第8話:闇騎士ヴェイグは普通に歩けない③ ── 魔界の空気は吸えるのに、専属従者の淹れるお茶しか喉を通りません
薄暗い窓の外では、濁った紫の雲が低く垂れ込めていた。
昼なのに夜明け前のようだ──これが【魔界】だと理解したのは数日前のこと。
僕がエルニアから【闇騎士ヴェイグ】へと書き換えられた日以来、ずっとこの景色だ。
「お目覚めですか、ヴェイグ様」
耳を打つのはアランの硬質な声。
彼は几帳面にベッド脇の小机を整えながら僕を見つめる。
灰色と青と黄色が混ざる不思議な瞳を持つ彼は、衣装にも髪にも寝癖ひとつない完璧な佇まいだった。
毎朝同じ時間に起こされるのはスマホのアラームで十分だ。
アランは一体いつ寝て、いつ起きてるんだろうか。
内心での愚痴とは裏腹に、ヴェイグの顔は無表情のままゆっくりと上半身を起こした。
「……ああ」
低い声が喉から漏れる。
「お茶をお淹れしました」
イシューが柔らかな笑顔でカップを差し出す。
湯気とともに漂う香りは、確かに彼の得意とするブレンドティーだろう。
微かに甘い林檎のような匂いが鼻腔をくすぐる。
これを飲んでいたら洗脳が解除されたりしないだろうか。
いや、ゲーム的にはそんな都合のいい展開はないはずだ。
手を伸ばそうとしたとき、ふと気づく。
魔界の空気──いや、瘴気のことを。
前世の記憶では、ゲーム『ムーンレスナイト・クロニクル』通称『ムンクロ』の魔界は猛毒ガスの溜まり場だった。
人間なら即死級のダメージを受けるはずの場所だ。
だからゲームの終盤に魔界へ行く際は、瘴気を防ぐ薬を作るために特殊な薬草を探す必要があった。
でも、今の僕は……。
「アラン」
呼びかける声は、自分で聞きたくないほど冷たい。
「はい?」
「魔界の環境について訊きたい」
「承知しました」
彼は即座に革張りの手帳を開いた。
「魔界は魔王様の力によって満ちる高濃度魔力と、瘴気によって構成されております。本来ならば生命力を持つ生物にとって有害極まりない空間ですが──」
「そこだ」
私の指先がアランの言葉を止める。
ヴェイグの剣士らしい無骨な仕草が勝手に出てしまう。
「その高濃度瘴気に、私は……」
慌てて言い換えた。なるべく、ヴェイグらしく振る舞わなければならない。
「なぜ通常通り呼吸ができる?」
アランがコテンと首を傾げた。
20代くらいに見えるが、その仕草のせいで妙に幼く映る。
「それはご自身が魔族であられるからでは?」
イシューも微笑みながら補足する。
「魔族とは古来より瘴気の中で生き抜くために進化した種族です。私たちは生まれた時から体内に自然浄化機構を備えていますからね」
「……なるほど」
納得いかない返事を返しつつも、心臓が早鐘を打った。
違う、僕は元々人間だ。エルニアなんだ。
だがアランたちの眼差しは揺るぎなく、僕を信じ切っている。
まさか目の前の上官がつい数週間前まで普通の人間だったなんて、想像すらしていないだろう。
「あらら」
イシューがおっとりと言い直した。
「もしかして、日頃のお疲れが出ているのかもしれませんね。魔王様のご命令とはいえ……」
そう、この従者達は知らないが、僕はまだ闇騎士ヴェイグになってから日が浅い。
相変わらず、視界にチラつく深藍色の長い髪には違和感しかなかった。
この髪を洗うのも乾かすのも一苦労だ。
洗ってもらうのは辞退したものの、彼らは各々のこだわりの方法で、ヴェイグの髪をそれは丁寧に手入れしてくる。
「いや……問題ない」
ヴェイグの仮面を被り直す。
『イヴェット……本当にごめんな。君は怒ってるよな。いや、抱え込むヤツだから泣くことすらできていないかもしれない』
親友の顔が脳裏を掠める。
この状況でさえ彼の安否を考えてしまう自分に、自嘲の念が浮かんだ。
敵として相まみえることになった幼なじみに対して、まだ「親友」の肩書きを捨てきれない。
思考を飛ばしていると、アランが資料をめくりながら話を続ける。
「魔界の植物は全て毒性を帯びております。大地からは常に紫炎が噴出し、太陽光すら届かぬ深淵。通常の人間ならば三分と保たない領域です」
『えっ、怖っ! やっぱり記憶通りのデスゾーンじゃん! でも何で平気なんだよ僕……いや、ヴェイグの肉体は?』
そこに、思考の隙間に入り込むイシューの声。
「ただし!」
彼がぽんと両手を叩く。
「最近、少々変わった動きがあるようで。北東区域で稀に瘴気が薄まるスポットが確認されています。調査隊が派遣される予定とのことですよ」
「ほう……」
興味を示す素振りを見せながらも、僕の胸中は疑念で満ちていた。
これには僕が関係しているのだろうか。
ヴェイグになったことで何らかの変異が起きているのか、それともゲームシナリオ上は起きていたが、イヴェットサイドが知り得ない情報だったという可能性もある。
突然、イシューが腰を低くして頭を下げた。
「失礼いたします。朝食の膳が到着したようです、ヴェイグ様。お話の続きは後ほどでお召替えを……」
扉越しにカートの音が響く。
従者がトレイを運び入れ、イシューが手早く食卓を整えていく。
僕は渋々、アランによって着替えさせられる。
なぜ、自分一人で着れない服が存在するのだろうか……不便だ。
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第8話をお読みいただきありがとうございました!
魔界での本格的な活動を始める前に新たな疑問が出てくるエルニア。なぜ、自分はこの魔境で通常に生きていけているのか謎は深まるばかり……、次回もお読み頂けると幸いです。
次回の第9話は、【明日のお昼(12:00頃)】に投稿予定です。
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