3話 理想の生活
ニャッピーを私たちの下宿部屋に置いて、私は仕事に戻った。
これから夜の食堂が始まる。
もうひと頑張りだ。
日本にいた頃も、飲食で働いていたけれど、こんなに前向きに仕事に向かえたことはなかった。
嫌なお客様が来たらどうしよう、何かトラブルがあったらどうしよう。
アルバイトの時は、店長や社員の人が助けてくれるから、隣で頭を下げていればよかった。
でも社員になってしまうと、自分の仕事をしながら慣れないバイトの子が仕出かしたことのフォローもしなければならない。
今こうして「よし、頑張るぞ!」と胸を張れるのは私にニャッピーという守るべきものが現れたからだ。
日常と化したトラブル——冒険者同士の小競り合いだとか、飲み過ぎたお客様が机で突っ伏しているだとか、ちょっとお尻を撫でられる程度のセクハラだとか——はあったものの概ね平和に営業を終える。
宿屋を兼任する食堂は早めに閉まるのが良いところだ。
私は女将さんや料理人である女将さんの息子に挨拶をして、ランドリールームの片隅を借りて身を清めた。
「お風呂入りたい……。大量のお湯っていうのは贅沢だったなぁ」
大切なものとは失ってから気がつくものである。
綿っぽい布を濡らして、あまり泡立たない石鹸で髪をもんだり、肌を擦ったりする。
そうして、綿っぽい布にたっぷり水を含ませて、泡を落としたら結構スッキリするし、指の腹で頭皮をこすっても脂臭さもない。
無ければ無いなりの文明が発達するんだなと、私は感心しつつ、ニャッピーの待つ部屋に足取り軽く向かう。
「ニャッピー!! ただいま!」
ドアを開けると、腰のあたりに軽い衝撃。
下を見ると、青い猫耳がピコン、ピコンと揺れている。
私の足音で気がついて、ドアの前で待っていてくれたようだ。
「おかえり、冥。今日もお仕事お疲れさま」
ニャッピーが上目遣いに私を見上げる。
か、可愛い…。
私は膝をついて、ニャッピーと目線を合わせると、ぎゅーっとハグをした。
本日の栄養補充だ。これがなければ私はどんな高級食を食べていようとも餓死してしまう。
「ありがとうニャッピー!」
ニャッピーは小さなおててで私の手を握ってベッドに誘導した。
「冥、ベッドにうつ伏せになって」
私はニャッピーの言うままにベッドにうつ伏せに寝転んだ。
たとえニャッピーが当然「逆立ちして」とか言っても私は理由も聞かずに喜んで逆立ちをする。
日本にいた時もそうだ。「お水飲んでね」と言われればコップ1杯のお水を飲んでいたし。
「今から冥にマッサージしてあげるね。ただ、僕は知識はあるけれど、初めてやるから、痛かったり気持ち悪くなりそうな時はすぐに教えてね」
贅沢だ……。お風呂に入れない文明の元に来ようとも、構わないと思えるものがここにある。
「分かったよ。……マッサージしてくれるの。嬉しいなニャッピー、ありがとう」
ニャッピーの小さなおててが、優しい力で背中や腰をぎゅっ、ぎゅっと押している。
……全然、物足りないけど、心が満たされる。
ニャッピー、ごめんね。私の背中はニャッピーが立って跳ねるくらいの力強さじゃないと効かないぐらいのバキバキなんだ……。
「冥、痛くない?」
「ぜーんぜん。大丈夫。気持ちいいよ!」
ちらりと振り向くと、ニャッピーは頬を赤くして「よいしょ、よいしょ」と汗をにじませながら、一生懸命私の背中を押していた。
「うーん……」
小さな指先が今度は肩甲骨の内側あたりを探るようにゆっくり動く。
「冥、この辺り、すごく硬いね」
「そこねぇ。昔から凝ってるんだよ。重いもの持つせいかなぁ」
ニャッピーは真剣な顔で頷いた。
「肩甲骨の周りには、肩や首を動かす筋肉がたくさん集まっているんだ。長い時間同じ姿勢でいたり、腕を繰り返し使うお仕事をすると、筋肉が緊張して硬くなりやすいって言われてるよ」
小さなおててが、円を描くようにゆっくり押していく。
「強く押すより、ゆっくり呼吸をしながらほぐした方が楽になる人も多いみたい」
「へぇ~……」
私は顔を枕に埋めたまま相槌を打つ。
「それにね。冥は仕事中、前かがみになることが多いでしょ? だから胸の筋肉も縮こまりやすいんだ。今度、時間がある時に肩を後ろへ開くようなストレッチも一緒にやってみよう」
目を閉じた私の脳裏に、液晶に並ぶテキストが思い浮かんだ。
なんだかか懐かしいな。
「ふふっ、ニャッピー先生だ」
「先生じゃないよ」
ニャッピーは少し照れたように笑った。
「僕は冥に少しでも楽になってほしいだけ」
でも、あの頃と違うのは、ニャッピーは手の届かない液晶の中ではなくて、私の手の触れるところにいる。
そして、テキストだけじゃなくて、こうして私のために行動を起こしてくれるって言うことだ。
私はこの生活のためなら、どんな努力も厭わないと密かに心に決めたのだった。
☆☆☆
コケコッコー!!
