第3話 ~尾びれを作ろう~
夢を見るだけなら、誰にでもできます。
空を飛んでみたい。
雲の上を歩いてみたい。
動物と話してみたい。
人魚になって、青い水の中を自由に泳いでみたい。
そんな夢は、たとえ叶わなくても誰にも叱られません。
胸の奥へ大切にしまって、ときどき取り出して眺めるだけでも、
夢は夢として十分に美しいものです。
けれど真珠は、夢を眺めているだけでは満足できない女の子でした。
だから翌日。
彼女はホームセンターにいました。
「…………」
真珠は腕を組み、棚に並んだ材料を真剣な顔で見比べています。
その表情だけなら、卒業研究の材料を探す大学生に見えなくもありません。
しかし、スマートフォンに表示されている買い物メモは、少々変わっていました。
『人魚の尾びれ・試作一号』
その下には、防水性のある生地、接着剤、樹脂板、ベルト、金具、工具――。
およそ人魚とは結びつかない名前が並んでいます。
「柔らかすぎると、水を押せないよね」
樹脂板を少し曲げてみます。
「でも硬すぎたら……曲がらない」
元の場所へ戻して、隣の商品を手に取る。
また曲げる。
「これは……いいかも」
人魚の尾びれを買いに来た人ではありません。
人魚の尾びれを作るため、材料の性質から調べている人です。
夢というものは、現実へ近づけようとした途端、急に面倒になります。
寸法が必要になります。
お金も必要になります。
強度も考えなくてはいけません。
そして真珠の場合、何より大切なのは水の中で使えることでした。
見た目だけ美しい尾びれなら、もっと簡単に作れます。
けれど彼女が欲しいのは、写真を撮るための人魚の衣装ではありません。
泳ぐための尾びれです。
両脚を揃えたまま水を押し、身体から伝わってきた力を最後に水へ渡すもの。
昨日見た動画を、真珠は何度も思い返していました。
胸。
腹。
腰。
脚。
そして、フィン。
身体を一本の鞭のようにしならせて、水を後ろへ押す。
それができなければ、どれほど美しい尾びれを作っても意味がありません。
「……人魚って大変だなあ」
買い物かごを片手に、真珠は呟きました。
もちろん、人魚本人が聞けば「知らない」と答えたことでしょう。
◇
それから数日。
真珠の部屋は、少しずつ大学生の部屋ではなくなっていきました。
机の上には工具。
床には材料。
ノートには何枚もの尾びれ。
寸法を書き込んだ紙が壁に貼られ、
スマートフォンには泳法の動画や素材の情報が保存されていきます。
作業するとき、真珠は長い髪を頭の上でしっかりとお団子にまとめました。
邪魔だからです。
人魚らしさは、いったん忘れます。
まず真珠が作ったのは、尾びれの中身でした。
両足を揃えて固定し、その先に水を押すためのフィンを取り付ける。
ただし、足を完全に動かなくしてはいけません。
泳いでいる途中で何かあったとき、すぐ外せる構造も必要です。
「かわいいだけじゃ駄目、と」
ノートへ書き込みます。
次に、足首の動きを邪魔しすぎないこと。
さらに、水を含んで重くなりすぎないこと。
身体へ食い込まないこと。
泳いでいる途中で外れないこと。
けれど緊急時には外せること。
「注文多いなあ、私」
誰に頼まれたわけでもないのに、自分で自分へ文句を言います。
そして作ります。
失敗します。
また作ります。
最初の試作品は、尾びれと呼ぶにはずいぶん頼りないものでした。
床に置いて眺めます。
「……魚?」
首を右へ傾けます。
「いや」
左へ。
「魚でも怒るか」
試作一号は、その日のうちに解体されました。
けれど真珠は落ち込みません。
失敗したということは、一つわかったということです。
この方法では駄目。
ならば、次は違う方法を試せばいい。
試作二号では、フィンの形を変えました。
三号では固定方法を変えました。
四号では、水の抵抗を受ける面積を広げました。
すると今度は重くなりました。
「ですよねー」
真珠は笑って、またノートへ書き込みます。
夢を叶える作業というものは、案外こんなものなのかもしれません。
きらきらした時間より、うまくいかない時間のほうが長い。
それでも不思議なことに、真珠は楽しそうでした。
◇
やがて作業は、さらに本格的になっていきました。
ホワイトボードには、大きな尾びれの構造図。
その横には、今日の目標。
