第2話 救世主と黒銀の騎士
黒い波動が僕の全身を覆い尽くす。
まるで粘つく液体が皮膚に染み込んでいくように、意識と身体の境界線が溶けていった。
「やめろぉぉお!!」
イヴェットの絶叫が洞窟中に木霊する。
しかし、僕の耳に届くその声はどんどん遠ざかり、代わりに心臓の鼓動だけがうるさいほど大きく響いていた。
直感が告げている。これは間違いなく、本当に取り返しのつかない事態だ。
前世の知識では、洗脳シーンはせいぜい数フレームのアニメーションとテキストで表現されていた。
だが、実際に体験する洗脳は、想像を絶する苦痛を伴うものだった。
全身が何かに縛り上げられているような感覚。
思考がネジ曲げられていくその感触は、まるで脳味噌を直接掴まれてぐちゃぐちゃにされるような、猟奇的な恐怖を伴っていた。
「エルニア! 戻って来い! お前の居場所はいつだって俺の隣だろう!」
イヴェットの必死な呼びかけ。
いつもなら「当たり前だろ?」って笑い飛ばせるのに、今はそれすらできない。
声帯が動かないし、そもそもそんな言葉自体が、僕の頭から消え失せていくようだった。
このままでは完全に魔王の操り人形になってしまう──。
そんな底知れない絶望に呑まれかけた瞬間、記憶の断片が頭の中でフラッシュバックした。
◇
あの時の、ゼミの先輩の声が脳裏に甦る。
『序盤で洗脳される、主人公の幼馴染がいるんだけどさー。その子の洗脳後の変わり果てた姿がさー、いや、見た目もスゴいけど性格から口調まで反転したのかよって思うくらい変わっちゃうんだよね。そこがやっぱり萌える展開でさー』
『わーわー、先輩それネタバレですよ! 私に布教したいんですよね!? これ以上は聞きたくないーやめてー』
当時はそんなバカな会話を笑い飛ばしていたが、今となっては予言のように重く心に突き刺さる。
全身を覆っていた黒い靄が、徐々に具現化していく。
髪が伸び始め、肩に届くほどになると同時に──綺麗な晴れた青空の色だとイヴェットに言われた水色の髪が、深い藍色に変わっていく。
服の質感も変わっていく──。
かつては明るい緑の戦士装束だったのが、暗紫色の鎧へと変貌する。
胸当てには禍々しい紋章が刻まれていた。
ゲーム画面では決して見えなかった変化のプロセス。
その細部まで冷徹に設計された悪意の光景に、ただ驚愕するしかなかった。
「エルニア……本当にエルニアなのか?」
イヴェットの震える声。
彼の目に映る自分は、既に別人になっているのだろう。
視界の隅に見える指先が、黒く染まりつつある。
「まだ自我を保とうとするか……」
魔王の声が再び響く。
「素晴らしい抵抗ぶりだ。だが遅すぎた」
頭の中で、何かが物理的に崩れる音がした。
かつて抱いていた友情や正義感といった感情が急速に薄れていく代わりに、猛烈な憎しみと、冷徹な判断力が芽生えてくる──。
『何かが致命的におかしい。感情は消えかけているというのに、驚くほど冷静に状況を分析できている。まるで第三者の視点を得たかのような、冴え渡る思考だ』
だが、その冷静さこそが何よりも恐しかった。
今まであれほど大切に思っていた彼に対して、どす黒い殺意がせり上がってくるのだから。
◇
「心配するな、イヴェット」
自分の口から出た声に、激しい戦慄が走る。
『早く声変わりしないかな』と思っていた少年の声ではない。低く冷たい、大人の青年の声だ。
脳内では全力で拒絶の悲鳴を上げているというのに、肉体は完全に僕のコントロールを離れていた。
「エルニア……?」
イヴェットの表情が凍りつく。
その瞳には、眼前に起きている事を認めたくない、信じたくないという色が浮かんでいる。
「私はもうエルニアではない」
勝手に動き出す口が、無情な宣言を続ける。
「貴様の幼馴染などと呼ばれた存在は死んだ。我は今より魔王軍最高幹部『闇騎士ヴェイグ』である」
喉の奥で、僕の本当の意識が狂いそうなほどの拒絶を叫んでいた。
だが、どれほど叫ぼうとも、それを表に出す術はない。
声帯の主導権は完全に奪い去られていた。
ただ、不幸中の幸いか、思考の領域だけは辛うじて自由を保っている。
洗脳は完全ではない──少なくとも、今のところは。
「エルニア、ニカ……嘘だと言ってくれ」
イヴェットの声が泣きそうに歪む。
「あの約束……覚えてないのか? どんな時も一緒に冒険するって」
その言葉が引き金となり、脳を割るような激しい頭痛が走った。
遠い記憶──湖畔で二人して誓い合った夜のこと。
星空の下での、切なくも温かい約束。
『──思い出すな』
僕は必死に自身の記憶の扉を閉ざそうとした。
今この状況で過去の絆を引っ張り出すのは危険すぎる。
それが魔王に付け入る隙を与え、最大の弱点になり得ると、前世の私が持つゲームの知識が警鐘を鳴らしていた。
決して、この魔王にだけは知られてはならないのだと。




