~最後まで、綺麗でいたかった~
高層ホテル最上階――
全面ガラス張りのバンケットフロアには、夜景よりも眩しい光が満ちていた。
都心を見下ろすその空間では、シャンパンの泡ですら演出の一部のように扱われ、
磨き抜かれた黒い床には、金色の照明とドレスの裾が静かに溶け込んでいる。
壁際には海外ブランドのロゴが並び、低く流れるラテンジャズのリズムに合わせるように、
招待客たちは緩やかな笑みを浮かべながらグラスを傾けていた。
時音は、その熱の中心へ呼ばれた女だった。
二十歳。
まだ大学に通いながらも、夜になると彼女は別の名前を持つ。SNSで拡散される動画。
イベント関係者から届く出演依頼。ステージに立つたびに増えていく視線と歓声。
誰かに憧れられることにも、カメラを向けられることにも、彼女はもう慣れていた。
けれど、それでも。
ステージ袖から会場を見渡した瞬間だけは、毎回少しだけ呼吸が変わる。
熱気。
照明。
酒の匂い。
期待を含んだざわめき。
数百人分の視線が、“これから現れる誰か”を待っている空気。
それを、自分が受け止めるのだと理解した瞬間、胸の奥が微かに熱を持つ。
時音は深く息を吸い込み、薄く目を閉じた。
肩に垂れた透け布が、空調の風に揺れる。
淡いゴールドで統一されたステージ衣装は、肌を隠すためというより、
光を反射させるために存在しているようだった。
腰の装飾が歩くたびに細かく触れ合い、耳元では小さな金属音が静かに鳴る。
背後ではスタッフが何かを確認していたが、もう内容は耳に入っていない。
意識は既に、照明の向こう側へ向いていた。
ふと、スマートフォンの画面が光る。
楽屋テーブルの上に置かれたままの画面には、短い通知だけが表示されていた。
『終わったら連絡して』
彼氏からだった。
時音は一瞬だけ視線を止め、それから小さく口元を緩める。
忙しい彼が、珍しく先に連絡を寄越してきたことが少し嬉しかった。
最近はお互い予定が噛み合わず、まともに会えたのも一週間以上前になる。
それでも彼は、出演前になると必ず連絡をくれる男だった。
『今日は結構大きい会場なんだ』
昼間に送ったメッセージに対して、彼はしばらく既読を付けなかった。
そのことが、ほんの少しだけ気にはなっていた。
だが今は、それを考える時間ではない。
ステージマネージャーが片手を上げる。
照明が一段落ちる。
ざわめきが静かに薄れ、代わりに打楽器の低音が空間を這い始めた。
時音はヒールの先をゆっくりと前へ出す。
その瞬間、身体の中から日常が消えていく。
大学の講義も、昼間の雑踏も、コンビニ帰りの夜道も、
この場所では何一つ意味を持たない。
ここで必要なのは、“今この瞬間、どれだけ人の視線を奪えるか”だけだった。
スポットライトが点灯する。
白金色の光が、暗転したステージ中央へ真っ直ぐ落ちた。
そして時音は、歓声の中へ歩き出す。
音楽が切り替わった瞬間、空気の温度が変わった。
細く流れていたジャズが消え、代わりに深い打楽器の低音が床を震わせる。
紫と金の照明が幾重にも交差し、中央ステージだけを浮かび上がらせた瞬間、
会場中の視線が一斉にそこへ集まった。
歓談していた男女がグラスを止める。
ウェイターが歩幅を緩める。
奥の席で笑っていた客までもが、自然と声を落としていた。
その沈黙の中心で、時音は静かに片腕を上げる。
透けるような薄布が照明を受け、ゆっくりと光を流した。
肩から腕へ伸びる細い線。腰の動きに合わせて揺れる金飾り。
足を踏み替えるたび、床へ反射した光が彼女の輪郭をなぞるように滑っていく。
まるで、自分の身体ごと照明の一部になったようだった。
時音は客席を見ない。
見なくても分かるからだ。
今、この空間の全員が自分を見ている。
その感覚だけで十分だった。
呼吸に合わせ、ゆっくりと腰を回す。
片脚を前へ流した瞬間、スリットから覗いた白い脚線に客席の空気がわずかに揺れた。
歓声ではない。もっと小さく、熱を含んだ吐息に近い反応。
だが時音は、それすら拾わない。
彼女の視線は、もっと遠く――ステージ奥の暗がりへ向けられていた。
髪をまとめた簪が光る。
首筋に浮いた汗が、スポットライトの白を受けて細く滲む。
踊り始めてまだ数十秒しか経っていないのに、身体の芯はもう熱を持ち始めていた。
「……っ」
ターン。
裾が大きく広がる。
薄金色の布が宙を舞い、その中心で時音の身体だけが静止したように見えた。
拍手が起きる。
だが、それはまだ途中の拍手だった。
観客たちは気づき始めている。
このダンスが、“見せるための踊り”ではなく、“飲み込ませるための踊り”なのだと。
時音は音に合わせて腕を落とし、そのまま客席へ半身を向けた。
照明の角度が変わる。
胸元のビジューが細かく光を弾き、白い肌へ金色を散らした。
最前列の男が、無意識にグラスを下ろしているのが見えた。
