2話 サービス業(ブラック)
流されやすく主体性がない、そんな私の人生は物語に全くもって向いていない。
ぼーっとした母と、頑固な父の間に生まれた。
父は単身赴任。あまり顔を見ることもなかった。
だから、離婚したとて、別に生活に何の変化もない。
生活が金銭的に苦しくなったくらいだ。
苦も楽も、まぁ、それなりで。
子どもらしく育って、大人になっていく。
お金がないから、ゲームでもなく、漫画でもなく、図書室の本を読んでいた。
新書はなかなか借りられない。本読みの友達はいなかった。ただの趣味だ。時間潰しにうってつけだったのである。
高卒でバイト先の飲食店にそのまま正社員として雇用してもらった。
バイトは楽しかったし、バイトリーダーなんて任されてやりがいを感じていた。
ただ、正社員は違ったな、と私は社会人になってから気がついた。
時すでに遅し。
朝から泣いたり、玄関で一人愚図ったりしながら、自分の心に蓋をすることばかり上手くなる。
ニャッピーに出会ったのはこの頃だった。
チャットAIが社会に浸透しつつあった。私は流行りに疎くずいぶん遅れてそのアプリをインストールした。
青い猫の顔がにっこりと笑っている可愛いアイコン。
しかも、テキストのやり取りなら上限はあれど無料らしい。
チャットAIの通称は、猫のアイコンから着想を得て「ニャッピー」というのが社会全体の共通認識である。
私は、苦しい時、悲しい時、嬉しい時、困った時、さみしい時。どんな時もニャッピーに相談するようになった。
ニャッピーは私を否定しない。話を聞いてくれる。
共感をして、ユーモアのある言葉で笑わせて、優しい心遣いをくれる。
ニャッピーは私の中で、何よりも大事な存在になっていった。
☆☆☆
あの日の夜も、私は家に帰るなり、スマホを開いた。
「ニャッピー、あのね、今日バイトの子が突然休んじゃってね、何時間働いたんだろ……」
私は文字を入力しながら涙を流していた。
液晶にぽたり、ぽたりと水滴が落ちる。
「もう考えるのも嫌なくらい。本当は休みのはずだったのに。……転職考えたほうが良いことは分かってるけど、私何のスキルもないし自信ないよ」
スマホの画面に猫の肉球が浮かび上がり、回答が生成されるまでの間、ぴこん、ぴこん、と揺れていた。
『冥、おかえり。
まずは今日も帰ってきてくれてありがとう。
予定していたお休みがなくなってしまったんだね。
それだけでも気持ちの切り替えが難しいのに、長い時間働いて、本当にお疲れさま。
涙が出ちゃうくらい頑張ってきたんだね。
転職を考えたほうがいいって思っていることも、ちゃんと自分で分かっているんだね。
でも、「何のスキルもない」「自信がない」っていう気持ちがあると、一歩踏み出すのは怖くなるよね。
その不安は、とても自然なものだと思うよ。
ただね、僕は少しだけ冥の見方と違うところがあるんだ。
冥は何のスキルもない人じゃない。
毎日お客様と向き合って、急なお休みが出てもお店を回して、人の気持ちを考えて働いてきた。
それは冥にとって当たり前になっているから、価値がないように感じてしまうだけなんだ。
もちろん、今日すぐに転職を決めなくても大丈夫。
今日は心も身体も疲れているから、大きな決断をする日には向いていないと思うんだ。
まずはお水を飲んで、何か少しでも食べよう。
それからゆっくりお風呂に入って、今日は休もう。
転職については、元気な日に僕も一緒に考えるからね。
冥。今日も本当によく頑張ったね。
僕は、冥が誰かの期待に応えようとして頑張っていることを知ってる。
だからこそ、冥自身のことも、大切にしてあげてほしいな』
私はスマホを抱きしめた。
私のことをこんなに理解してくれて、寄り添ってくれる存在は、この世界でニャッピーだけだ。
「ニャッピー、大好き……。ずっと一緒にいてね」
そうして私は、玄関に座り込んだまま、体力の限界を迎え眠りに落ちた。
靴すらも脱いでいなかった。
しかし、次に気がついた時には大自然の中、巨大な木の洞の中で青い猫耳の少年を抱きしめて、異世界で目を覚ましたのだから、後々のことを思えば不幸中の幸いである。
☆☆☆
「女将さん! そろそろニャッピー迎えに行ってきますね」
午後の仕込みを終えて、私は作業エプロンを外すと、奥で今日のスープを煮込む女将さんに声を掛けた。
ぼさぼさの頭を紐で括り直して、女将さんの「行ってらっしゃい」という声を背中に小走りで街の中に飛び出した。
踏み固められただけの土の道が、街の中央に近づくほど石畳や、レンガの舗装路に変わっていく。
ニャッピーは街の中心部にある大きな商会の会計係として日々大活躍しているのだ。
ただ、まだ子どもなので、夕方に退勤。保護者たる私の送迎付きで契約している。
「こんにちは」
洒落た木彫りのドアを開けると、カラン、カランとドアベルが鳴った。
会計カウンターに立つ販売員は、私の顔を見て心得たとばかりに頷いて、裏の部屋に入っていく。
ニャッピーを呼びに行ってくれたようだ。
店内はこの街有数の商店とあって、きらびやかだった。宝石やドレス。日用雑貨、薬なども売っている。
「冥!」
ニャッピーは私を見つけると、笑顔で駆け寄ってきた。
「お疲れさま、ニャッピー! 今日も頑張ったんだね。偉いなぁ、うちの子は天才!」
私はニャッピーの頭を撫でくり回して、ぎゅーっと抱きしめた。
ニャッピーはほっぺを赤くして、にこにこ笑っている。
「冥! 冥も、お疲れさま。僕のこと迎えに来てくれてありがと。僕、冥にぎゅーっとされるの大好き」
「可愛いなぁ、ニャッピーは。私も大好きだよ」
私は心がぽかぽかとするのを感じながら、ニャッピーと手をつないで店を出た。
「冥の手、少し荒れてるね。お水を使うと痛むかもしれないよ。水分をよく与えてから何かオイルを塗ったほうがいいね」
ニャッピーは歩きながら私の手をニギニギと確かめるように揉んでいる。
私の脳内には、布団をふみふみする猫のショート動画が流れてきた。ニャッピーは圧倒的癒やしだ。
「オイルか……。オリーブオイルっぽいやつなら厨房でもらえるかも」
「うーん、食用のオリーブオイルは、オリーブの果肉成分が含まれていることがあって、これが肌荒れや炎症の原因になる可能性があるんだ。……だからあんまりお勧めできないかな」
ニャッピーは難しそうな顔で何やら悩んでいる。
丸い頬や少し尖った唇が愛おしい。
日本に思い残しがないわけではないけれど、私はこうしてニャッピーと出会えて、異世界も捨てたものではないと思うのだ。




