第3話 抗う記憶と負けイベントの予兆
「約束……?」
ヴェイグと名乗った自分が、冷酷に嗤う。
「そんな些末な事はとうに忘れた。弱き者が互いを慰め合うための方便に過ぎない」
その言葉を聞いて、イヴェットの顔から血の気が引いていく。
いつもの凛とした声がガラガラに掠れ、
「嘘だ……嘘だろエルニア……? あの約束を、お前が、忘れるはずがない……!」と、世界がひっくり返ったような顔で絶望する。
怒りと悲しみが入り混じった表情だった。
『やめろ、言うな、これ以上そんな残酷な言葉を紡ぐな!』
心の奥底で必死に叫ぶ。
だが、僕の願いを無視して、勝手に動き出す口が言葉を紡いでいく。
「この世界に必要なのは強者による統治のみ。力なき正義など虚像でしかない。救世主イヴェットよ、お前が何者であろうと私は容赦なく叩き潰す。世界を救うなどと宣う傲慢さに、制裁を与えてやろう」
違う、そんなの僕の本心じゃない。
本当は、ただイヴェットと過ごす当たり前の日常を守りたかっただけなんだ。
脳内で必死に訴えるが、その叫びが表面に届くことはない。
だが奇妙なことに、この絶望的な状況で初めて希望が見えた気がした。
僕自身の意志がまだ死んでいないこと──それ自体が、反撃の突破口になるかもしれない。
魔王ユラシーズが玉座から立ち上がり、高らかに宣言する。
「よくぞ言った、闇騎士ヴェイグよ。これよりお前には試練を与えよう」
魔王の掌から赤黒い球体が浮かび上がり、僕の胸へ吸い込まれていった。
胸に飛び込んできた、おぞましくも莫大なエネルギーの塊。
それが何なのかを理解するよりも早く、全身が燃えるような感覚に襲われ、それと同時に新たな力が漲ってくる。
「我が力を分け与えた。今のお前は以前の十倍以上の能力を持つ」
魔王は満足げに微笑んだ。
「まずは小さな反抗勢力である『黎明の道標』を壊滅させてみせよ。そこなる救世主イヴェットが属している組織だ」
その指示を聞いた瞬間、これまで感じたことのない高揚感が湧き上がる。
破壊衝動──すべてを蹂躙したい欲望が、抑えきれないほど膨らんでいく。
『落ち着け、冷静になるんだ。これは僕の感情じゃない、洗脳によって植え付けられた偽りの衝動だ!』
懸命に自分を律しようと言い聞かせるものの、それを嘲笑うかのように、ヴェイグとしての利己的な人格が主導権を取り始める。
「承知しました、我が主。救世主ごとその組織を灰塵に帰しましょう」
ヴェイグは流麗な動作で、魔王に向かって一礼した。
「待ってくれ!」
イヴェットが一歩踏み出し、剣を構える。
しかし、その腕は小刻みに震えて、正確な狙いは定められていなかった。
「エルニア……お前を止める。どんな姿になっても俺は……!」
◇
ヴェイグとしての身体が自然に動く。
右手に持つ剣を構え直す動作には、優雅ささえ漂っていた。
かつてエルニアが使っていた訓練用の粗末な剣とは全く別物だ──暗闇を集めたような黒銀の刀身に、禍々しい紋様が浮かび上がる。
先程とは違い、抵抗すら出来ずに、その刃先に昏い意志を宿してイヴェットへ躊躇なく構えを取った。
目の前の親友を見る自分の視線が、どこまでも冷たく鋭くなっているのを感じる。かつての温かな眼差しなど、もはやそこにはなかった。
「救世主殿」
自分の口が流暢に発音する。
頭の中で何を叫んでも肉体は完全に敵の制御下にあり、実際に空気の振動で伝達されるのは冷たく澄んだ声音で、感情の起伏は皆無だ。
「貴様と戦うのは本意ではない。今すぐ降伏すれば、苦痛なく始末してやろう」
『こんなことを言うつもりじゃない!』
心の中で必死に否定しながらも、紡がれる言葉は残酷に彼を傷つけていく。
突きつけられた拒絶に、イヴェットの剣先が微かに震えた。
その動揺を隠しきれないまま、彼は掠れた声を絞り出す。
「エルニア……お前は本気で言ってるのか?」
余りにも小さく、頼りなげな問いかけだった。
「繰り返す」
ヴェイグの身体が一歩前に踏み出す。
地面に触れた足跡から、周りを侵食していくかの様に黒い瘴気が滲み出す。
「私はエルニアではない。闇騎士ヴェイグ。我が主たる魔王陛下の忠実なる僕だ」