その隣で、年上の女性客が小さく息を漏らして笑う。
「綺麗……」
誰かが呟く。
その声は、音楽に飲まれてすぐ消えた。
時音はそこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
踊っている間だけ、自分は何者にでもなれる。
大学生でもない。
誰かの恋人でもない。
将来を考えて不安になる普通の二十歳でもない。
光の中で視線を奪い続ける、一人の“ステージの女”になれる。
その感覚が、好きだった。
身体を反らし、腕を高く掲げる。
照明が追いかける。
歓声が少し大きくなる。
そして時音は、その熱の中心で、静かに微笑んだ。
照明が流れるたび、時音の肌に金色の光が滑っていく。
薄布は空気を掴むように揺れ、ターンに合わせて大きく弧を描いた。
観客席から小さな歓声が漏れる。けれど時音は、それに応えるような視線を返さない。
ただ音に沈み込むように、静かに身体を流していく。
裸足の足先が黒いステージを撫でる。
腰飾りの細かな金具が触れ合い、呼吸に合わせて乾いた音を鳴らした。
汗を含み始めた前髪が頬へ張り付き、それすら演出の一部のように見えてしまう。
最前列では、誰もグラスを口へ運ばなくなっていた。
視線が止まっている。
時音はその空気を肌で理解しながら、ゆっくりと腕を伸ばした。
――見られている。
その感覚が、熱になって身体の奥へ溜まっていく。
大学ではただの二十歳でも、この場所では違う。
音楽が鳴る間だけ、自分は誰かを黙らせる力を持てる。
照明が落ち、次のリズムが深く響く。
その瞬間、時音はわずかに口元を緩めた。
ターンの終わり際、時音は観客へ背を向けた。
その瞬間、会場の空気がわずかに変わる。
露出ではない。
むしろ逆だった。
照明に濡れた背中の線。
肩甲骨の動き。
呼吸に合わせて上下する腰の輪郭。
踊り続ける身体そのものが、静かな熱を帯びていた。
薄い布が大きく宙へ広がり、金色の光を巻き込む。
汗を含んだ肌はスポットライトを細かく反射し、
まるで夜景の中で一人だけ別の熱を持っているようだった。
客席は静かだった。
誰も騒がない。
ただ見ている。
音楽と時音の身体だけが、この空間の中心になっていた。
裸足のまま爪先で回転し、ゆっくりと腕を広げる。
その背中へ無数の視線が注がれていることを、彼女は分かっていた。
けれど、不思議と嫌ではない。
むしろ、見られるほど身体が軽くなる。
歓声も、照明も、熱気も。
全部が、自分を押し上げてくれる。
時音は小さく息を吐き、そのまま次のリズムへ身体を沈めていった。
最後の音が消えた瞬間、数秒だけ、会場は静まり返っていた。
まるで誰も呼吸を思い出せなかったみたいに。
その沈黙を破るように拍手が起き、次の瞬間には歓声へ変わる。
グラスを掲げる音。誰かの口笛。奥の席では立ち上がる客までいた。
ステージ中央で時音はゆっくり息を整え、汗に濡れた髪を耳へかける。
照明の熱で肌は火照り、裸足の裏にはまだ振動が残っていた。
――終わった。
その実感が遅れて身体へ落ちてくる。
視線を浴び続けた数十分は、いつも時間の感覚を狂わせる。
気づけば音楽だけの世界へ沈み込み、自分の呼吸すら曖昧になる。
けれど今日は、不思議と気分が良かった。
歓声が大きかったからか。
客席の熱量が高かったからか。
それとも、自分がちゃんと“ステージの女”になれていたからか。
理由は分からない。
ただ、身体の奥に残る高揚感だけが心地よかった。
時音は最後に小さく一礼し、拍手の中をステージ袖へ下がっていく。
暗転した舞台裏はひんやりとしていて、さっきまでの熱が嘘みたいだった。
スタッフが「最高でした」と声を掛ける。誰かがタオルを差し出す。
時音は笑って礼を言いながら、それでもまだ、耳の奥に残る歓声を聞いていた。
あの瞬間だけ、自分は特別になれる。
誰かに憧れられて、
誰かの視線を止めて、
光の中心へ立てる。
その感覚を知ってしまった以上、
もう普通の場所には戻れないのかもしれない――そんな考えが、ふと頭を掠める。
だが次の瞬間には、ホテルスタッフが開けた扉の向こうから、
シャンパンと香水の香りが流れ込んできた。
パーティーは、まだ終わっていなかった。
パーティー会場へ戻った時には、時音はもう“出演者”ではなくなっていた。
ステージの熱を纏ったまま、それでも自然な顔でグラスを受け取り、
招待客たちの間へ溶け込んでいく。
「さっきのダンス、本当に凄かったです」
声を掛けてきた男へ、時音は柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
慣れた返事だった。
けれど、嫌いではない。
照明の落ちた会場では、シャンデリアの光がグラスやアクセサリーへ細かく反射している。
白い花の香り。ワインの甘い匂い。遠くで重なる笑い声。
