第6話 とろける心
「ねぇ、お嬢さん」
オーナー――総一郎は、階段を上がり、夜の冷気に肩を震わせる少女の隣にそっと歩み寄った。
街灯のオレンジ色の光が、彼女の寂しげな影をアスファルトに落としている。
顔を上げた少女は、総一郎の穏やかな、けれどどこか浮世離れした端正な顔を見た途端、堰を切ったように目から大粒の涙を溢れさせた。
「う、うう……。あーーん!」
「あ、あ……なんかご、いや。あの、僕が何かしたかな……?」
突然の号泣に、さしもの総一郎も動揺を隠せない。
後ろで見守っていたジェイドも「ええっ、オーナーが泣かせたみたいになってるじゃん!」と慌てて手を振っている。
「あの、お嬢さん」
「うわーん!」
泣き声は夜の静寂に響き渡り、止まる気配がない。
総一郎は困ったように眉を下げ、けれど突き放すこともできず、その場に屈み込んで彼女の目線に合わせようとした。
「……あ、何があったのかはわからないけど。店も閉めちゃったし、外は冷える。ちょっと、寄ってっておいで。温かいものくらいなら出せるから」
総一郎のその一言に、少女は嗚咽を漏らしながらも、力なく頷いた。
地下への階段を一段ずつ、ジェイドが先導し、総一郎が彼女の背を支えるようにして降りていく。
数分前まで「試食を食べ損ねた」と騒いでいた店内の空気は、迷い込んだ小さな訪問者を迎え入れるために、再び優しく、静かな温度を帯び始めた。
✦ ✦ ✦ ✦ ✦
私は市井 梢。
今日は、ずっと楽しみにしていた日。
久しぶりにコウちゃんとデートだ。
街の噂になっている、隠れ家のようなチーズ専門店。
そこで一緒に食事ができるんだと思うだけで、昨日から心が浮き立っていた。
いつぶりだろう。
最近のコウちゃんは、連絡しても捕まらないことが多くなった。
「仕事が忙しい」
「急用ができて」 、
そんな理由でいつも会えずじまい。
寂しさが積もっていくのを、私は「仕方のないことだ」と自分に言い聞かせてきた。
梢は腕時計で時刻を確認する。
約束の時間はとうに過ぎている。
日が落ち始め、繁華街の方からは夕食の和やかな予感を含んだ賑やかな声が風に乗って聞こえてくる。
けれど、私の前を通り過ぎる人々の中に、探している背中はない。
「コウちゃん、どうしたんだろう……。何かあったのかな」
不安を打ち消すように、スマートフォンの画面をタップした。
「プ、プ、プ……」
呼び出し音が虚しく響く。
『おかけになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、呼び出しできません。ピーッという発信音の後に……』
――プチッ
無機質なアナウンスを最後まで聞く勇気がなくて、指先で通話を切った。
まだ移動中かも。それとも、急な仕事が入って連絡すらできない状態なのかな。 けれど、もう街の喧騒は夜の装いを始めようとしている。
……もう一度だけ、かけてみようか。
それとも、このままお店の前で待っていれば、彼が来るかもしれない。
人通りがまばらになり、周囲のレストランの看板も一つ、また一つと消え始めてきた頃。
市井梢は、重力に逆らえなくなったように、その店の入り口前で座り込んでしまった。
夜の底に沈むような地下への階段。
その入り口を照らす淡い明かりが、今の梢には残酷なほど優しく見えた。
「わかってた……。もう、ダメなんだって」
膝を抱え、小さく呟く。
言葉にすると、胸の奥に溜まっていた澱が一気に溢れ出しそうになる。
期待なんてしなければ傷つかずに済んだのに。
でも、スマートフォンの画面が光るたびに、どこかで期待してしまっていた。
『ごめん、また今度』 『まだ仕事が終わらなくて』
そんなそっけない一言でもいい。
理由があるなら、まだ自分は「待つ価値のある存在」だと思えた。
でも、今日の無音は、言葉以上に雄弁に終わりを告げていた。
「まだ、大丈夫だって……心が離れたわけじゃないって、信じたかったよ。コウちゃん」
冷たくなったアスファルトの感触が、現実に引き戻してくる。
誰にも見られないこの場所なら、少しだけ泣いてもいいだろうか。
そう思った瞬間、階段の下から、
カランカランと鈴の音が響いた。
暗闇に沈みかけていた梢の視界に、一足の磨かれた革靴と、静かな声が届く。
「……ねぇ、お嬢さん」
それは、絶望の淵にいた彼女を、現世へと繋ぎ止める不思議な響きを持った声だった。
◆◆◆◆◆
総一郎は、泣き腫らした梢の前に、湯気の立つ白い陶器のカップをそっと差し出した。
「これどうぞ。少しは落ち着くと思います」
差し出されたのは、まろやかな白に黄金色のオイルが一滴落とされた、見たこともないほど濃厚そうな温かい飲み物だった。
「これ……なんですか?」
梢が鼻を啜りながら、か細い声で尋ねる。
総一郎はカウンターの向こうで、優しく微笑みながら答えた
。
「『ゴルゴンゾーラとハチミツのドルチェ・ラテ』です」
「ブルーチーズの塩気と、花の香りのハチミツをミルクで溶かしました。……涙をたくさん流したあとは、塩分と糖分、両方必要でしょう?」
梢は震える手でカップを包み込んだ。
じんわりと指先から熱が伝わり、凍えていた身体が解き放たれていく。
