第4話 噂は地下へ降りてくる
4話
男性は独り言のように呟くと、ジェイドの目の前の席に腰を下ろした。その動きはどこか洗練されていて、視線は壁のメニューより先に、厨房の導線を追っていた。
「いらっしゃいませ……」
ジェイドが慌てて姿勢を正すと、男性は不敵な笑みを浮かべてメニューも開かずにこう言った。
「面白い噂を聞いてね。今度のストリート・バルで、あの『寿司勝』のステージを乗っ取るチーズ屋がいるって。君がその、生意気な助手くんかい?」
ジェイドは眠気も一気に吹き飛び、目を丸くして彼を見つめ返した。
オーナーとは違う種類の客だ。
地下の静かな空気が、わずかにざわついた。
「おまえ誰だよ。生意気って俺のことか!」
ジェイドは勢いよく立ち上がり、カウンター越しに身を乗り出した。
眠気なんてどこかへ吹き飛んでいる。突然現れた失礼な男に対し、ジェイドの指先がカウンターを小刻みに叩く。
「は、はーん。どうやら正解だったようだ」
若い男は面白そうに喉を鳴らして笑うと、手元のカメラバッグをポンと叩いた。
「図星を突かれるとすぐ吠える。噂通りの元気な助手だ。いい素材だよ、画になる」
その挑戦的な視線に、ジェイドがさらに言い返そうと息を吸い込んだその時、奥の厨房から静かな、けれど通る声が響いた。
「ジェイド……お客さんかい?」
トングを片手に、オーナーがゆっくりと姿を現す。
その凛とした佇まいに、店内の刺々しい空気が一瞬で凪いだ。
オーナーは男の身なりと、その傍らに置かれたプロ仕様の機材を一瞥し、穏やかに、けれどどこか警戒を孕んだ笑みを浮かべる。
「これは失礼。私はフリーでライターをやっている者です。街の長老……神宮様から『面白い見せ物がある』と伺いましてね。バルの前に、その御尊顔を拝見しに来たわけです」
男はそう言うと、ようやくポケットから一枚の名刺を取り出した。
「神宮様が……」
オーナーは名刺を受け取り、小さく頷く。
「取材の前に、何か簡単に食べられるものをいただけますか? いやぁ、もうお腹すいちゃって。朝から何も食べてないもんで」
「神宮様のご紹介でしたか。……あいにく、今は試作の最中でしてね。お出しできるのは、少しばかり『尖った』ものになりますが。よろしいですか?」
オーナーの言葉に、男の瞳が鋭く光り、大げさにお腹をさすってみせた。
先ほどまでの不敵な態度はどこへやら、今はただの飢えた野良犬のような顔をしている。
「……勝手なことばっかり言って」
ジェイドが毒づきながらも、オーナーの視線を察して渋々おしぼりを差し出した。オーナーは時計をちらりと見やり、少しだけ考えを巡らせる。
「本来なら、ゆっくりとコースを味わっていただきたいところですが……。そういうことなら、バル用に試作していた『1皿』を、少し早めにお出ししましょう」
「おっ、そいつはありがたい! 噂の先行試食ってわけだ」
男は嬉しそうにカメラのレンズキャップを外した。プロの顔に戻る瞬間だ。
オーナーは手際よく、バゲットの端を厚めに切り、その上に数種類のチーズをブレンドした特製ペーストをたっぷりとのせた。
それをさらに、熱した鉄板で表面だけー一気に焼き上げる。
「はい、お待たせしました。『三種の熟成フロマージュ・タルティーヌ』です。片手でどうぞ」
香ばしい小麦の香りと、複数のチーズが混ざり合った濃厚な香りがカウンターいっぱいに広がる。
ジェイドは横目で「それ、僕が今日食べたかったやつ……」と恨めしそうに眺めていた。
男は迷わずその一切れを掴み、大きく口を開けてかぶりついた。
男がタルティーヌにかぶりつこうとしたその瞬間、ジェイドはまだ何か言い足りないという顔で男を睨みつけていた。
しかし、ふと感じる視線に横を向くと、そこにはオーナーが立っていた。
オーナーは、一切の声を立てずににっこりと微笑んでいた。その口元は優雅な弧を描いているが、細められた瞳の奥には、言葉以上の圧力が宿っている。
(……あっちへ行って仕事しろ)
その無言のメッセージを敏感に察知したジェイドは、背中に冷たいものが走るのを感じた。
「お、俺 買い出しの続き、行ってくるからね!」
ジェイドは慌ててカウンターから離れ、厨房の隅に置いてあった買い物袋をひったくった。
男に「あとで覚えとけよ」と言いたげな視線を一瞬だけ投げると、逃げるように店の奥へと引っ込んでいった。
「……ふふ、元気な助手さんだ」
男はそれを見て愉快そうに笑い、改めて目の前のタルティーヌへと意識を向けた。
表面はカリッと焼かれ、内側から溢れ出すチーズの油分がバゲットにじゅわりと染み込んでいる。男が大きく一口かじると、バリッという快音と共に、濃厚なコクが弾けた。
「……ッ!」 男の動きが止まる。
噛むほどに、ブルーチーズの刺激、コンテの深いナッツのような甘み、そして隠し味のスパイスが、空腹の胃壁にダイレクトに響いてくる。」
「オーナー、これ……。ただの『簡単につまめるもの』じゃないな」
◇◇◇◇◇
【レシピ】三種のフロマージュ・タルティーヌのうちの2品紹介
【共通のベース】
バゲット:1cm厚にスライスし、軽くガーリックバターを塗ってトーストしたもの。
1. 陽光のタルティーヌ:『ミモレットとアプリコット』
具材:12ヶ月熟成ミモレット(スライス)、ドライアプリコット、蜂蜜。
哲学:鮮やかなオレンジ色は希望の象徴。ミモレットのからすみのような深いコクを、アプリコットの酸味が引き立てます。
総一郎の一言:「明るい孤独には、果実の輝きを」
2. 深夜のタルティーヌ:『ゴルゴンゾーラと胡桃のキャラメリゼ』
具材:ゴルゴンゾーラ・ピカンテ、砕いた胡桃、黒無花果。
哲学:青カビの刺激とキャラメルの苦味、無花果の甘美な香り。大人の夜の、複雑な心境を一枚のパンに凝縮しました。
ジェイドの一言:「この味の計算式は、一度ハマると抜け出せないよ」
1.陽光のタルティーヌ:『ミモレットとアプリコット』
ミモレットの代わりに、
オーナーはパルミジャーノを薄く削ってふわりと散らした。
焼き上がったタルティーヌは、
黄金色の粉雪をまとったように上品な佇まいをしている。
男が一口かじると、
その表情が一瞬で変わった。
「……ッ、旨味が暴れるな。これは……反則だろ」
パルミジャーノの深い旨味が、
アプリコットの甘酸っぱさを一段引き上げ、
蜂蜜の香りと重なって複雑な余韻を作り出す。
オーナーは肩をすくめる。
「ミモレットとは違う方向ですが……
“完成度”という意味では、こちらのほうが上かもしれませんね」