その全てが、まださっきまでのステージと地続きだった。
時音は軽く振り返り、テーブルへ片手を添える。
背中の大きく開いたドレスへ視線が集まるのを感じた。
男たちだけではない。
女性客までもが、どこか羨むような目でこちらを見ている。
この空間では、“見られること”が価値になる。
時音はそのルールを知っていた。
だから自然に笑えるし、自然に立てる。
誰かの視線を浴びるたび、自分が少しずつこの世界へ馴染んでいく感覚があった。
ふと、窓ガラスへ映った自分が目に入る。
艶のあるドレス。
光を受ける肌。
大人たちに囲まれながら微笑む、自分。
少し前まで大学帰りにコンビニでアイスを選んでいた二十歳の女と、同じ人間には見えなかった。
「モデルさんみたいですね」
別の男が笑いながら言う。
時音は困ったように小さく笑って、
「そんな大したものじゃないですよ」
と返した。
けれど、その瞬間だった。
テーブルへ置いたスマートフォンが、小さく震える。
画面が白く光る。
時音は何気なく視線を落とし――そこで、動きを止めた。
表示されていたのは、彼氏の名前だった。
結局、そのメッセージを開くことはなかった。
時音はスマートフォンを伏せたまま、再び会話の輪へ戻っていく。
誰かがシャンパンを差し出し、別の誰かがステージの感想を語る。
笑顔を向ければ笑顔が返り、軽くグラスを掲げれば、周囲も自然と合わせてくれる。
華やかな世界だった。
眩しくて、
柔らかくて、
少しだけ現実感が薄い。
シャンデリアの光がグラスの中で揺れる。
時音は小さく笑いながら、細いフルートグラスを目線の高さまで持ち上げた。
泡が静かに立ち上り、金色の光を受けてきらめく。
「今日は本当に綺麗だったよ」
向かいの女性がそう言って微笑む。
時音は照れたように肩をすくめた。
「ありがとうございます。でも、ちょっと緊張してました」
「嘘。全然そんな風に見えなかった」
周囲が笑う。
その空気に混ざりながら、時音も自然に笑っていた。
けれど、ふとした瞬間だけ、意識がテーブルの端へ向く。
伏せたままのスマートフォン。
通知は、まだ消えていない気がした。
彼氏は普段、こんな時間に連絡を急かしたりしない。
“終わったら連絡して”
たったそれだけの短文なのに、なぜか妙に胸へ残っていた。
時音は気づかれないように小さく息を吐き、再びグラスへ口をつける。
冷えたシャンパンが喉を滑っていく。
その時だった。
遠くから、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「時音さん、写真お願いできますか?」
「あ、はい」
笑顔を作る。
立ち上がる。
フラッシュが光る。
また誰かが褒める。
その繰り返し。
まるで今夜の自分が、少しだけ別の存在になったみたいだった。
誰かに見られ、
誰かに求められ、
誰かの記憶へ残っていく。
――きっと彼は、この空気が苦しかったのだ。
そんな考えが、一瞬だけ頭を掠める。
けれど時音は、その違和感にまだ名前を付けられなかった。
ホテルの回転扉を抜けた瞬間、夜の冷気が肌へ張り付いた。
雨だった。
それも、思っていたより強い。
時音は思わず足を止め、濡れた路面へ視線を落とす。
タクシーのヘッドライトが黒いアスファルトへ反射し、赤や白の光を滲ませながら流れていく。
背後では、まだパーティーの音が聞こえていた。
笑い声。
グラスの触れ合う音。
シャンデリアの光。
ほんの数秒前まで自分がいた場所とは思えないほど、そこだけ別世界みたいに暖かい。
時音はスマートフォンを握り直した。
未読のメッセージ。
『今、少し話せる?』
結局、気になって会場に居続けられなかった。
大した内容じゃないかもしれない。
ただ少し寂しくなったとか、会いたいとか、そんな話かもしれない。
なのに胸の奥が妙にざわつく。
時音は小さく息を吐き、軒下から一歩だけ外へ出た。
細いストラップのドレスへ、すぐに冷たい雨が落ちる。
背中が濡れる。
さっきまで照明で火照っていた肌から、一気に熱が奪われていく。
その感覚が、不思議と心地よかった。
会場の中ではずっと誰かに見られていた。
褒められて、
笑われて、
求められて。
けれど今は違う。
雨音が全部を遮ってくれる。
時音はホテル脇の暗がりへ少し移動し、震える指で彼氏の名前をタップした。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
雨が強くなる。
街灯の光が水滴へ滲み、世界全体がぼやけて見えた。
そして、通話が繋がる。
『……もしもし』
聞き慣れた声だった。
なのに、なぜか少し遠かった。
『……急に、ごめん』
通話越しの声は静かだった。
時音は濡れた前髪を指で払いながら、小さく笑う。
「ううん。どうしたの?」
なるべく普段通りの声を作ったつもりだった。