一口含むと、チーズの独特なコクとハチミツの柔らかな甘みが、トゲトゲしていた心の端っこを丸く包み込んでくれるような感覚に陥った。
「おいしい……。あったかいです……」
「それはよかった。ジェイド、そこにある焼き立てのクラッカーも出してあげて。……お嬢さん、無理に話さなくていい。今はただ、その温かさだけを感じていればいいんです」
「オーナー、俺もそれ飲みたい!」
と横から割り込もうとするジェイドを、総一郎は目線一つで静かに制した。
地下の店内に、カップがコトと置かれる音だけが静かに響く。
梢がカップの温かさに身を委ね、ようやく呼吸が整い始めたその時だった。
まかないの準備をしていたジェイドが、耐えきれないといった様子で口を開いた。
「おまえ、あれだろ。振られたんだろ。こんな時間まで女の子を外で待ちぼうけにするようなやつ、碌でもねぇよ。さっさと忘れちまえ。もっといいやついるって!」
「ジェイド!」
総一郎の声が、地下の静寂を鋭く切り裂いた。氷のような眼差しで睨みつけられ、ジェイドは「……あ」と自分の失言に気づいたように肩をすくめる。
「……っ、悪かったよ。でもさ……」
言い訳を飲み込み、ジェイドは逃げるように厨房の奥へと引っ込んでいった。
――バタンッ
扉が閉まる音が、気まずい余韻を残す。
梢はカップを持ったまま、固まっていた。
ジェイドの言葉はあまりに直球で、残酷なほど正論だったからだ。
梢は、冷めかけたラテの表面を見つめた。ラテの入ったカップの
そこに映る自分の顔を、直視できなかった。
「……すみません。騒がしくて」
総一郎は、ジェイドの非礼を詫びるように深く頭を下げた。そして、今度は柔らかな手つきで、カウンターの上に小さな木皿を置いた。
そこには、薄くスライスされた熟成ハードチーズが、まるで花びらのように美しく並べられている。
「彼は口が悪いですが、嘘はつかない。……ですが、忘れる必要なんてありませんよ。その悲しみも、今日あなたがここで過ごした時間の一部なんです。このチーズのように、時間をかけて熟成させたものだけが持つ『深み』というものがある。……今はただ、ゆっくり噛み締めてください」
総一郎の静かな言葉が、ジェイドが波立たせた梢の心に、ゆっくりと、けれど確かに染み込んでいった。
梢はふっと、今日初めて小さく笑った。
まだ瞳には涙の膜が張っているけれど、その表情には先ほどまでの絶望的な暗さはない。
「そうですね……。でも、ジェイドくんの言う通りですね。私、これ以上自分を惨めにするのは、もうやめにします」
彼女はカップに残った最後のラテを飲み干すと、背筋を少しだけ伸ばして総一郎を見つめた。
「あの……私、またこちらにお伺いしてもいいですか? 今度はちゃんとお客さんとして。……誰かを待つためじゃなく、このお店のチーズを、自分のために楽しむために」
その言葉を聞いて、厨房の奥で聞き耳を立てていたジェイドが、待ってましたとばかりに顔を出した。
「当たり前だろ! 次に来る時はさ、最高に美味い『5品』を完成させて待ってるから。あ、でもその時はちゃんと予約してこいよな、人気店になっちゃう予定なんだから!」
「ジェイド、また口が滑っているよ」
総一郎は呆れたように肩をすくめながらも、その瞳には温かな光が宿っていた。彼はカウンターを丁寧に拭き、梢に向かって深く、優雅な一礼を捧げる。
「ええ、喜んで。あなたのための席は、いつでも整えておきましょう。……その時には、今日よりもさらに熟成された、最高の物語をご用意しておきます」
カランカラン
梢が店を出る時の鈴の音は、入ってきた時よりもずっと軽やかに響いた。
夜の空気は相変わらず冷たかったが、彼女の胸の奥には、ゴルゴンゾーラとハチミツの余韻が、小さな灯火のように残り続けていた。
【レシピ】ジェイド特製:ゴルゴンゾーラと蜂蜜のドルチェラテ
【材料】(1人前)
エスプレッソ(または濃いめのコーヒー):30ml
牛乳:150ml
ゴルゴンゾーラ・ドルチェ:10g(青カビが控えめで、クリーム分が多いタイプ)
蜂蜜:大さじ1
砕いた胡桃:少々
【作り方:ジェイドの工程】
チーズの融解 少量の温かいミルクに、ゴルゴンゾーラ・ドルチェを入れ、ダマがなくなるまで丁寧にかき混ぜます。ジェイドの解説:「ドルチェタイプは塩分が控えめで、甘みとの相性が抜群なんだ。これが脳内のドーパミンを強制的に引き出す」
ラテの構築 カップにエスプレッソを注ぎ、1のチーズミルクを加えます。その上から、スチームして泡立てた残りのミルクを優しく注ぎます。
仕上げの「黄金」 泡の表面に、これでもかとたっぷりの蜂蜜をかけます。仕上げに胡桃を散らして、食感のアクセントに。
涙を止める「劇薬」
恐る恐る一口飲んだ梢が、ハッとしたように顔を上げました。
「……っ、すご……。最初、チーズのクセがガツンと来るのに、すぐに蜂蜜の甘さが追いかけてきて、最後はコーヒーの苦味でスッキリする。……なんだか、頭がシャキっとしてきた」
「だろ? 泣くのはエネルギーの無駄。その冴えた頭で、うちのバルを手伝ってよ。君のその『悲劇のヒロイン面』、客を呼ぶにはちょうどいいし」
「……最後の一言、余計です!私もお客さんですよ!今日は違いましたけど……」 梢の目から涙が消え、いつもの勝気な光が宿った瞬間でした。




