第34話 トラウマで精神が限界突破した僕、狂気のゲーマー思考で『完璧なカレー』を煮込んでしまう
──トントントンッと規則正しい音だけが、この静寂な厨房に響き渡る。
今はこの音だけが、僕の精神を落ち着かせてくれる気がした。
そのせいか、いつもより細かくみじん切りされた玉葱、ニンニク、生姜、人参、パプリカ、ナス、ズッキーニ、トマト……。
それらの野菜が作業台の上で所狭しと山になっているが、僕の手は止まることを知らない。
だって、軍のみんなに食べてもらうならこんな量では足りない。
もっともっと刻み続けなければ……食べさせなければ……。
ふと、赤く熟したトマトを掴もうとした自分の手が、真っ赤な血に染まっているような幻覚にまた襲われた。
──あはは、おかしいな。さっき手の皮が擦り切れるほど何度も何度も洗ったはずのに。
僕は小さく頭を振り、闇の魔力でそっと両手を覆う。
そうして作った即席の『黒い手袋』で嫌な幻覚を覆い隠し、再び包丁を握り直した。
そうこうしているうちに、山になって積んであった野菜たちの下拵えは終わったようだ。
大量に炒めるから、いつもの魔導コンロでは火力が足りないかもしれない。
そう判断した僕は五徳に向かって、火魔法の呪文を唱える。
「炎よ! より猛き勢いで熱せよ! ロモルス《l'amorce》(導火線)・アルデ《ardere》(燃える)」
五徳の、元々はガスで青く色付いていた炎が僕の魔力を吸って紫に変わり、やがて勢いを増し紫黒色の大きな猛り火となって燃え盛る。
……うん。これくらいの火力があれば十分だろう。
僕は溢れ出る魔力を絞り、大きく燃え上がった火を制御する。
一番大きい寸胴鍋にたっぷりのバターと香味野菜を放り込めば、じわじわと溶けた脂が芳醇な香りを弾けさせた。
焦げ付いて魔力の変質が起きれば、軍の精神汚染は止められない。完璧な状態に仕上げなければ。
僕は木べらを握り、じっくりと炒めていく。
一口サイズにぶつ切りにした鶏肉を加え、表面に美味しそうな焼き色が付いたところで一度バットへ避難させる。
鶏の旨味が溶け出したたっぷりの脂の中へ、今度は玉葱を投入する。
今回は綺麗な亜麻色になるまで炒める必要があるので、火加減に細心の注意を払いながら加熱し、こちらも一度バットへと取り出した。
これで一歩、平和に近づくはずだ。
そこにトマト以外の野菜を全て入れ、魔力を解放し、一気に炒めていく。
これほどの量だと僕の手だけでは焦げ付かせてしまうかもしれないため、風魔法で補助しながら全体を混ぜ、火が通ったらバットに避難させておいた香味野菜とバター、鶏肉、玉葱を戻し、トマトを加える。
うーん、この時点で美味しい香りがするが、今日はもう一手間加えさせてもらおう。
前にスパイスソテーにした時に調合しておいた、カレー用スパイスだ。
本当は油に入れてじっくり炒めた方が良いらしいと聞いたことがあるが、今回は薬効も欲しいので沢山入れる。
『あれ、でも魔界の鶏肉って地球のより筋繊維が強靭だから、普通に炒めただけじゃパサつくのでは……!? いや、待て、さっきの工程でしっかりメイラード反応を起こして旨味を閉じ込めたとはいえ、事前にパパイヤの酵素的なアレでマリネ(酸味とタンパク質分解)しておくべきだったかもしれない……!』
脳内で突如として湧き上がった致命的なミスへの懸念に、僕の背筋に冷や汗が走る。
いけない、これではお肉がパサついてしまう。完璧な精神の平穏を提供しなければならないというのに、僕としたことが大きな見落としをしてしまった……!
はっ!お肉はまだある。これを今から魔法を使って時短してタンドリーチキンにして一緒に煮込めば2種類のチキンの食感が絶妙なハーモニーを醸し出してくれるのではないか!?
「ふっ、危機的状況をひっくり返すことこそが重要だと……♪」
僕は不安定な鼻歌を口ずさみながら、魔法で強引に下味を染み込ませたタンドリーチキンを、ぐつぐつと煮える寸胴鍋へと豪快に放り込む。
うん、完璧だ。これでもうお肉がパサつく心配はない。
カレーの香りがしてきたが、まだ完成じゃない。
前回のマカロンの時より大量の木の実やナッツを用意したので、さすがに闇騎士ヴェイグの握力だけで全てを粉砕するのは困難だ。
『それに──この血に染まった禍々しい手で、みんなを救うための食材に直接触れるわけにはいかない。だって、穢れてしまうだろう?』
黒い手袋の奥でじっとりと汗ばむ両手を見つめ、僕は奥歯を噛み締める。
あまり得意ではないが、ここは風魔法で粉末状にするべきだ。
「風よ、我が目の前にある障害を粉塵とかせ──フラゴール(粉砕)・ヴァン(風)!」
威力調整に神経を割き、慎重に粉末状にしていく。
少し集中が乱れただけで部屋の壁を削りそうになったが、どうにか収めることができた。
今回は最初から魔法を使うつもりで、周りの人間を退避させておいて正解だったな。巻き込んだら大変だからね。
そこに水を入れ、攪拌し、即席アーモンドミルク?
『いや、ナッツミルク』の完成だ。
トマトの水分が凝縮され、とろみがついてきたのを確認してから、そこへさっき作ったミルクを足し、じっくりコトコト煮込んでいく。
仕上げに追いバターをたっぷり溶かせば, バターのコクとスパイスの香りが絶妙に絡み合う、特製バターチキンカレーの完成だ!!
本当はチーズクルチャも焼きたかったが、致し方ない。
魔界の少ないグルテンの小麦粉では、日本人が大好きなフワフワもちもちを再現することは困難だ。
完全で完璧な食感による精神の平穏を配るためにも, 妥協は許されない。次回への絶対の課題とする。
暗がりに向かって、僕は声を張った。
「ロスタ。完成したので皆を集めてもらっても良いか? 美味しい食卓にしよう……」
少し間が空いてロスタが闇から姿を現し、深々と。しかし気品溢れる仕草で一礼する。
あまりの不気味さに引き攣りそうになる喉を必死に押し殺し、ロスタは精一杯の敬意と、主へこれ以上の心労をかけまいとする虚勢の笑みを浮かべてみせた。
「ヴェイグ様……! 仰せのままに、すぐに兵たちを呼んで参ります!」
掲げた指先と声が微かに震えていたが、忠義に満ちたその態度は、僕の目には実に頼もしく映った。
──うん、うん。みんなお腹を空かせているんだな。僕の料理で、早く笑顔にしてあげないと。カレーの刺激的な香りは空腹中枢に効果的だよね。
僕は絶望と狂気に満ちた厨房の片隅で、一人満足げに頷くのだった。
……これで魔王軍の食糧事情改善へと、また一歩前に進むことができた。
そうだよね、イヴェット……。君を救うためなら、僕はなんだってするよ……。
第34話をお読みいただきありがとうございました!
ついに第2部が開幕しました!
壊れかけた精神を安定させるため……そして魔王軍を手懐けるため(?)、ひたすら料理を作り続けるエルニア。そして、そんな彼の狂気に寄り添い、巻き込まれていくロスタたち従者の奮闘記。
ここから始まるエルニアの「狂乱クッキング」を、ぜひ楽しんでいただけたら嬉しいです!
次回の第35話は、【8/30(日) 18:00頃】に投稿予定です。
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