けれど雨音のせいか、自分の声が少し遠く聞こえる。
ホテルのエントランスでは、今もタクシーが次々と客を乗せている。
ドアマンが傘を広げ、誰かが笑いながら車へ乗り込んでいく。
その光景をぼんやり眺めながら、時音は壁へ背中を預けた。
濡れたドレスが肌へ張り付く。
冷たい。
なのに身体の奥だけ、まだステージの熱が残っていた。
『……今、会場?』
「うん。さっき終わった」
『そっか』
短い沈黙。
雨だけが落ち続ける。
時音はその間に、なんとなく気づき始めていた。
これは、普通の電話じゃない。
彼は今、何かを決めている。
そんな空気が声の奥に混じっていた。
『今日も、いっぱい見られてたんだろうな』
不意にそう言われ、時音は少し困ったように笑った。
「まぁ……仕事だからね」
『うん。分かってる』
その返事が、逆に苦しかった。
責めているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
だからこそ、余計に。
時音は唇を湿らせ、小さく息を吐いた。
街灯の光が、雨粒を白く浮かび上がらせている。
背後のガラス扉には、ホテルの暖かな灯りと、自分の濡れた姿が重なって映っていた。
『俺さ……最近、時音を見てると怖くなるんだ』
「……え?」
『どんどん遠くへ行く気がして』
その言葉に、時音は返事ができなかった。
ただ雨だけが、静かに肩を叩いていた。
『今日の写真、SNSで流れてきた』
彼の声は、相変わらず静かだった。
怒鳴りもしない。
責めもしない。
それが逆に、時音の胸を締め付ける。
雨はさらに強くなっていた。
街路樹を揺らし、タクシーの屋根を叩き、黒い路面へ無数の波紋を作り続けている。
ヘッドライトがその水面へ滲み、赤や白の光が足元で揺れていた。
時音はスマートフォンを耳へ押し当てたまま、小さく息を呑む。
「……ごめん、ちゃんと連絡すればよかった」
『違う。そういうことじゃない』
彼は少しだけ間を空けた。
『時音は何も悪くない』
その言葉を聞いた瞬間、なぜか身体が冷える。
濡れたドレスが肌へ張り付き、肩を流れる雨粒が鎖骨を伝って落ちていく。
ホテルのガラスには、暖かな灯りが映っていた。
さっきまで自分がいた場所。
笑って、
褒められて、
視線を浴びていた世界。
けれど今、そこはもう妙に遠かった。
『俺さ、普通に隣歩いてるだけなのに、急に惨めになる時があるんだ』
時音は言葉を失う。
雨音の中で、彼の呼吸だけが小さく聞こえる。
『時音が綺麗になればなるほど、知らない男たちが時音を見るだろ』
『それを見てると、“自分だけの彼女”じゃなくなっていく感じがしてさ』
タクシーが一台、水を跳ねながら通り過ぎる。
白い光が時音の濡れた脚を一瞬だけ照らした。
彼女は唇を開きかけ――何も言えなかった。
違う、と言いたかった。
自分は何も変わっていないと。
ステージの上にいても、
こうして笑っていても、彼の前ではちゃんと普通の二十歳でいたつもりだった。
けれど。
会場で向けられていた視線を思い出す。
写真を求められた瞬間。
誰かに「綺麗だ」と言われ続けた夜。
その全部を、彼は一人で見ていたのだ。
『……俺、もう普通の顔して応援できない』
雨音が、一瞬だけ遠くなる。
時音はゆっくり目を閉じた。
濡れた睫毛が、小さく震えていた。
『……別れよう』
その言葉は、驚くほど静かに届いた。
雨音に紛れてしまいそうなほど小さかったのに、時音の中でははっきり聞こえた。
身体の奥が、すっと冷える。
時音は濡れた髪を耳へかけようとして、途中で手を止めた。
指先が震えている。
「……なんで」
ようやく出た声は、自分でも情けないくらい弱かった。
彼は少しだけ黙り、
『もう、隣にいる自信がない』
と答えた。
ヘッドライトが雨粒を白く裂き、路面へ滲んでいく。
タクシーが止まり、誰かが傘を差し出されながらホテルへ入っていく。
暖かな光。笑い声。磨かれたガラス。
全部が遠い。
時音は壁へ肩を預けたまま、ゆっくり目を閉じる。
ドレスは完全に濡れていた。
肌へ張り付き、体温を奪い続けている。
『時音は悪くない』
彼は繰り返す。
『悪くないんだよ、本当に』
「だったら……」
言葉が続かない。
だったら、なんで。
そう聞きたかったのに、喉がうまく動かなかった。
彼はきっと、ずっと苦しかったのだ。
ステージへ立つたび、
誰かに写真を撮られ、
知らない男たちに見つめられ、
綺麗だと囁かれる自分を。
時音はそれを、“仕事”として受け入れていた。
でも彼は、その全部を恋人として見ていた。
『俺さ』
通話の向こうで、小さく笑う気配がした。
『今日の写真見た時、すげぇ綺麗だって思ったんだ』
雨が強くなる。
睫毛に溜まった雫が、頬を滑り落ちた。
『でも同時に、“もう俺の知ってる時音じゃない”って思った』
時音は何も言えなかった。