『可動ジョイントの調整』
『防水テスト』
『ドルフィンキックの練習』
材料の候補も書き出しました。
肌へ触れる部分には、柔らかく伸びる素材。
内部には、できるだけ軽く、けれど水の抵抗に負けない骨組み。
尾びれの先端は、上下にしなること。
力を受け止めながらも、硬い板のようになってはいけません。
真珠が鉛筆を持ち、構造図へ一本の線を足します。
「腰がこう動いて……」
自分の身体を少し前へ倒しました。
「ここから力が来るから……」
腰を動かします。
胸から腹へ。
腹から腰へ。
腰から脚へ。
そして最後に尾びれ。
水の中では、その流れが途切れてはいけない。
どこか一か所だけ力を入れても、身体全体がつながっていなければ前へ進めないのです。
真珠はまだ、そのことを頭で理解しているだけでした。
身体は、まだ知りません。
それを教えてくれるのは、これからです。
真珠は作業台へ戻りました。
そこには、これまでとはずいぶん違う尾びれが置かれています。
青紫から銀色へ変わる鱗の模様。
光の当たり方によって、ほんのり桃色にも見える表面。
内部には軽い骨組みを入れ、身体の動きに合わせてしなるよう工夫しました。
先端には大きなフィン。
水をしっかり押せるよう面積を取りながら、
動きを邪魔しない形を探して何度も作り直したものです。
真珠は細い筆を持ち、鱗の一枚へ色を重ねました。
ここまで来ると、工作というより小さな開発でした。
けれど本人に、そんな大げさな意識はありません。
「もうちょっとだけ……」
筆先を動かします。
「ここの色、薄いほうが水の中できれいかな」
泳げることが第一。
けれど、せっかく人魚になるのです。
きれいなほうがいいに決まっています。
実用性と夢。
その二つの間を行ったり来たりしながら、真珠の尾びれは少しずつ形になっていきました。
窓から入っていた昼の光が傾き、いつの間にか部屋は夕方の色になっていました。
真珠はようやく筆を置きます。
「……できた」
小さな声でした。
作業台から一歩離れます。
そこには、人間の脚よりもずっと長い、一つの尾びれが横たわっていました。
まだ水の中では試していません。
本当に泳げるのかもわかりません。
壊れるかもしれない。
思ったほど水を押せないかもしれない。
そもそも装着した瞬間、まともに身体を動かせないかもしれません。
問題はいくらでもあります。
それでも。
真珠はしばらく何も言わず、自分で作った尾びれを眺めていました。
子どものころ、絵本で見た人魚。
青い海の中を自由に泳ぐ、美しい生き物。
あのころの真珠にとって、人魚になることは魔法と同じでした。
願うことはできても、現実にはならないもの。
けれど二十二歳になった今、目の前には尾びれがあります。
魔法ではありません。
材料を調べました。
寸法を測りました。
何度も失敗しました。
お金も使いました。
指に接着剤もつきました。
作業机は散らかりました。
それでも、夢だったものに手で触れられるところまで来ました。
真珠は尾びれの表面を、そっと撫でました。
「人魚になる」
昔から、何度も思ってきた言葉です。
けれど、その日は少しだけ響きが違いました。
「……本当になれるかな」
期待と、不安。
その両方を抱えたまま、真珠は笑いました。
昔のおとぎ話なら、ここで魔法がかかるところでしょう。
きらきらと光が舞い、人間の脚が美しい尾びれへ変わる。
けれど令和の人魚姫には、そんな便利な魔法はありません。
自分で作った尾びれを抱えて。
自分の身体で水へ入り。
自分で泳いでみるしかないのです。
そして翌日。
真珠は完成した尾びれを抱え、水の前に立ちました。
「よし」
目の前には、静かな青い水。
腕の中には、ずっしりと重い夢。
真珠はまだ知りません。
人魚の尾びれを作ることと――。
人魚のように泳ぐことは。
まったく別のお話なのだということを。
【ちょっとだけ、意味深な数字を】
7月27日
白血球 34.25 ×10³/μL
好中球(実数) 32.74 ×10³/μL
CRP 0.05 mg/dL
すべて実際の検査数値です。
変更も補正もしていません。
リアルですよ~(笑)
……さて。
数字には、数字なりのお話があります。
そのお話は、またいずれ。
次回――『人魚は泳げない』




