第20話「年齢不詳のレシピ」
「ねぇ、翔さん」 梢がカウンターの下で、小首を傾げて囁いた。
「ど、どうしたんですか? 梢さん。アオサギの求愛ダンスの動画でも見ますか?」
翔が双眼鏡を首にぶら下げたまま、おどおどと聞き返す。
「ジェイドくんって、何歳なんだろ。見た目15、6じゃない? 思春期真っ盛りっていうか……言動が完全に『計算できない大人への反抗期』って感じじゃない?」
「ああ……確かに。でも、あのよく分かんない公式をブツブツ言いながらタブレット叩いてる姿……。渡り鳥のリーダーが持つような、老成した雰囲気もありますよね。実は中身は40代のエンジニアが若返りの魔法でもかけられたとか……」
「それはファンタジーすぎ。でも、あのオーナーと対等に渡り合ってるし、中学生ってことはないよねぇ」
二人の視線の先では、ジェイドがカウンターで一人、理解不能な文字列が並ぶ画面を睨みながら総一郎の背中に向かって毒づいていた。
「オーナー、今日の湿度の変化、予測モデルから0.5%乖離してますよ。山の方で雲でも眺めてたんですか? せっかくの休日も、無駄な観測データ(アヒル)を収集するくらいなら、うちの空調システムの最適化を……」
「……ジェイド。休日の過ごし方は個人の自由だ。それに、私は無駄な時間を過ごした覚えはない。白という色の純度を再認識し、感性を調整していただけだ」
「はいはい。感性のアップデート、お疲れ様でーす。ママの言うことは、一分一秒の誤差もなく『非論理的リスト』に記録しときまーす」
総一郎は、あえて背中を向けたまま冷徹な声を出す。
「……ジェイド。リストを埋める暇があるなら、テラス席の室外機を点検してきなさい。それが今の君にできる、最善の『最適化』だ」
「……チッ。現場仕事かよ。これだからアナログな職人は……」
ジェイドは不貞腐れたように席を立ったが、その背中には、どこか「もっと構ってほしい」という幼さが残っていた。
「……やっぱり、16歳くらいかな。あの、分かったような口をきくけど、実はオーナーの反応を楽しんでるオーラ」
梢がクスクスと笑うと、翔も納得したように頷いた。
「なるほど……。じゃあ、僕は『ヒナ』を見守る親鳥の気分で、彼に珍しい野鳥の羽根のコレクションでもプレゼントしてみましょうか」
「それは絶対怒られるからやめなよ」
店内の喧騒をよそに、窓の外では五月の風が穏やかに吹き抜けていた。
『Le Fondue』の謎めいた天才少年、ジェイド。その実年齢も、そして師弟がお互いに抱えている「秘密の観測データ」も、まだ表には出されないまま、熟成を続けている。
「翔くんは18くらい? 私とおんなじ?」
梢がカウンター越しに、ひょいと顔を覗き込ませて聞いた。
「あ、っはい。このあいだ、18になったところで……」
翔は不意に距離を詰められたことに動揺し、持っていた双眼鏡を落としそうになりながら、消え入るような声で答えた。
「じゃあ、2個下か」 梢は、少しだけお姉さんぶるように満足げに頷いた。
「えっ、梢さん、20歳なんですか? もっとこう……なんというか、野鳥で言えばメジロみたいに、もっと小さくて可愛らしいイメージだったので……」
「メジロ? それ褒めてる? ……まあいいや。じゃあ、ジェイドくんはやっぱり私たちのさらに下ってことだよね。あの態度のデカさで」
二人の会話を背中で聞いていたジェイドが、タブレットの手を止めて振り返った。
「おい、そこの年齢不詳コンビ。僕の年齢を勝手にヒエラルキーの変数に組み込むな。精神年齢の演算結果なら、俺はお前らの10倍は進んでるぞ」
「あ、出た。そういう言い方がもう、子供なんだよね〜」
梢がからかうように笑う。
「……ジェイド。年齢の多寡でマウントを取るのも、それに過剰に反応するのも、どちらも未熟の証拠です。早く室外機の点検に行きなさい」
奥から総一郎の静かな声が響く。
「……分かってますよ。ママの言う通りに動けばいいんでしょ」