否定したかった。
違うと言いたかった。
大学でくだらない話をして、
深夜にコンビニへ行って、
ソファで映画を見ながら寝落ちして。
自分は今でも、その延長にいるつもりだった。
なのに。
濡れたガラスへ映る自分は、まるで別人みたいだった。
光の中で踊り、
大人たちに囲まれ、
誰かの視線を浴び続ける女。
彼が遠く感じた理由を、今になって少しだけ理解してしまう。
その理解が、一番苦しかった。
「……やだ」
気づけば、そう呟いていた。
雨で濡れた声だった。
時音はスマートフォンを握る指へ力を込め、苦しそうに呼吸を乱す。
頬を流れているのが雨なのか涙なのか、自分でももう分からなかった。
「やだよ……そんなの」
肩が震える。
ドレスは完全に肌へ張り付き、冷えた布が体温を奪い続けている。
それでも身体の奥だけは熱かった。
苦しくて、
息が詰まって、
胸の奥が壊れそうだった。
ホテルの光が背後で滲んでいる。
ほんの数分前まで、自分はあの場所で笑っていた。
綺麗だと言われ、
視線を浴び、
輝いている気になっていた。
なのに今は、雨の中で必死に誰かへ縋っている。
「私……ちゃんと好きだよ……」
声が掠れる。
「今でも、ずっと……」
返事はすぐには来なかった。
通話の向こうで、彼も黙っている。
その沈黙が痛い。
時音は唇を噛み、濡れた髪を震える指で押さえた。
街を走る車のライトが、水浸しの道路へ赤く滲む。
タクシーのランプがぼやけ、雨粒が視界全体を歪ませていた。
『……分かってる』
ようやく返ってきた声は、ひどく優しかった。
だから駄目だった。
『時音はちゃんと俺を好きだった』
『でも、俺が駄目だったんだ』
「違……っ」
『時音は、もっと広い場所へ行く人だよ』
その言葉に、時音はゆっくり首を振る。
違う。
そんなことない。
言いたいのに、涙で呼吸が崩れて声にならない。
彼はきっと、自分を責めないようにしている。
最後まで。
その優しさが、余計に苦しかった。
『ごめんな』
静かな声。
その瞬間、時音の中で何かが崩れた。
「……っ、やだ……」
小さな嗚咽が漏れる。
雨音の中へ溶けるみたいに。
街の光は相変わらず綺麗だった。
なのに世界だけが、急に色を失っていく。
通話が切れたあとも、時音はしばらくスマートフォンを耳へ当てたまま動けなかった。
雨だけが降っている。
一定の強さで、
容赦なく、
夜の街を濡らし続けている。
さっきまで熱を持っていた身体は、もう完全に冷えていた。
薄いドレスは水を吸い、肌へ重たく張り付いている。
肩を流れた雨粒が肘を伝い、指先からぽたぽたと落ちていった。
時音はゆっくりしゃがみ込む。
高いヒールが濡れた石畳を滑り、危うくバランスを崩しかけた。
けれど立ち直る気力もない。
そのまま膝を抱えるように身体を縮め、小さく俯く。
「……っ」
呼吸がうまくできない。
喉の奥が熱い。
涙が次々に溢れてくるのに、雨が全部流していくせいで、
自分がどれだけ泣いているのかすら分からなかった。
別れ話なんて、もっと怒鳴り合うものだと思っていた。
責められて、
嫌いになったと言われて、
喧嘩して終わるものだと。
でも彼は最後まで優しかった。
“時音は悪くない”
“好きだった”
“俺が駄目だった”
そんな言葉ばかり残していった。
だから余計に苦しい。
もし嫌いだと言われたなら、少しは怒れたかもしれない。
けれど実際には違った。
彼は、置いていかれただけだった。
時音が光を浴びるたび、
誰かに見つめられるたび、
綺麗だと囁かれるたび。
少しずつ、自分だけが遠ざかっていく感覚に耐えられなくなっていた。
その気持ちを、今なら理解できてしまう。
ホテルのガラス扉が開く。
暖かな光が一瞬だけ外へ漏れ、黒い雨粒を照らした。
時音は顔を上げない。
見られたくなかった。
こんな顔を。
数十分前までステージの中心で笑っていた女が、雨の路上でしゃがみ込み、
子供みたいに泣いている姿なんて。
けれど、それでも気配だけは分かった。
誰かが扉の近くで立ち止まっている。
ホテルスタッフか、
通りすがりの客か、
それとも――。
時音は濡れた前髪の隙間から、ゆっくり視線を上げる。
そこには黒いスーツ姿の男が立っていた。
だが彼は近づいてこない。
声も掛けない。
ただ、雨の向こうから時音を見ているだけだった。
その距離が、妙に優しかった。
慰められたら、きっと壊れてしまう。
だから彼は何も言わないのだと、時音はぼんやり思う。
雨音の中、街のネオンだけが滲み続けている。
タクシーの赤いテールランプが、水浸しの路面へ長く伸びていた。
時音は震える肩を抱きながら、小さく息を漏らす。
今夜、自分は何を失ったのだろう。
恋人か。
居場所か。
それとも、“普通の二十歳”でいられる最後の時間だったのか。
もう、分からなかった。
雨脚は、まだ弱まらなかった。