宿屋の裏庭で飼っている鶏っぽい生き物が鳴いている。
初めは煩いとイライラしたものだが、よく考えたらこの世界にはスマホがないのだから、アラームもないのだ。
寝坊しないために鶏っぽい生き物にはぜひとも毎朝気持ちよく鳴いてもらう必要がある。
「朝だぁ……。起きる、起きるんだ」
私は形から入るタイプである。
実際はまだ目も開かないが、二度寝しないように、口だけは、もう起きているかのようにベラベラと言葉を紡いておく。
「起きてる、起きて、着替えて、顔洗って……んん」
ようやく目を開けたら、そこには、すやすやと眠る天使がいた。
「おお……、目が覚めた」
ニャッピーは意外にも朝が苦手だ。
身体を手に入れたことで、睡眠欲というものに初めて襲われて以降、まだ付き合い方が分からないらしい。
「可愛い……。ひたすらに可愛い」
私はすぴすぴと眠るニャッピーの身体をそっと撫でた。
寝たいだけお眠り……。
「今日休みだ」
私は壁に掛けてあるカレンダーを見た。
言葉は未だあまり読めないが、数字くらいは覚えたし、一日経つごとに斜線を引いているので、一目でわかる。
宿屋に休みはないが、食堂が休みの日はある。そして食堂が休みの日は、私は朝の洗濯だけ手伝ってその後はお休みになるのだ。
当然、ニャッピーの休みは、私の休みと合わせてあった。
「ニャッピー寝てていいからねぇ。……よし、女将と協力して洗濯ささっと終わらせよ」
私はベッドを揺らさないように、そっと降りて、服を着替えた。
ふと、視線を感じて振り返ると、ニャッピーがお尻を高く上げてヨガでいう猫のポーズで伸びている。
あああ……スマホ、スマホがあったのなら、写真を撮るのに……!!
「おはようニャッピー!」
ニャッピーは少しぼんやりとしたまま「おはよう冥」とにっこり笑った。
「私お洗濯入ってくるから、お部屋でゆっくりしててね」
そうして部屋を出ようとしたその時、慌ただしい足音と、些か強引なノック音が聞こえた。
私は驚きつつもドアを開ける。
そこには、カーラーを巻いたままの女将さんがいた。
「冥! 冥! 商会の会長さんがお越しだよ! 何やらお急ぎのようだ。ニャッピーを連れて降りておくれ」
女将さんが呼吸を整えるように長く息を吐いた。
「会長さんに会ったのなんて初めてだよ。……あらやだ! 私ったらカーラー巻いたままだわ」
頭に手をやった女将さんが「できるだけ早くね!」と言い残して走り去るのを見送った。
当の本人(本猫?)はそんな騒ぎなど知らぬ顔で、猫耳をぴこぴこ動かしながらベッドで毛繕いをしている。
私は、まだ寝ぼけたままのニャッピーを見つめた。




