第18話「白の起源、休日の聖域」
仕込み中、ジェイドはカウンターに突っ伏したまま、隣でグラスを磨く梢に小声で囁いた。
「なぁ、梢。総一郎って休日なにしてんだろ〜」
「オーナー? ってジェイドくん、一緒に住んでるんでしょ?」
梢は手を休めず、不思議そうに聞き返す。
「いやさ、まぁそうなんだけど。総一郎がなにしてんのかしんない。おれ研究もやってるし。でも気になっちゃって」
ジェイドが身を起こし、まるで極秘事項でも話すように声を潜める。
「あいつ、朝は決まった時間に起きて、寸分の狂いもなくコーヒー淹れてるけどさ。店が休みの日は、いつの間にか家から消えてんだよ。で、夜になると、なんか妙にスッキリした顔で帰ってきて、また黙々と包丁研いでんの。怖くない?」
「……スッキリした顔? 意外。もっとこう、古文書とか読んでそうだけど」
「だろ? おれ、一回『どこ行ってたんだ』って聞いたことあるんだけどさ。あいつ、なんて言ったと思う?」
ジェイドは総一郎の真似をして、声を一段低くした。
「……『白の起源を探しに行っていた』。――これだぜ? 意味わかんねぇよ。計算不能すぎる」
「白の起源……?」
梢は首を傾げた。
その時、店の奥から、いつになく軽快な足取りで総一郎が現れた。その手には、いつもより少し大きめの買い物カゴが握られている。
「……ジェイド。今日の午後は店を任せる。私は少し、山へ行ってくる」
「山ぁ!? またかよ。何すんだよ、山で。また起源探し?」
「……『呼吸』をさせに行くのですよ。チーズも、私もね」
総一郎はそれだけ言い残し、いつものコックコートではなく、驚くほど仕立ての良い麻のシャツを風になびかせて店を出て行った。
「……ねぇ、ジェイドくん。やっぱり気になる」
「だろ? 梢。……よし、追跡コード、走らせるか」
職人の「空白の一日」を巡る、凸凹コンビの極秘調査が始まった。
「行くぞ。梢。追いつけなくなるだろ」
ジェイドは仕掛けていた端末のGPS画面を睨みながら、エプロンを脱ぎ捨てた。
「店、店どうすんの!?」
梢が戸惑いながらも、勢いに押されて店外へ連れ出される。
「オタク、じゃなかった。翔に任せとけよ」
「ええええ〜。ちょ、ちょっと〜僕だけ除け者〜!?」
店内の隅で、最新式の双眼鏡を磨いていた翔が、情けない声を上げた。
彼は野鳥観察のオタクが高じて、今や『Le Fondue』のデリバリー兼、暇な時の番人としてバイトに収まっている。
「そこの鳥の置物と仲良くしとけよ」
「置物じゃなくて、これはアオサギの彫刻……! 待ってよジェイドくん、僕もオーナーの『野外での生態』には興味が――」
翔の抗議を背中で聞き流し、ジェイドは梢の手を引いて路地裏へと滑り込んだ。
「いいか、梢。総一郎の移動速度は計算済みだ。あいつは歩幅が一定だから、今のペースなら駅前のバス停で捕まえられる」
「……ジェイドくん、それ、ストーカーの計算式じゃない?」
「心外だな。これは『家族の安全管理』だよ。あんな無防備な顔して山に行く男、放っておけるかよ」
二人がバス停に辿り着くと、ちょうど一台のバスが発車するところだった。
その後部座席、窓際に座る男の横顔――。
「……あ、オーナーだ!」
梢が声を上げる。
バスの中の総一郎は、普段の厳格な雰囲気とは打って変わって、穏やかな表情で窓の外を眺めていた。その膝の上には、例の大きな買い物カゴが大切そうに置かれている。
「……あのカゴ、中身は何なんだろう。チーズ?」
「いや。重さのバランスが違う。もっとこう……『生きてる』感じの重さだ」
ジェイドの瞳が、解析モードのように鋭くなる。
「行くぞ。次のバスで追う。総一郎の『起源』、そのソースコードを暴いてやる」
