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7話 未完成の青い鳥

ドンッ! 鈍い衝撃音と共に、路地裏の静寂が引き裂かれた。


「わぁあ。な、何をするんですか!」


突き飛ばされたのは、大きな眼鏡をかけた線の細い青年だった。手から滑り落ちたタブレットが、無情にも硬いアスファルトの上を滑っていく。


「うっせーわ。このオタクが。そんなとこでぼーっと突っ立ってるのがいけねーんだよ。バカヤロー!」


吐き捨てるように怒鳴ったのは、柄の悪い数人の男たちだった。


周囲でその様子を伺っていた人々の輪は、厄介事に巻き込まれるのを恐れるように、コソコソと囁き合いながら蜘蛛の子を散らすように去っていく。


男たちが勝ち誇ったように笑いながら去っていく中、青年は地面に膝をついたまま、震える手でタブレットを拾い上げようとしていた。


「……あの、大丈夫ですか?」


不意に、頭上から降り注いだのは、夜の闇を溶かすような穏やかな声だった。


たまたま買い出しの帰り道、この騒動の一部始終を物陰から見ていた総一郎が、そっと青年に歩み寄る。


「あ、あ……。すみません。邪魔、だったみたいで……」


青年は怯えたように肩をすくめた。総一郎はその視線の高さに合わせてゆっくりと腰を落とし、青年の手に残った擦り傷と、無残にひび割れたデバイスの画面を見つめる。


「邪魔だなんてことはありません。……少し、歩けますか? 近くに私の店があります。傷の手当てくらいはさせてください」


総一郎の差し出した手は、チーズを扱う職人特有の、清潔で温かな熱を帯びていた。


「い、そ、そんな。大丈夫ですよ、このくらい。慣れてますから……」


青年は慌てて立ち上がろうとしたが、膝をついた際にひねったのか、「ッ!」と短く苦痛に顔を歪めた。その拍子に、抱えていた割れたタブレットが再び地面に落ちそうになる。


「あ、ほら。無理はいけませんよ。手当てするだけですから、遠慮なさらずに」


総一郎は青年の腕を優しく、けれど拒絶を許さない確かな力加減で支えた。


怯える小動物のような青年の背中を促し、夜の闇に沈む「Le Fondue」の入り口へと導いていく。


――カランカラン


階段を降り、扉を開けた瞬間に飛び込んできたのは、賑やかな文句だった。


「オーナーー! おせーよ、仕込み終わんないでしょ。買い出し、どこまで行ってた……って、えっ。誰、その人?」


カウンターでチーズの皮を剥いていたジェイドが、驚いて手を止めた。


ボロボロの格好で、今にも消えてしまいそうなほど青ざめた顔の青年を見て、ジェイドの目が点になる。


「……ちょっと、事情があってね。ジェイド、救急箱を持ってきてくれるかい? 僕は、一番奥の落ち着く席に案内するから」


総一郎は淡々と指示を出しながら、青年を椅子に座らせた。


「あの……本当に、すみません。僕みたいなのが、こんな綺麗なお店に……」


青年はひび割れたタブレットを抱きしめるように持ち、周囲の洗練された内装に気後れして、さらに体を小さくした。


「綺麗かどうかなんて、入ってみなければわからないものです。……さあ、まずはその手の傷の手当てをしてしまいましょう。ジェイド、ぼーっとしない」


「わ、わかってるよ! 今持ってくるからさ!」


ジェイドは毒づきながらも、どこか心配そうな視線を青年に投げ、バックヤードへと走った。


地下の店内に、消毒液の香りと、ほんのりとしたチーズの熟成香が混ざり合い、

奇妙な静寂が訪れた。


冷やしたおしぼりを手に戻ってきた総一郎が、青年の前に跪いた。


丁寧に、けれど迷いのない手つきで、赤く腫れ始めた青年の足首に冷たいタオルを当てていく。


「……ッ、冷た……。あ、ありがとうございます」


「いえ。少し痛みますが、今は冷やすのが先決です。……それにしても」


総一郎は青年の顔をそっと見上げた。その瞳には、糾弾するような色は微塵もない。


「また、どうしてあんなところで、空を見上げて突っ立っていらしたのですか? あそこは人通りも多いですし、危ないですよ」


青年はひび割れたタブレットをぎゅっと抱きしめ、視線を泳がせた。恥ずかしさに顔を赤くしながら、消え入りそうな声で白状する。


「そ、それは。その……。あの、ぼ、僕。野鳥の観察をしてて。珍しい鳥を見つけたんですよ」


「野鳥? こんなところで? 街中ですよ」総一郎がそういうと、


厨房から身を乗り出したジェイドが、思わず素っ頓狂な声を上げた。

「ここは東京の繁華街だぜ? カラスかスズメか、せいぜい鳩くらいしかいねーだろ。そんなもん見てて、絡まれたのかよ。コスパ悪すぎだろ……」


「ジェイド、口を慎みなさい」


総一郎が低く制すると、青年は必死に首を振った。


「ち、違うんです! 本当にいたんです!このビルの隙間、排気ダクトの影に……イソヒヨドリのオスが。都会の青い鳥って呼ばれてるんですけど、あんなに綺麗な鳴き声で鳴く個体、初めてで……。つい、夢中になっちゃって」


