎ?」
ふと、そんな言葉がこぼれました。
強く蹴れば進むと思っていました。
尾びれを大きく振れば、そのぶん速くなると思っていました。
けれど実際には、力を入れるほど身体は折れ、水はあちこちへ逃げていきます。
真珠は水面へ身体を浮かべました。
今度は、泳ぎません。
ただ浮かびます。
耳が水へ沈み、周囲の音が遠くなりました。
水の中では、自分の呼吸だけが妙に大きく聞こえます。
胸が少し沈む。
息を吸うと浮く。
吐けば、また沈む。
身体は何もしなくても、水の中でわずかに動いていました。
「胸から……」
小さく胸を沈めます。
その動きを腹へ。
腹から腰へ。
腰から、揃えた脚へ。
大きく動かそうとはしませんでした。
ただ、一つの動きを後ろへ送っていく。
胸。
腹。
腰。
脚。
最後に、尾びれ。
ゆらり。
水の中で尾びれがしなりました。
真珠の身体が、ほんの少しだけ前へ動きます。
「……ん?」
顔を上げました。
気のせいかもしれません。
もう一度。
胸から始める。
腹。
腰。
脚。
尾びれ。
ゆらり。
今度は、はっきりわかりました。
腕は動かしていません。
壁も蹴っていません。
それなのに、目の前のプールの底がゆっくり後ろへ流れていきました。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
けれど。
「……いま、進んだよね?」
誰も答えてくれません。
水面だけが、ゆらゆらと揺れています。
真珠は笑いました。
もう一度やってみます。
今度はうまくいきませんでした。
「あれ?」
次も駄目。
「ちょっと!」
その次は、少しだけ進みました。
「おおっ!」
どうやら人魚への道は、そう簡単には開いてくれないようです。
それでも真珠は、さっきまでとは違っていました。
尾びれを力いっぱい振るのではない。
身体の中に生まれた小さな波を、最後まで途切れさせずに運ぶ。
その先に、何かがありそうです。
◇
練習を終えた真珠は、プールサイドへ上がりました。
濡れた髪から、ぽたぽたと雫が落ちます。
腕は疲れ、腹も腰も重い。
人魚というものがこれほど全身を使う生き物だとは、絵本には書いてありませんでした。
真珠は床へ座ったまま、静かになっていく水面を眺めます。
その向こう。
水族館の大きな水槽では、一頭のイルカが滑るように泳いでいました。
尾びれだけを必死に振っているようには見えません。
頭から身体へ。
身体から尾へ。
大きな一つの流れが、水の中を抜けていきます。
真珠は、じっと見つめました。
「……そういうこと?」
イルカは答えません。
ただ一度、水面近くまで上がると。
くるりと身体を返し、青い水の中へ消えていきました。
真珠は膝を抱えたまま笑います。
「先生。明日もよろしくお願いします」
人魚になりたい女の子には、まだ泳ぎ方がわかりません。
けれど。
どうやら、とてもよい先生を見つけたようでした。




