第5話 地下への入り口で
「ええ。バルで出すからといって、手を抜くつもりはありません。……さて、お腹が少し落ち着いたのでしたら、先ほどのお話の続きを聞かせていただけますか?」
ライターの男が飲み込むのを見計らって、静かに問いかけた。
その立ち居振る舞いは、まるで計算された舞台俳優のように淀みがない。
ライターの男は満足げにナプキンで口元を拭うと、再びプロの顔に戻り、カウンターに身を乗り出した。
「そうでした。私どもで扱っている雑誌の企画で今度、この辺りのグルメとショッピングのスポット紹介をするんですが。なんでも端正なお顔立ちのオーナーさんが、風変わりなメニューでチーズを美味しくいただけると伺いまして。ぜひ一度取材させていただけたら……と思い、お伺いしました」
名刺の横に、企画書の一部を広げた。そこには『次世代の名店』という見出しが躍っている。
「端正な……ですか。それはどなたの評価でしょう。私はただ、チーズと向き合っているだけの男ですよ」
オーナーは困ったように、けれど余裕を感じさせる笑みを浮かべた。その仕草一つひとつが、男の言う「端正」という言葉を裏付けているようにも見える。
「いや、噂通りだ。……正直に言いましょう。最初は『顔がいいだけの店』かと思っていましたが、さっきのタルティーヌで考えを改めました。あの調和、そしてこの地下の静寂。表の喧騒を忘れさせるような、この店そのものを撮らせてほしい」
傍らに置いていた重厚な一眼レフを手に取り、レンズ越しに映るオーナーの穏やかな瞳を捉えた。
「いいでしょう。ただし、私の顔よりも、チーズがとろける一瞬を美しく切り取ってくださるなら。……それが私の『哲学』ですので」
心底ほっとしたようにカメラをバッグに収め、最後の一口まで残っていたタルティーヌの欠片を名残惜しそうに眺めた。
「ありがとうございます。では、改めて取材の日時をご連絡させていただきます。正直助かりました。雑誌の編集長がもうそれはそれはうるさくて、『絵になる店を連れてこい、さもなきゃ次はないぞ』なんて脅されてたんですよ」
先ほどまでの挑戦的な態度はすっかり影を潜め、一人の仕事人としての苦労がその背中に滲み出ている。
「期待に応えられたようで何よりです。編集長様にも、どうぞよろしくお伝えください。……私のチーズが、その『うるささ』を黙らせることができればいいのですが」
オーナーは茶目っ気たっぷりにそう言いながら、男を見送るためにカウンターの外へと出た。
「ははっ、あの人なら一口食べれば大人しくなりますよ。……あ、そうだ。あの生意気な……いや、元気な助手くんにもよろしく。バルの当日、面白い写真が撮れるのを楽しみにしてるって伝えてください」
最後の一口を放り込むと立ち上がり、店を後にした。
――カランカラン
男が去っていくと、店内に再び地下特有の静寂が戻ってきた。オーナーは一人、丁寧にカウンターを拭き上げながら、ふと入り口の方へ視線を向ける。
(……ジェイド、そろそろ重い荷物を抱えて戻ってくる頃かな)
◆◆◆◆◆
柔らかな間接照明だけが灯る静寂の中で、テーブルの端に突っ伏した少年の姿があった。
「俺だって試食楽しみにしてたのにー。なのにさー、一口も食べられないなんて。俺手伝ったよー。俺頑張ったよー……」
ウジウジとした独り言が、空っぽのフロアに虚しく響く。
ライターの男が美味しそうに食べていたあのタルティーヌの光景が、空腹の胃袋をさらに刺激してやまないのだ。
「ジェイド。看板消して。メニューも下ろしてきて」
厨房の奥から、片付けの手を止めないオーナーの冷静な声が飛ぶ。
「はーい。わかりましたぁ……↘︎」
「なんだよ。なんだよ。俺だって頑張ったのにさ」
ジェイドは恨めしげに呟きながら、重い腰を上げた。
トントントンと、肩を落としながら地下から地上へと続く階段を上がっていく。
夜の冷たい空気が、少しだけ頭を冷やしてくれた。
看板の灯りを消し、立てかけられたメニューを抱え上げようとした、その時だった。
ふと視線を上げると、数時間前に見かけたはずの女の子が、街灯の下で俯いて座り込んでいるのが見えた。
「……えっ、まだいる?」
ジェイドは慌てて階段を駆け下り、店内に声を張り上げた。
「ねぇ、オーナー!」
「わかったよ。ジェイド。今、賄い用意してあげるから」
厨房から出てきて声をかける。
「いや、違うんだよ! 何時間も前から女の子が立っててさ。今も見たらまだそこにいたんだ。何してんだろ、あの子」
オーナーが手を止め、怪訝そうに顔を上げた。
人通りの少なくなった地下への入り口で立ち尽くす少女の姿があった。
その異様さに、いつもの余裕が消え、鋭い眼差しが入り口へと向けられた。




