第2話 ~水の中には道がない~
水族館には、二つの顔があります。
一つは、お客さんが見る水族館。
青く輝く大水槽を魚の群れが泳ぎ、イルカが水面を跳ね、
子どもたちはガラスに顔を近づけて歓声をあげます。
もう一つは、お客さんがまだ誰もいない水族館。
朝の水族館です。
照明は必要な場所だけが灯され、館内に響いているのは、
ろ過装置やポンプの低い音ばかり。
普段なら人の声に隠れている水の音が、朝だけはあちらこちらから聞こえてきます。
真珠は、この時間が好きでした。
「おはようございまーす!」
まだ返事をしてくれるお客さんはいません。
それでも二十二歳の大学四年生、真珠の一日は、元気な挨拶から始まります。
スタッフルームで着替えを済ませ、髪をまとめ、今日の作業を確認する。
大学の講義が午後からの日は、こうして朝から水族館に入ることもありました。
もっとも、人魚に憧れているから水族館で働いている――などと言えば、
少し素敵に聞こえるかもしれません。
実際の仕事は、もう少し地味です。
掃除をします。
たくさん掃除をします。
そして、やっぱり掃除をします。
「よしっ」
真珠はデッキブラシを手に取りました。
今日の相手は、浅いプールの清掃です。
水を抜いたプールへ裸足で降りると、足の裏にひやりとした感触が伝わりました。
「つめたっ」
わかっていたのに、毎回言ってしまいます。
薄く残った水が足首の下でぱしゃりと跳ねました。
真珠はデッキブラシを両手で握り、床をこすっていきます。
ごしごし。
少し歩いて、また、ごしごし。
水族館のお仕事と聞いて、魚に餌をあげたり、
イルカと仲良く遊んだりする姿を想像する人もいるでしょう。
もちろん、そうした仕事もあります。
けれど、生き物が暮らす場所をきれいに保つことも、とても大切な仕事なのです。
水は、きれいに見えても汚れます。
床にはぬめりがつきます。
放っておけば、人も生き物も困ります。
「人魚姫も、掃除くらいするのかなあ」
ブラシを動かしながら、真珠は呟きました。
昨夜、寝る前に調べた人魚の泳ぎ方が、まだ頭から離れていません。
「お城の掃除とか……」
ごしごし。
「貝殻の整理とか……」
ごしごし。
「海藻、めっちゃ絡まりそう」
考えてみれば、昔話の人魚はずいぶん優雅です。
泳いで、歌って、ときには恋をして。
少なくとも、デッキブラシを握っている人魚を真珠は見たことがありません。
真珠は一人で笑いました。
「令和の人魚、生活感あるなあ」
それでも手は止めません。
床を磨き終え、壁面を確認し、最後に水を流す。
きれいになったプールを眺めると、妙な達成感がありました。
華やかではありません。
誰かが拍手をしてくれる仕事でもありません。
けれど真珠は、こういう仕事も嫌いではありませんでした。
自分が掃除した場所へ水が入り、そこがまた生き物たちの世界になる。
そう思うと、ただの掃除が少しだけ特別なことに感じられるのです。
◇
開館時間になれば、水族館の顔は一変します。
照明が灯り、音楽が流れ、人々の声が館内を満たします。
「すみません、イルカはどちらですか?」
「はい。この通路をまっすぐ進んでいただいて、突き当たりを右です」
「ありがとう」
「ありがとうございます!」
真珠は笑顔で頭を下げました。
ありがとうございます。
それは彼女が一日に何度も口にする言葉でした。
小さな子どもが手を振ってくれたときにも。
落とし物を届けてくれたお客さんにも。
館内の案内を終えたあとにも。
真珠にとっては仕事の言葉ですが、不思議と嫌いになったことはありません。
ありがとうと言って、ありがとうと返してもらう。
それだけで、ほんの少し気分がよくなるからです。
昼が近づき、お客さんが増えてくると、館内はいよいよ賑やかになりました。
大水槽の前には人が集まり、子どもたちが魚を指さしています。
真珠も、その近くを通りました。
昨日と同じ大水槽です。
けれど昨日と同じ魚が、同じ場所を泳いでいるわけではありません。
魚たちは好き勝手に動いています。
上へ。
下へ。
右へ。
左へ。
人間のように床の上を歩く必要はありません。
水槽の中に階段はありません。
横断歩道も、白線も、進行方向を示す矢印もありません。
それなのに、魚たちは迷いません。
真珠は以前から、その光景を見るたびに思っていました。
水の中には、道がない。
だから、どこへでも行ける。
地上では、人はいつも何かの上に立っています。
道路。
床。
階段。
地面。
足を置く場所がなければ、人は立っていられません。
ところが、水の中では違います。
身体そのものを浮かせてしまえばいい。
上も下も、右も左も、自分で選べます。