黒く濡れた石畳へ、無数の雨粒が途切れることなく落ち続けている。
赤いテールランプの光が路面へ滲み、
白いヘッドライトが細長く伸びるたび、街全体が揺れて見えた。
時音は小さく身体を丸めたまま動けない。
片手で顔を覆い、濡れた呼吸を繰り返している。
肩が震えていた。
細いストラップ越しに浮いた背骨の線が、雨の中でやけに頼りなく見える。
ほんの一時間前まで、自分は光の中心にいた。
歓声を浴びて、
名前を呼ばれて、
誰かの憧れになった気でいた。
けれど今は違う。
雨に打たれながら、ただ一人で蹲っている。
時音はゆっくり目を閉じた。
彼の最後の声が、まだ耳に残っている。
『ごめんな』
その一言だけが、何度も何度も頭の中で繰り返される。
怒ってくれたほうが楽だった。
嫌いだと言われたほうが、きっとまだ終われた。
でも彼は最後まで、自分を傷つけないように別れを選んだ。
だから時音は、どこへ感情を向ければいいのか分からない。
自分が悪いのか。
彼が弱かったのか。
それとも、この世界そのものが悪かったのか。
雨音だけが、その答えを掻き消していく。
少し離れた場所では、黒いスーツ姿の男がまだ立っていた。
ホテルの軒下へ背を預け、濡れた街を静かに見下ろしている。
彼は近づいてこない。
慰めもしない。
ただ、
時音が立ち上がれなくなっていることだけを理解しているみたいに、黙ってそこにいた。
その距離感が、不思議と救いだった。
今もし誰かに優しく触れられたら、
“かわいそうだ”という目を向けられたら、
きっと完全に壊れてしまう。
だから男は何もしない。
雨の中へ踏み込まず、
光の境界線で立ち止まったまま、
ただ視線だけを向けている。
時音はゆっくり顔を上げた。
濡れた睫毛の隙間から見えた夜景は、もうさっきまでとは別物だった。
タクシーの灯りも、
ネオンも、
高層ホテルのシャンデリアも。
全部が綺麗なのに、どこか冷たい。
自分だけが、その景色から取り残されたみたいだった。
時音は震える息を吐き、濡れたスマートフォンを胸元へ押し当てる。
画面はもう暗い。
通話履歴だけが残っている。
それが終わりの証みたいで、また少し涙が溢れた。
雨は止まない。
街も止まらない。
自分がこんなに苦しくても、世界は何事もなかったみたいに光り続けている。
その当たり前が、今夜だけはやけに残酷だった。
どれくらい、そうしていただろう。
時音は濡れた床へ背中を預けるように座り込み、
力の抜けた指でスマートフォンを握ったまま、ぼんやりと路面を眺めていた。
雨はまだ降り続いている。
高層ホテルの光を滲ませながら、
赤いテールランプを引き伸ばしながら、
夜の街全体をゆっくり溶かしていくみたいに。
水浸しの石畳へ、タクシーの光が長く反射していた。
その光景を見ていると、自分だけが止まってしまったような気がする。
街は動いている。
車も、
人も、
ホテルの中のパーティーも。
なのに、自分だけがこの場所から動けない。
時音は膝を抱え、濡れた前髪を垂らしたまま小さく息を吐いた。
涙はもう落ち着いたはずなのに、胸の奥だけがずっと痛い。
別れた。
たったそれだけの事実なのに、世界の輪郭そのものが変わってしまったみたいだった。
スマートフォンの画面は暗い。
もう彼から連絡が来ることはない。
“おやすみ”
“今なにしてる?”
“今日会える?”
そういう当たり前が、全部終わった。
その実感だけが、遅れて身体の中へ沈んでいく。
時音はゆっくり目を閉じた。
すると浮かぶのは、派手なステージではなく、もっと小さな記憶ばかりだった。
深夜のコンビニ。
半分こしたアイス。
映画を見ながら寝落ちしたソファ。
大学帰り、くだらない話をしながら歩いた夜道。
彼はずっと、そこにいた。
なのに自分は、いつの間にか別の世界へ足を踏み入れていたのかもしれない。
光の中へ。
誰かに見られる場所へ。
“綺麗だ”と言われ続ける側へ。
そして彼は、その世界に入れなかった。
時音は濡れた唇を噛み、小さく肩を震わせる。
その時だった。
少し離れた場所で立っていた黒いスーツ姿の男が、ゆっくり視線を落とした。
相変わらず近づいてこない。
慰めない。
声も掛けない。
ただ、時音が一人で崩れていく姿を、静かに見守っている。
その存在が妙に現実的だった。
ホテルの中には、まだ煌びやかな世界が続いている。
シャンデリアが光り、
音楽が流れ、
誰かが笑っている。
けれど扉一枚外では、一人の女が恋を失って泣いている。
その温度差が、今夜の街をひどく冷たく見せていた。
時音はゆっくり顔を上げる。
雨粒が睫毛から零れ落ちる。
タクシーの赤い光が滲み、夜景はぼやけ、視界の中の全てが水の中みたいに揺れていた。
それでも街は綺麗だった。
残酷なくらいに。
雨は、もう痛いくらいだった。
高層ビルの隙間を抜けてきた風が、濡れ切った身体を何度も撫でていく。