これ以上イヴェットを傷つけるような言動は許さないと必死に抵抗するが、表層的な支配からは逃れられない。
むしろ、抵抗すればするほど意識は混濁し、薄れていく。
「違う……お前はエルニア、俺の大事な相棒のニカなんだよ」
イヴェットの表情が悲痛に歪む。
「たとえ洗脳されたとしても俺には分かる。あの日の約束も忘れちゃいない。お前と俺で世界を巡る旅を続けようと誓ったじゃないか」
その言葉に、頭痛が激しさを増す。
脳裏に過ったのは幼少期の記憶──村はずれの小川で互いの夢を語り合った日。
『最強の勇者になる』と言ったイヴェットに対し、『君がどんな道を選んでもずっと隣にいる』と答えた自分の姿。
そうだ、あれは今もなお、嘘偽りのない誓いなんだ……。
「くだらぬ妄執だ」
ヴェイグの口が冷笑を浮かべる。
「過去の遺物など不要。この世界には新たな秩序が必要なのだ。弱者は我等に首を垂れるしか道はない」
何度、言葉の刃で拒絶され傷つき、その目に涙を湛えても、彼は目の前を見据え、剣を構え直した。
「エルニア……お前を取り戻すためにも戦わせてもらう」
だが、その決意の眼差しが痛いほど眩しい。
『だめだ、イヴェットに戦わせるわけにはいかない。こんな状態の僕と戦ったら……!』
心の中で激しく拒絶するが、表層の肉体はその悲鳴を無視し、喜々として戦闘態勢に入る。右手の剣が妖しい輝きを増していく。
「懸命だな」
ヴェイグの身体が軽やかに跳躍し、イヴェットとの距離を一気に詰める。速度が尋常ではない。
「だが甘い!」
振り下ろされる剣先には、致死的な魔力が込められている。
イヴェットがかろうじて受け止めるも、その威力に押されて膝をついた。
「くっ……!」
歯を食いしばって耐えているが、もはや余裕はない。
『これ以上イヴェットを傷つけるな!』
内側で絶叫した。
◇
その瞬間──。
「フム……面白い」
静観していた魔王ユラシーズが、突然声を発した。
紅玉のような瞳が、興味深げに二人を捉えている。
「よもやここまで抵抗するとは。洗脳初日に内部からの抗議がこれほど激しいとは予想外だったぞ」
『予想外、だと……?』
これは計算通りじゃないのか。だが、確かに前世の知識では、もっと簡単に洗脳が完了するはずだったのに──魔王の言葉に、エルニアの思考が激しく揺れ動く。
「闇騎士ヴェイグよ」
魔王が杖を振ると、空間に魔法陣が出現する。
「更なる試練を与えよう。救世主を完全に抹殺するための特別な術式だ」
陣から溢れ出る紫黒の粒子が、ヴェイグの周囲を取り巻く。
『何だこれは。まだ力が増幅するというのか!?』
じわじわと体が熱くなるのを感じる。
意識の抵抗が次第に弱まっていく……このままでは本当に二度と戻れない。
イヴェットが不安げに見上げてくる。
「エルニア……俺たちの友情はこんなことで終わらせない」
その言葉が、最後の砦のようにエルニアの意識を支える。
『そうだ、まだ終われない』
必死に抗う脳裏で、前世の記憶が弾けた。
『闇の封印の書』──後半のアイテムだが、原理はシンプルだ。対となる光属性の強力な浄化魔法。それさえあれば、理論上は洗脳を解ける!
『だが、どうやってその条件を作り出す? 今の状況では身動きすら取れない!』
クソ、思考が追いつかない間にも、ヴェイグの肉体は新たな力を得て凶暴性を増していく。
イヴェットへの攻撃がさらに鋭く、速くなる。
「どうやら完全支配までは至らぬようだ」
ユラシーズが面白そうに眉を上げた。
こちらの必死な抵抗すら楽しむように、ゆったりと言葉を紡ぐ。
「ならば別の手段で遊ぼうか。救世主の大切なモノを、一つ一つ奪っていけば──闇騎士の人格も定着するかもしれん」
魔王の冷酷な視線が、悠然と洞窟の奥へ向けられた。
そこには──罠によって分断された、他の仲間たちの姿が見え始めていた。
『しまった、あの方向には──!』
焦燥とともに、前世の記憶が警鐘を鳴らす。
他の仲間が合流するということは、ゲームでいう『負けイベントの2ターン』が経過してしまった証拠だ。
イヴェットも気づいたようで、慌てて後ろを振り返る。
「キュリアっ!」
女性の姿をしたもう一人の仲間が、遠目に見えた。