一方で、店に残された翔は、静まり返った店内で一人、アオサギの置物に向かって呟いていた。
「……いいもん。僕は僕で、この店の換気扇に巣を作ろうとしてるツバメの
観察記録をつけるから……」
「ちょっと、ジェイドくん。これ後つけないで声かけたらいいんじゃない?」
梢が囁いた。
「バカ。それじゃ意味ねぇだろ。観測者が対象に接触した時点で、その『真の生態』は歪められるんだよ」
ジェイドはバスの排気ガスを避けながら、スマホの画面に釘付けだ。
「いいか、梢。総一郎は『完璧な職人』という仮面を、店を出た瞬間に脱いでる可能性がある。もしあいつの『白の起源』が、実は山奥での秘密の特訓だとしたら? あるいは、滝に打たれてチーズの神様と交信してるとしたら……?」
「……いや、流石にそれはないと思うけど。あ、バス行っちゃったよ!」
「大丈夫だ。あいつが降りる場所は、この先の終点、霧ヶ峰の牧場エリアだ。
そこには、あいつが数年前から独占契約を結ぼうとしてる『伝説の羊飼い』がいるっていう噂がある」
ジェイドはタクシーを拾おうと手を挙げながら、不敵に笑う。
「あいつが何を持ち込み、何を持ち帰るのか。その『入出力(I/O)』を解明しない限り、俺は一生あいつの弟子止まりだ。……梢、あんたも知りたいだろ? あの潔癖すぎるオーナーの、綻びみたいな瞬間をさ」
「……う。……まあ、ちょっとだけ。いつも完璧すぎて、たまに人間じゃないみたいだなって思うことはあるけど」
二人はタクシーに飛び乗り、バスの背中を追う。
窓の外の景色が、コンクリートの街並みから、次第に深い緑へと塗り替えられていく。
一方、バスの中。
総一郎は、カゴの中から微かに聞こえる「音」に、ふっと表情を緩めていた。
それは、店では決して見せない、慈しみに満ちた眼差し。
「……もう少しだ。お前たちの故郷の空気を、たっぷり吸わせてあげよう」
総一郎がカゴの蓋にそっと触れると、中から小さな、けれど確かな生命の気配が返ってきた。
「……あんなの、見たことないな。うちの店の備品じゃないのは確かだ」
ジェイドがスマホのズーム機能を使って、走り去るバスの窓越しにカゴを捉える。
「竹編みでもない、柳でもない。あれは……極細の白樺で編まれた、北欧の伝統的な工芸品だぞ。通気性と保温性を計算し尽くした、特注の『運び箱』だ」
「運び箱……? でも、あんなに大切そうに抱えて。あ、今、オーナーがカゴに話しかけなかった?」
梢の指摘に、ジェイドの眉間が険しくなる。
「話しかけた? 総一郎が? ……ありえねぇ。あいつが独り言を言うのは、チーズの熟成度を計算してる時か、俺の不手際を呪ってる時だけだぞ」
タクシーはバスとの距離を一定に保ちながら、曲がりくねった山道を登っていく。 やがてバスは、人里離れた「白岩高原」の停留所で止まった。
「降りたぞ。隠れろ!」
ジェイドと梢はタクシーを降り、木陰に身を潜める。
バスから降り立った総一郎は、周囲を一度見渡し――まるで誰かに見られていないかを確認するように――、誰もいない草原の奥へと足を踏み入れた。
「……ねぇ、ジェイドくん。あそこって、私たちが前に行った牧場とは反対方向だよね?」
「ああ。あっちは……ただの原生林だ。道なんてねぇぞ」
総一郎は、慣れた足取りで藪をかき分け、巨大な岩が重なる崖の淵へと向かっていく。
そして、ひときわ平らな岩の上に、例のカゴを恭しく置いた。
「……来るぞ。梢、瞬きするなよ」
ジェイドが息を呑む。 総一郎が、カゴの白い蓋をゆっくりと開いた。
中から現れたのは、真っ白な、けれど意思を感じさせるほどに透き通った……「何か」だった。