細いドレスは完全に水を吸い、布というより冷たい膜みたいに肌へ貼り付いていた。
時音は裸足のまま膝を抱える。
片方だけ脱げかけたヒール。
濡れた石畳。
転がったスマートフォン。
全部がひどく惨めに見えた。
数時間前まで、自分はあんなに綺麗だったのに。
照明を浴びて、
歓声を受けて、
誰かに憧れられて。
ほんの少しだけ、“特別な女”になれた気がしていた。
なのに今は、雨の路上で一人泣いている。
時音はぎゅっと膝を抱き直し、小さく額を押し当てた。
涙が止まらない。
彼の言葉が何度も頭の中を巡っている。
『もう、隣にいる自信がない』
その言葉を、否定できなかった。
自分は変わっていないつもりだった。
大学へ通って、
コンビニでお菓子を買って、
くだらない動画を送り合って、
恋人として笑っていたつもりだった。
けれど現実には、少しずつ別の世界へ進んでいた。
光の強い場所へ。
視線が集まる場所へ。
誰かに“綺麗だ”と消費される場所へ。
そして彼は、その変化を一番近くで見ていた。
時音はゆっくり顔を上げる。
雨粒が睫毛へ溜まり、視界を歪ませていた。
タクシーの赤い光が路面へ長く伸びている。
水浸しの道路は、まるで夜景そのものを溶かしたみたいに揺れていた。
街は変わらず動いている。
誰かが笑って、
誰かが愛し合って、
誰かが今日を終えていく。
なのに、自分だけがここへ置き去りにされたみたいだった。
時音は震える息を吐き、足元へ落ちたスマートフォンを見る。
画面は暗い。
通知も来ない。
もう、彼から連絡が来ることはない。
その当たり前が、今さら現実になって胸へ沈んでいく。
遠くでタクシーのドアが閉まる音がした。
ホテルの回転扉が開き、暖かな光が一瞬だけ外へ漏れる。
けれど時音は動かない。
動けなかった。
この雨の中へ溶けてしまえたら楽なのに――そんなことを、ぼんやり考えてしまうくらいには。
頬を流れる雫は、もう雨なのか涙なのか分からない。
ただ胸の奥だけが、どうしようもなく空っぽだった。
結局、時音は立ち上がった。
いつまでもあの場所に蹲っているわけにはいかなかった。
雨は止まない。
街も止まらない。
だったら、自分だけが止まっているのがひどく惨めに思えた。
時音は濡れた壁へ手を付き、ゆっくり身体を起こす。
力の入らない脚がわずかに揺れ、高いヒールが水浸しの路面で滑りかけた。
「……っ」
小さく息を呑む。
身体が冷え切っている。
薄いドレスは完全に肌へ貼り付き、雨粒が首筋から胸元へ流れ落ちていく。
髪も崩れ、もうパーティー会場で笑っていた女とは別人みたいだった。
けれど、それでよかった。
今だけは、“綺麗な時音”でいたくなかった。
時音はゆっくり歩き出す。
裸足の片足が濡れた歩道を踏み、冷たい水が爪先へ跳ねた。
車道を走る車のライトが真正面から差し込み、白い光が雨粒を無数に浮かび上がらせる。
眩しい。
なのに寒い。
まるで街全体から拒絶されているみたいだった。
時音は俯いたまま歩く。
呼吸がまだ上手く整わない。
泣きすぎたせいで喉が痛い。
胸の奥もずっと苦しい。
それでも足だけは前へ出る。
止まったら、本当に壊れてしまいそうだった。
背後では、高層ホテルの灯りがまだ煌々と輝いている。
シャンデリア。
音楽。
笑い声。
グラスの音。
ほんの少し前まで、自分はあの世界の中心にいた。
誰かに見られ、
求められ、
綺麗だと言われ続けていた。
でも、その代わりに失ったものがある。
時音は濡れた睫毛を伏せ、小さく唇を噛んだ。
彼は最後まで、自分を責めなかった。
だから余計に苦しい。
もし“嫌いになった”と言われていたら、きっともっと簡単だった。
けれど彼は違った。
時音が輝くほど、自分が隣に立てなくなっていっただけだった。
その気持ちを、理解してしまった。
理解できてしまうから、何も言い返せなかった。
時音は雨の中を歩き続ける。
ネオンが滲む。
信号がぼやける。
通り過ぎる車の音だけが、やけに大きく聞こえた。
もう帰る場所が分からない。
いや、帰る場所はある。
部屋も、
大学も、
日常も。
けれど、
今夜まで当たり前だった“誰かが待っている場所”だけが、この世界から消えてしまった。
それが、どうしようもなく寂しかった。
雨はまだ、静かに降り続いていた。
時音は、もう振り返らなかった。
高層ホテルの灯りも、
シャンデリアも、
熱を帯びた歓声も。
全部、雨の向こうへ置き去りにして歩いていく。
裸足になった片足が濡れた路面を踏むたび、水が小さく跳ねた。
冷たいはずなのに、もう感覚が薄い。
ただ前へ進いている。
それだけだった。
背後から車のヘッドライトが差し込み、時音の濡れた背中を白く浮かび上がらせる。
薄いドレスは完全に肌へ張り付き、肩甲骨の線まで夜の光へ滲んでいた。
雨はまだ強い。
けれど時音は傘を探そうともしない。