青年が語る時だけ、その瞳に微かな熱が宿った。割れたタブレットの画面には、ブレてはいるが、鮮やかな青色をした小鳥の姿が映し出されている。


「……都会の、青い鳥ですか」


総一郎はタオルを巻き直しながら、ふっと口元を綻ばせた。


誰もが足元やスマホの画面ばかりを見ているこの街で、一人だけ空を見上げて、小さな命の輝きを探していた青年。


「もう、見られないかもしれないから……」


青年の声は、地下の静寂に沈殿するように低く響いた。ひび割れたタブレットの画面をなぞる指が、かすかに震えている。


「明日にはもう、いないかもしれない。僕があの時、空を見上げなければ、誰にも気づかれずにどこかへ行ってしまう。そう思ったら、足なんて動かせませんでした」


彼は、周囲から「オタク」と蔑まれ、突き飛ばされた痛みよりも、その一瞬を逃すことの方がずっと恐ろしかったのだ。


自分の居場所が見つからない都会の片隅で、同じようにひっそりと生きる「青い鳥」に、自分を重ねていたのかもしれない。


「……なるほど。一期一会、というわけですね」


総一郎は立ち上がり、手当てを終えた青年に向かって、静かに頷いた。


「ジェイド。仕込みの手を止めていい。……彼に、あの『未完成の5品』から、三番目の試作をお出しして」


「えっ、いいのかよオーナー。あれ、まだ熟成が足りないって言って……」


「いいんだ。今の彼には、その『未完成の美しさ』が一番合うはずだ」


総一郎はそう言うと、自らカウンターの中に入り、一塊の白カビチーズを取り出した。


「お嬢さん……おっと、失礼。青年。あなたが空を見上げて見つけたその『一瞬』を、私の料理で祝福させてください。……この店では、誰にも理解されない孤独も、最高の旨味に変わるのですから」


「手当てしていただいて、料理まで……。そんなこと……。僕、何もお返しできないのに」


青年は、目の前に置かれた一皿と総一郎の優しさに、戸惑いを隠せないようだった。


自分のような、街の隅っこでひっそりと鳥を追いかけているだけの人間が、こんなに大切に扱われていいはずがない。そんな自尊心の低さが、言葉を震わせる。


「まぁそう言わずに。また、改めて来店していただけたら嬉しいです」


総一郎はカウンターに手をつき、青年の目を見つめて穏やかに続けた。


「今度、この近くで開催されるストリート・バルに出店予定していますので、気に入っていただけたら是非いらしてください。その頃には、このチーズもさらに熟成が進んで、今日とはまた違う、力強い旨味を聞かせてくれるはずです」


「ストリート・バル……」


青年は、ひび割れたタブレットに映る青い鳥と、目の前の白いチーズを交互に見つめた。


「……はい。行きます。必ず。今度は、もっとちゃんと……空だけじゃなくて、前を向いて歩いて来ます」


青年は最後の一口を大切に噛み締めると、深々と頭を下げて店を後にした。


階段を上がっていく彼の足取りは、先ほどまでの重苦しさはなく、どこか新しい羽根を手に入れた鳥のように軽やかだった。


「……行っちゃったな。あいつ、バルに来る時までに新しいタブレット買えてるといいけど」


ジェイドが看板を店内に片付けながら、ポツリと呟いた。


「大丈夫だよ、ジェイド。彼ならきっと、割れた画面の向こうに、僕らには見えないもっと綺麗な景色を見つけるはずさ。……この店では、孤独も旨味に変わる。彼もその味を知ってくれたはずだよ」


総一郎はそう言うと、最後の仕上げに、カウンターの隅に置かれた小さな鳥の置物を少しだけ、外を向くように直した。


「てか、なんでオタクに決め台詞言ってんだよ。」


「練習。練習だよ、ジェイド」


「……誰に向けての本番なんだよ、それ」


総一郎は少しだけ手を止めて、ふっと笑った。


「さあね。必要な人が現れた時のため、かな」




【レシピ】若い白カビチーズのクロスティーニ

~青い鳥の休息~


熟成のピークではなく、あえて若い白カビチーズを使うことで、ミルクの優しさと未完成ならではの瑞々しさを楽しむ一品。


材料(4枚分)

バゲット 4枚

若いカマンベールチーズ 60g

クリームチーズ 20g

はちみつ 小さじ2

レモンのすりおろし少々

タイム(生)少々

オリーブオイル 少々

黒胡椒 ごく少量

作り方

① バゲットを焼く


バゲットにオリーブオイルを薄く塗る。


180℃のオーブンで5〜6分。


表面がきつね色になり、

軽く叩くとコンコンと音がするくらいまで焼く。


② チーズを合わせる


カマンベールは白カビ部分ごと細かく刻む。


室温に戻したクリームチーズと合わせて練る。


完全に均一にせず、

少し粒感を残すのがポイント。


③ 香りを加える


レモンの皮を加える。


タイムの葉を細かくちぎって混ぜる。


爽やかな森の香りをほんのり足す。


④ 盛り付け


焼いたバゲットにチーズをたっぷり塗る。


仕上げにはちみつを細く流し、


黒胡椒をひとつまみ。


タイムを飾る。


総一郎のメモ


「熟成したチーズは強い個性を持ちます。でも若いチーズには、若いチーズにしかない優しさがあるんです。


完成していないから価値が低いわけじゃない。


むしろ、今しか味わえない瞬間があるんですよ」


ジェイドの解説


「理屈としては単純だよ。


若いカマンベールのミルク感。


クリームチーズの滑らかさ。


蜂蜜の甘み。


レモンの揮発性の香り。


全部が喧嘩しない。


派手さはないけど、一口ごとにちゃんと安心する。


……まあ、空ばっか見て歩いてる鳥オタクには、これくらいの方がちょうどいいんじゃない?」


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