第35話 焦がしバターの香りと、消えていく違和感
「ヴェイグ様。陛下からのお手紙が届いております」
僕が魔界小麦からでもふわふわモチモチのパンを作るために、細かく分量を変えて実験をしていた時のこと。
そこにイシューが紅茶の差し入れと共に、またあの朱色の封蝋が淡く輝く手紙を持ってきた。
イシューは僕がその封書を矯つ眇めつしているうちに、パン生地の入った瓶やボウルをラベルの向きを揃えながら整理整頓し、ティータイムができるように手際よく机を整えてくれる。
「本日のお茶請けは、ヴェイグ様がお作りになったリラックス効果が高いとされるラベンダー入りのクッキーです。それに合わせ、香りは少し抑えた旨みのある茶葉に、コクのある山羊乳を合わせてミルクティーにしてみました」
「あぁ。クッキーの香りを邪魔しない素晴らしい組み合わせだ。ありがとうイシュー」
この頃、ヴェイグ語自動翻訳にも慣れてきたのか、魔王軍最高幹部・闇騎士ヴェイグらしく振る舞いながらも、お礼をしっかりと伝えられるようになってきた。初期に比べればだいぶ進歩したと思う。
イシューから差し出されたペーパーナイフで恐る恐る開封していく。そこには予想していた通りの、あの神経質な字で簡潔にこう書かれていた。
【明日 八つ時 奥の私室に来るように】
シンプルに嫌だ。
『というか、この前より猶予期間が短くなってないか!? 本当に気が進まない』
この前だって、向こうは何でもない風を装っていたけれど、絶対あのお茶会で何かされたに違いない。
じゃなかったら、記憶の混濁なんて起きるはずがない。普通に生活していて記憶がすっぽ抜けるなんてこと、あるはずがないだろう?
『いや……まぁ、魔王の洗脳魔法を喰らってる時点で普通の基準からズレてる自覚はあるけど。あの呪縛の鎖ってそんな細かい操作出来たのか?』
設定資料にもその術式効果については、あまり詳しく記載はなかったんだよな。
今回はそれと供儀式について、何か聞き出せるといいのだけれど……。
なんだか、あそこに行くと頭がぼーっとするというか、僕とヴェイグの境界線が薄れていく気がして本当に嫌なんだよね。
絶対、あのお茶に何か盛られてるに違いな──ッジジ。
視界の端に砂嵐が走り、わずかにズレが生じる。
「ヴェイグ様……ヴェイグ様!」
「……何か言ったか? イシュー」
「いえ、特に何もなかったのですが、急に黙り込んで手紙から目線を外さず、微動だにされなかったので、体調が悪いのかと思いまして」
また自分の考察に夢中になって、イシューの言葉を聞きそびれたのかと思ったが、どうやら大丈夫だったようだ……。
この考え込む癖は、気をつけないとな。
軽く手を振って何でもない旨を伝え、あまり動かせない表情筋の中でも、極力上品に見える顔で応える。
「問題ない。ただ、献上品をどうするか悩んでいたでけだ」
「アランからマカロンは好評だったと聞いたので、また次もお菓子にされるのはいかがでしょうか?」
「ふむ。それもそうだな。料理長から良い発酵バターが手に入ったと、ロスタづてに報告が来ていたからフィナンシェにでもするか。マヨネーズが人気で卵白がまた余ってしまい、廃棄にでもなったら勿体無いからな。陛下にもその素晴らしさを知っていただこう」
イシューの瞳に、かすかな戸惑いと恐怖が揺れるが、僕はフィナンシェについて語り続ける。
『……そうだ! 僕は最初から、陛下とのお茶会のお菓子を考えてたんだ!』
いつの間にか、脳内での呼び方が「魔王」から「陛下」へと自然に切り替わっていることにも、今の僕は気づけない。
食事改善による魔王軍の精神衛生効果について、事故防止の観点からも手短にお伝えしないといけないからね。
あっでもバターを焦がすと魔力の変質が起きるかもしれないから、しっかりと丁寧に漉して風味だけ閉じ込めるようにしないと……それから……それから。
「……ヴェ……様。……イグ様!」
「あぁ。わかってるよイシュー。早速、厨房に向かおう」
僕は弾むような足取りで、目的地へ向かう。
後ろは振り向かずに、イシューが当然のようについてくるのを信じて進む。
自分に付き従う彼の悲痛な顔すら見ずに、ただ、ただ“料理をする”ために……。
第35話をお読みいただきありがとうございました!
ちなみに私の好きな焼き菓子はフィナンシェです! 皆さんは何がお好きですか!?(本編のエルニアに引きずられました笑)
次回の第36話は、【9/1(火) 18:00頃】投稿予定です!
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