今夜くらいは、このまま全部濡れてしまえばいいと思った。
頬を流れる雨粒。
冷え切った指先。
震える呼吸。
その全部が、“終わった”という現実を少しずつ身体へ刻み込んでいく。
彼はもういない。
これから先、自分がどれだけ綺麗だと言われても、
どれだけ光を浴びても、
今日みたいに電話を掛ける相手はもういない。
その事実だけが、静かに胸へ沈んでいく。
時音は小さく俯き、濡れた髪を揺らしながら歩き続けた。
街は相変わらず明るい。
ネオンは光り、
タクシーは走り、
誰かがどこかで笑っている。
世界は、自分の失恋なんか関係ないみたいに動き続けていた。
それが少し寂しくて、
少し救いだった。
もし世界まで止まってしまったら、きっと立ち直れない。
だから時音は歩く。
雨の中を。
滲む光の中を。
恋を失った二十歳の女として。
もう誰にも見られていない夜の街を、一人で。
数日後。
SNSには、あの夜の写真が何枚も流れていた。
スポットライトの中心で踊る時音。
シャンパンを片手に微笑む時音。
高層ホテルのパーティーを彩った、“美しいダンサー”。
コメント欄には、綺麗だという言葉が並ぶ。
憧れる。
会ってみたい。
映画みたいだった。
誰も知らない。
あの夜、同じ女が雨の中でしゃがみ込み、声を殺して泣いていたことを。
誰も知らない。
あの煌びやかな笑顔の直後に、一つの恋が終わっていたことを。
時音は大学帰りの電車の中で、その写真を静かに閉じた。
窓ガラスへ映る自分は、もうあの日ほど派手じゃない。
ラフにまとめた髪。
薄いメイク。
いつもの学生鞄。
けれど、確かに同じ自分だった。
あの夜から、彼とは一度も連絡を取っていない。
スマートフォンの履歴だけが、まだ消せずに残っている。
消してしまえば、本当に終わる気がした。
電車が揺れる。
窓の外では、雨上がりの街へ夕陽が滲んでいた。
時音はぼんやりと景色を眺めながら、小さく息を吐く。
あの夜、自分は最後まで綺麗でいたかった。
泣いても、
崩れても、
終わってしまっても。
それでも彼が好きだった女として、最後くらいは綺麗でいたかった。
――だからきっと、あの雨は必要だったのだ。
全部を流して、
全部を滲ませて、
“終わり”を夜景の中へ溶かしてくれるために。
時音は静かに目を閉じる。
胸の痛みは、まだ消えていない。
たぶん、すぐには消えない。
それでも時間は流れていく。
またステージへ立つ日も来るだろう。
誰かに綺麗だと言われ、
光を浴び、
笑う日も。
その時、自分が何を失ったのかを思い出すのかもしれない。
けれどきっと、それでも前へ進いていく。
あの雨の夜、一人で歩き出したみたいに。
大学の講義中、時音はあまり目立たない。
後方の席で静かにノートを取り、
教授の話へ相槌を打ち、
眠そうな友人へ小さく笑う。
それだけだ。
芸能人みたいな派手さも、
ステージ上の妖艶さも、
そこにはない。
白い薄手のトップスに細身のデニムという、ごく普通の大学生の格好で、
時音は講義室の空気へ自然に溶け込んでいる。
けれど、ときどき男子学生の視線が止まる。
理由は本人も分かっている。
座ってノートを書くたびに揺れる長い髪。
不意に振り返った時の目線。
細い身体に似合わない柔らかな曲線。
本人にその気はなくても、どうしても視線を集めてしまう。
それでも時音は、その視線に慣れているからこそ、特別な反応を返さない。
講義後には友人と学食へ行き、
「レポートやばいね」と笑い合い、
帰り道ではコンビニで飲み物を買う。
どこにでもいる二十歳の女子大生。
少なくとも昼間の彼女は、そう見える。
――けれど夜になると、時音は別人になる。
体育館の床へ座り込み、ストレッチで身体を開いていく時の表情は、
大学で見せる柔らかさとは違う。
呼吸を整え、
筋肉の伸びを確かめ、
鏡越しに自分のラインを確認する。
その視線は、驚くほど冷静だった。
ダンサーの身体は、“綺麗に動く”だけでは足りない。
どの角度で照明を受けるか。
汗がどこを流れるか。
ターンの終点で観客が何を見るか。
時音は、それを全部計算して踊っている。
体育館で汗を流す彼女を見ても、
昼間の大学でノートを取っていた女の子と同一人物だとは、
きっと誰も思わない。
けれど、その両方が本当の時音だった。
静かな講義室で小さく笑う時音も。
光の中で男たちの視線を奪う時音も。
どちらかが“演技”ではない。
だからこそ彼氏は、苦しくなってしまったのかもしれない。
昼間の彼女だけを知っていると、自分だけの恋人だと思える。
けれど一度ステージを見てしまえば、理解してしまう。
彼女は、自分一人では抱えきれないほど綺麗だったのだと。
そして時音自身は、まだそのことに完全には気づいていない。
講義室で振り返る時音は、
今日もただ、普通の女子大生の顔で笑っている。




