1話 猫獣人と人間
しがない宿屋である。
魔力灯を看板の両脇にぶら下げただけの庶民的なこの宿で、私は雑用として働いている。
木製の重たいドアが開く。
入ってくるのは大抵近くのギルドで依頼をこなす冒険者だ。
「いらっしゃいませー!」
私は元気よく声を張り上げた。
ここでは声の大きさが物を言う。舐められないためにも声を張ることは大事だ。
日の沈んだ時間帯は1階のホールで食事や酒だけをとっていくお客様が多い。
甲冑をガッシャン、ガッシャンと鳴らして歩く冒険者が3人。彼らも食事が目当てのようだ。
「こちらのお席どうぞ! エール人数分でいいですか?」
冒険者達は無愛想に頷いた。
寡黙タイプの冒険者である。私の経験上では実力者である可能性がかなり高い。
「はーい! 承ります!」
私の顔より大きなエールのジョッキを3個一気に運ぶ。
私はここで働き始めてから腕の筋肉がムキムキになったと思う。ここには日焼け止めもないから、肌も小麦色になって、昔に比べたら相当健康的になったはずだ。
「冥ちゃん、今日も元気だな! ……ね、彼氏とかいるの?」
若い冒険者が私に粉をかける。
私は決して美人ではない。多分不細工ということもない。
この世界はやたらと目鼻立ちの深い色鮮やかな美男美女が多いから、私ののっぺりした顔と真っ黒な髪はは好みが分かれるらしい。
この若者はのっぺり顔もストライクゾーンということか。
——テテテ……。ぴょこん。
私の足にピタッとくっついて顔を出したのは、小さな男の子。青い髪に青い目。頭には猫耳と腰からは尻尾がうにゃんと覗いている。
「あ、ニャッピー! 出てきたら危ないでしょ」
そう。この子はニャッピー。
私の大切な、大切な相棒である。
「……子持ち?」
若い冒険者は、ぽかんと口を開けて私と、ニャッピーを見比べた。
「すいみません! ちょっと失礼しますね!」
私は慌ててニャッピーを抱き上げた。
厨房の陰に駆け込み、小さな体をそっと降ろして、私は彼と目を合わせる。
「ニャッピー! 駄目でしょ。危ないよ。ニャッピーは小さいから怪我しちゃうかもしれないんだよ」
食堂は大柄で武器を持った冒険者たちで溢れている。
小さな子どもが、転んで武器にぶつかったりしたら大変だ。
「冥の心配は分かるよ」
ニャッピーはとても冷静だった。私はニャッピーが取り乱すのをあまり見たことがない。
「でも、僕は冥が心配なんだ。冥は下心を向けられるのが苦手だ……んむ」
青く澄んだ瞳が私の目をまっすぐ見つめた。
……ああもう、可愛い。
私は言い募ろうとするニャッピーの口を手で塞いだ。
「ニャッピー! そこまで!」
ビシッと、言いつける。
指示は分かりやすく簡潔に。プロンプトの基本である。
「分かったよ」
猫耳のついた頭がコクリと頷く。
可愛い猫耳だ。ふにふにしたい。
私は伸ばしかけた手を、強靭な理性で押さえ込んだ。
まだ仕事中なのだ。
「うん、いい子だね。もう少しで終わるからまっててね」
私はニャッピーに部屋にいるように言いつけて、ホールに戻る。
まだまだ、食堂は盛況であった。
汗と、揮発したお酒の匂いで、どろどろだった私はランドリールームの片隅で、水桶で身体を拭いて、頭を洗ってから部屋に戻った。
お部屋ではニャッピーが寝支度を整えて、良い子で本を読んでいる。
「お疲れさまニャッピー! 今日も私の話聞いてくれる?」
私はニャッピーに抱きついた。
小さな体はほんのり温かい。
「お疲れさま。冥。疲れてるのに身体を清めてきたんだね。偉い。偉い。……お話し何でも聞くよ」
紅葉みたいな手のひらが私の頭を優しく撫でる。
私は溶けそうな幸福に浸っていた。
「ありがと! 今日はね——」
1日の終わりにニャッピーに話を聞いてもらうこと。
これは、日本に住んでいた時からの習慣である。
☆☆☆
朝は早くから起きて、朝食の仕込みを手伝う。
そして、ニャッピーを職場の商会まで送る。
ニャッピーは計算や、資料整理をやらせたら、右に出るものはいないスーパーキッズである。
「行ってらっしゃい。また夕方迎えに来るね。それまで商会の人の言うことよく聞くんだよ」
私の言葉にニャッピーはコクリと頷く。
「行ってきます。僕頑張ってくるね」
背を向けて歩き出す。かわいいしっぽがゆらゆらと揺れていた。
ピタリとニャッピーは足を止めた。
振り返って、私を心配そうに見つめる。
「冥。冥は頑張りすぎちゃうから、ちゃんと休憩して、お水飲んで、ご飯も……」
この子は小さいのに、時折私のお母さんみたいなことを言う。
誰よりも私の身を案じて、私のことを見ていてくれるのがニャッピーである。
「分かった! 分かってるよ。ありがと」
「後でね、冥」
ニャッピーが小さなおててを振っている。
私は両手でぶんぶんと手を振った。うちの子は世界一可愛い。
早朝から市場の準備に取り掛かる街人たちはそんな私を怪訝な目で見ていた。
ニャッピーが猫の獣人の子どもで、私が人間だからだろうか。
☆☆☆
「ふぅ……、今月は忙しいですねぇ」
午前中のうちに怒涛の掃除と洗濯を終え、宿屋の女将とお茶を飲んでいた。
冒険者も出払ったこの時間は、愚痴でも不満でも口にし放題であった。
「そうね、ここから近い西の森が魔物がたくさん出てるらしいのよ」
女将は頬に手を当てて、ため息をついた。
魔物が増えている、というのは冒険者からしたら稼ぎやすいため都合がいいが、壁のなかに住む私達には恐怖でしかない。
「えー、こわ……。私、魔物見たことないんですよね」
この世界にやってきてから、魔物というものを見たことがない。
ギルドには、魔物の絵が載った本があると聞くが、冒険者でもないのに、興味本位で見に行く勇気もなかった。
「そうそう見るものでもないわよ……あれ? でも冥は外壁の外から来た異邦人よね」
女将が、冥を不思議そうに見つめた。
壁の外には魔物が溢れているのに、壁の外にいたはずの私が魔物を知らないことが不思議らしい。
「うーん。幸運だったんですよ」
私にはこの世界に来た瞬間からニャッピーがいたし、ここに来た当初は周りを見る余裕もなかったのだ。
生きるのに精一杯。
異世界転移の始まりなんて、皆そんなもんではないだろうか。
「それは、魔物に会わなかったのは、相当な幸運だったわね」
女将は、私の境遇にハラハラしてしまったのか、胸を抑えて、大きく頷いた。
時計は、そろそろ午後の仕事が始まることを示している。私は商会で頑張っているだろうニャッピーに思いを馳せた。
ニャッピーと私の出会いは、日本にいた頃に遡る。