真珠が人魚に憧れた理由は、尾びれが美しいからだけではありませんでした。
あんなふうに水の中を自由に動いてみたい。
自分の身体を水へ預けて、どこにも立たずに進んでみたい。
子どものころから、ずっとそう思っていたのです。
「お姉さん」
「はい?」
声をかけられて、真珠は振り返りました。
小さな女の子が、母親らしい女性と一緒に立っています。
女の子は大水槽を指さしました。
「あのお魚、なんていうの?」
「あれはね――」
真珠は魚の名前を教えました。
女の子はもう一度水槽を見上げ、
「すごいねえ」
と笑いました。
「うん。すごいよねえ」
思わず、仕事の言葉ではない返事が出ました。
母親と女の子が去ってからも、真珠はほんの少し水槽を眺めていました。
やはり、いい。
水の中は、いい。
◇
仕事を終えた真珠は、そのまま大学へ向かいました。
水族館を出れば、人魚の世界から一転、そこにはいつもの令和があります。
電車に乗り、スマートフォンを眺め、大学へ着けば講義を受ける。
友人とくだらない話をして笑い、卒業後の話題になると、少しだけ現実的な顔になる。
四年生ともなれば、「来年どうする?」という言葉があちこちから聞こえてきます。
真珠だって同じです。
人魚になりたいからといって、卒業単位が空から降ってくるわけではありません。
人魚になりたいからといって、提出期限が延びるわけでもありません。
夢と現実は、案外きちんと同居するものです。
講義を終え、帰宅したころには、外はすっかり暗くなっていました。
「つかれたー」
鞄を置き、ベッドへ倒れ込みます。
そのまま眠ってしまいたいところでした。
けれど。
数秒後。
真珠はむくりと起き上がりました。
スマートフォンを手に取ります。
昨夜の検索履歴が残っていました。
『モノフィン 泳法』
『ドルフィンキック 体の使い方』
『人魚 尾びれ 自作』
「…………」
画面を見つめます。
そして、一番下の文字をもう一度押しました。
人魚 尾びれ 自作。
画像や動画が次々と表示されます。
布で作られたもの。
樹脂を使ったもの。
足先にフィンを装着し、その上から人魚の尾を模したカバーをかぶせるもの。
見た目を優先したものもあれば、実際に泳ぐことを考えて作られたものもありました。
「なるほど……」
真珠の顔から、疲れが少しずつ消えていきます。
「足を一緒に動かすなら……」
動画を止めます。
巻き戻します。
もう一度再生します。
泳いでいる人の身体をよく見ると、動いているのは脚だけではありませんでした。
胸が沈む。
腹が続く。
腰が動く。
そして最後に、両脚とフィンが水を押す。
身体の中を、一つの波が通り抜けていくようでした。
「これ……」
真珠はベッドの上でうつ伏せになりました。
胸を少し持ち上げ、腰を動かそうとします。
「こう?」
ぼすん。
ただ布団が沈みました。
「違うな」
もう一度。
「こう……かな?」
ぼすん。
「…………」
人魚への道は、思ったより険しそうです。
けれど、真珠は笑っていました。
できない。
だから、面白い。
わからない。
なら、調べればいい。
真珠は夢を見ることが好きでした。
けれど、夢を眺めているだけでは満足できない女の子でもありました。
人魚が本当にいるかどうかなんて、真珠にはわかりません。
けれど。
人魚のように泳ぐことなら。
もしかすると、自分にもできるかもしれない。
真珠は検索画面を閉じると、今度はメモを開きました。
必要そうなものを、思いつくまま入力していきます。
フィン。
防水性のある布。
固定方法。
尾びれの形。
身体を締めつけすぎない構造。
水の抵抗。
「…………これ」
入力する指が止まりました。
「作ったほうが早くない?」
普通なら、ここで既製品を探します。
少し変わった人なら、もっと詳しく調べます。
そして真珠は――。
どうやら、そのどちらでもありませんでした。
彼女はベッドから起き上がり、机へ向かいました。
引き出しからノートを取り出します。
真っ白なページの中央に、大きな尾びれを描きました。
上手とは言えません。
むしろ、少し太った魚のようでした。
「……まあ、設計図一号ということで」
真珠は笑って、もう一本線を引きました。
昔のおとぎ話なら、人魚になるためには魔法が必要だったのかもしれません。
海の魔女を訪ねたり、不思議な薬を飲んだり、何か大切なものと引き換えにしたり。
けれど、ここは令和です。
この時代の人魚姫は、少し違います。
わからなければ検索して。
材料がなければ買いに行って。
欲しいものがなければ――自分で作る。
こうして真珠は、人魚になるための最初の一歩を踏み出しました。
海の魔女のところではなく。
まずは、ホームセンターの方向へ。