ジェイドは毒を吐きながら、工具箱を掴んでテラスへと向かった。
しかし、その去り際にふと、タブレットの端に隠していた「山で撮った総一郎の隠し撮り写真」を眺め、口元をわずかに緩めるのを梢は見逃さなかった。
「……ねぇ、翔くん。あの子、実はオーナーのこと大好きだよね」
「……ええ。ツバメの親鳥を追うヒナの視線、そのものでしたね」
6歳の時、始めてジェイドにあったときのことを思い出していた。
「僕、にーにだよ」「に、にーに?」「neneではなくって?アレク様。」
「にーにだよ。ジークもすぐに大きくなるね?僕もおっきいから。」
抱っこされ寝ているジェイドの頬をふんわりと優しく触る幼少の総一郎。
「因みにですが、ジェイドは私の5つ下なので23ですよ」
「……えっ?」
「「えええええ!?」」
梢と翔の叫びが、店内の換気扇の音をかき消した。
二人の驚愕を余所に、総一郎は事も無げにカウンターのグラスを磨きながら、爆弾発言を投下した。
「にじゅう……さん!?」
梢が、テラスで室外機をいじっているジェイドの背中を二度見、いや三度見する。
「嘘でしょ! あの見た目で? あの生意気な態度で!? 15歳にしか見えないのに!」
「野鳥で言えば……若鳥だと思ってたら、完全な成鳥……いや、もう立派なリーダー格じゃないですか……」
翔も双眼鏡を落としそうになりながら、激しく動揺している。
総一郎は、かつての遠い記憶を慈しむように、わずかに目を細めた。
総一郎が庭で本を読んでいると、
小さな影がとことこと走ってきて、
その膝にぴょこんと顎を乗せた。
「にーに、なにしてるの?」
「読書だよ、ジート。重いから乗らないの」
「のるー。にーにのとなりがいい」
総一郎はため息をつきながらも、
本の片側をジェイドの小さな手が持ちやすいように傾けた。
「……じゃあ、静かにしてなさい」
「うん!ジート、シィーしてる」
嬉しすぎて、
ジェイドは本の文字よりも、
総一郎の横顔ばかり見ていた。
「昔はもっとこう、『にーに』って言って。私の後を一生懸命ついてくる、それは可愛い子でしたよ。どこで何を間違えて、あんなひねくれた大人ッ子になったのか……」
「『にーに』……ぷっ、あはははは!大人ッ子!」
梢が耐えきれずに吹き出した。
「ジェイドくんが『にーに』!? あの毒舌計算機が!? 嘘、信じられない!」
「……おい。今、誰か僕の恥部をメモリから呼び出したか?」
背後で、室外機の点検を終えたジェイドが、恐ろしく冷めた声で立っていた。その顔は夕暮れ時の影よりも暗い。
「……オーナー。今すぐそのバックアップデータを物理破壊してください。さもないと、あんたの休日の『白の聖母』動画を、全SNSに同時マルチキャストしますよ」
「……おや。ジェイド。それは『にーに』への脅しとしては、少しばかり可愛げがありませんね」
総一郎は動じない。むしろ、余裕たっぷりに微笑んで見せた。
「…………っ!総一郎だって僕のことジートって呼んでただろ!!!」
「それは、ジェイドが、自分のこと『ジート』って言っていたからですよ」
ジェイドは顔を真っ赤にし、反論の言葉を探してタブレットの画面を猛烈な勢いでスワイプしたが、結局「クソがっ!」と吐き捨てて奥の部屋へ逃げ込んだ。
「……23歳……。お兄さんだったんだね、ジェイドくん」
「……ですね。でも、あの逃げ方は……やっぱり『にーに』に甘えてるヒナに見えます」
梢と翔は、顔を見合わせて笑い合った。
天才少年の仮面の下に隠されていた、意外すぎる「23歳の素顔」。 『Le Fondue』のパワーバランスが、ほんの少しだけ、けれど決定的に変化した瞬間だった。
23歳の「弟」と、それを掌の上で転がす「兄」。そして、その騒がしい関係性を特等席で見守る二人。
「……なんか、いいですね。この店」
翔の独り言に、梢が大きく頷く。
「うん。謎だらけだけど、なんか……あったかいよね。ジェイドくんが23歳だって分かって、ちょっと安心したかも」