「……えっ!? 何、あれ!?」 梢が思わず声を上げそうになり、ジェイドがその口を慌てて塞ぐ。
「……バカ、静かにしろ! ……あれは、チーズ……じゃない。生きてる……のか?」
総一郎は、カゴから取り出した「それ」を、五月の柔らかな風にさらした。 まるで、長い眠りから覚めたばかりの赤子を、日光浴させているかのような手つきで。
ジェイドも梢も固唾を飲んで、その「白い塊」を見つめていた。
総一郎の手のひらの上で、それは春の柔らかな日差しを浴びて、ほんのりと真珠のような光沢を放っている。
チーズにしてはあまりに瑞々しく、生き物にしてはあまりに静かだ。
「……おい、梢。あれ、動いてないか?」
「えっ、嘘、やだ。……あ、でも、呼吸してるみたいに膨らんだり萎んだりしてる……!」
ジェイドの解析脳がフル回転する。だが、どのデータにも該当しない。
「白カビ系の極致か? それとも、標高1000メートル以上の特殊な環境でしか生存できない、未知の乳酸菌のコロニーか……」
その時、総一郎が優しく「それ」を岩の上に置いた。
彼は懐から小さな銀のフルートを取り出すと、草原を渡る風の音に合わせるように、静かな旋律を奏で始めた。
すると、どうだろう。 カゴから次々と「白い塊」が這い出し、総一郎の周りに集まってくるではないか。
「……うわっ、増えた!」
「ちょっと待って、ジェイドくん! あれ……アヒルじゃない? 白い、ちっちゃい、アヒルの赤ちゃん!」
「はぁ!? アヒル……?」
ジェイドが目を凝らすと、確かにそれは、綿菓子のように真っ白でふわふわな羽毛に包まれた、コールダックの雛たちだった。
「……お前たち。店の中は少し、発酵の匂いが強すぎたね。今日は存分に、草の香りを吸いなさい」
細められた目から溢れんばかりの慈愛を注ぐ。 あの、銭山をゴルゴンゾーラで黙らせた男が。
今、小さな雛たちに囲まれて、聖母のような微笑みを浮かべている。
「……ママだ」
ジェイドが、魂の抜けたような声で呟いた。
「完全な、ママだわ。計算の余地もねぇ。あれは本物のマザー・テレサか、アルプスの少女の成れの果てだ」
「……ねぇ、ジェイドくん。オーナー、あの子たちのこと『白の起源』って言ってたんだよね」
「ああ……。真っ白で、ピュアで、何の計算も損得もねぇ、生命の原点って
ことかよ。……チッ。勝てるわけねぇだろ、あんなもん」
ジェイドはスマホのカメラを向けようとしたが、ふと指を止めた。
あまりにも完成された「聖域」を、デジタルのレンズで切り取ることすら、今は野暮に思えたからだ。
「……帰るぞ、梢。これ以上の観測は、俺のシステムをクラッシュさせる」
「えっ、写真撮らないの?」
「いらねぇよ。あんな顔、店でバラしてみろ。俺、今度こそゴルゴンゾーラで窒息させられるわ」
二人は、雛たちと戯れる「白の聖母」に背を向け、静かに山を降り始めた。
ジェイドと梢が山を降りた後。 岩の上に残された総一郎は、カゴの中から「それ」を愛おしそうに取り出した。
それは、雛ではなく、雪の塊のような、あるいは磨き上げられた大理石のような、不思議な光沢を放つ円盤状のチーズだった。
「……いい子だ。今日の風は、君にふさわしい清涼さだ」
「ジェイドたちにはまだ教えられない」
総一郎がハケで表面を撫でると、風に乗って微かな、けれど驚くほど高貴な花の香りが立ち昇る。
これは、店で出しているどのチーズとも違う。
まだ誰にも、ジェイドにすら触れさせていない、総一郎が人生をかけて育てている『白の起源』。
「これも教えられない。」
総一郎のスマホにはバス停から隠れているように見えるが丸見えなジェイドと梢の姿があった。




