第16話「ゴルゴンゾーラの調律」
「サナエちゃーん。もっとこっちおいでよ〜。堅苦しいこと抜きにしてさぁ!」
「あっ、銭山さん。ちょ、ちょっと……近いです……」
バルの喧騒が嘘のように静まり返ったはずの『Le Fondue』に、そのダミ声は鋭く突き刺さった。
10人ほどの団体客。その中心で、顔を真っ赤にした銭山という男が、困惑する若い女性、サナエの肩を抱き寄せようとしている。
他のテーブルの客が、眉をひそめてこちらを伺っている。
ジェイドは奥のテーブルでワインの説明をしていたが、その指先がピクリと震えた。
彼は説明を終えると、音を立てずにカウンターへ戻り、仕込みをしていた総一郎に低く、だが鋭い声で食いついた。
「……おい、オーナー。いつまで放置してんだよ。あの『騒音公害』、うちの店の計算式を完全に狂わせてんだけど」
総一郎は無言でパルミジャーノを削る手を止め、フロアに視線を向けた。
「あの銭山って奴、さっきからサナエさんに無理やり酒を飲ませようとしてる。挙句にあの声だろ? 周りの客の『美味しい』が、あいつの脂肪分過多な声で全部書き消されてるんだよ。早く追い出せ。」
ジェイドの瞳には、明確な怒りの火が灯っている。 だが、総一郎は静かに包丁を置き、カウンターの下から小さな、けれど独特の存在感を放つ木箱を取り出した。
「ジェイド。追い出すのは簡単だ。だが、我々の仕事は『排除』ではなく『調律』だろう?」
「調律? あんな酔っぱらいにピアノの調律でもする気かよ」
「……いや。この『青い劇薬』で、あの男の舌と喉を、少し黙らせてもらう」
総一郎が取り出したのは、溢れんばかりの青カビが美しい、熟成の極みに達した『ゴルゴンゾーラ・ピカンテ』だった。
「ジェイド。今すぐあの方々に、私の『特別』を運んでくれ。サナエさんには、彼女の心を保護するための『白い盾』を添えて」
「……はぁ。わかったよ。毒をもって毒を制す、ってわけね」
ジェイドは不敵な笑みを浮かべ、総一郎から手渡された一皿を持って、嵐の中心へと足を踏み入れた。
「お客様。こちら当店オーナーからです」
ジェイドは、嫌味なほど完璧なプロの微笑を湛え、10枚の小皿を流れるような動作でテーブルへ並べていく。
泥酔している銭山は、赤ら顔をさらにだらしなく崩し、
「おっ、なんだぁ? サービスか? オーナー、話がわかるじゃねぇか!」 と、
隣のサナエの肩に回そうとしていた手を離し、皿を覗き込んだ。
皿の上に鎮座していたのは、蜂蜜もナッツも添えられていない、一切れの『ゴルゴンゾーラ・ピカンテ』。それも、芯まで青カビが回った、見るからに攻撃的な塊だ。
「……なんだこれ、カビじゃねぇか。おーい、もっと甘いもんとかねぇのかよ」 銭山が悪態をつきながら、フォークを使わず指でその塊を口に放り込む。
「……ッ!?」
次の瞬間、銭山の動きが止まった。
ゴルゴンゾーラ特有の、針で刺すような刺激が舌を貫き、鼻腔を爆発的な発酵臭が駆け抜ける。
泥酔して麻痺していたはずの味覚が、その強烈な塩気と旨味の暴力によって、無理やり「覚醒」させられたのだ。
「……あ、が……」 声が出ない。
あまりの濃厚さと刺激に、喉の筋肉が硬直する。
銭山は慌てて手元の安物の水割りを飲み込もうとしたが、チーズの余韻がそれを「ただの薄い水」に変えてしまい、あまりの落差に顔を歪めた。
その横で、サナエの前には別の皿が置かれていた。
それは、真っ白なマスカルポーネに一滴のラベンダー蜂蜜を垂らしたもの。
「お姉さん、こっちは『心の保護剤』。ゆっくり味わって」
ジェイドが耳元で囁く。
サナエがそれを口に含むと、先ほどまでの銭山の脂ぎった声やアルコールの不快感が、雪のような口溶けと共に洗い流されていった。
テーブル全体が、奇妙な静寂に包まれる。
強烈なチーズを食わされた男たちは、その「正体不明の旨味」を咀嚼するのに必死で、下卑た冗談を飛ばす余裕すら失っていた。
「……おい、おっさん」
ジェイドが、まだ喉を震わせている銭山を見下ろす。
「そのチーズ、1グラムでワイン1本分の価値がある熟成物なんだわ。あんたのさっきの汚い声、その繊細な香りをぶち壊してんだけど。……静かに味わえないなら、次はその舌、もっと痺れるやつで物理的に黙らせるよ?」
銭山は、ジェイドの冷徹な瞳と、ゴルゴンゾーラの消えない刺激に完全に気圧され、コクコクと小さく頷いた。
カウンターの奥で、総一郎は静かに包丁を研ぎ直す。
「……ジェイド。調律が済んだなら、次は彼らに『和解のスープ』を出して差し上げなさい」
嵐の去ったテーブルに、次は穏やかな乳白色の湯気が運ばれようとしていた。
スープを運ぶ準備をしていたジェイドの横に、ふわりと影が落ちた。
振り返ると、そこにはサナエが立っていた。先ほどまでの怯えた様子はなく、けれど頬を少し紅潮させ、縋るような、それでいて決意を秘めた目でジェイドを見上げている。
「あの……お兄さん」
「……何? マスカルポーネ、足りなかった?」
ジェイドは手を止めず、スープボウルをトレイに並べながらぶっきらぼうに返す。
「いえ、そうじゃなくて。……ありがとうございました。あのままだったら私、どうしていいか分からなくて。……それと」
サナエは一度言葉を切り、カウンターの奥で静かに作業を続ける総一郎と、目の前のジェイドを交互に見た。
「……ここ、求人とか、出してませんか?」
ジェイドの動きが止まる。トレイの上で、スープボウルがカチリと小さな音を立てた。
「は? 求人? あんた、あそこの会社の社員だろ。何言ってんの」
「……もう、嫌なんです!」
「あんな風に、お酒の席で笑って誤魔化すだけの自分。……さっきのチーズ、すごく怖かったけど、でも、一口食べたら頭の中が真っ白になって」
「……私、あんな風に『言葉を奪うくらい強いもの』を運ぶ人になりたいって、思っちゃったんです」
サナエの視線は、ジェイドの腕を通り越して、店の奥に並ぶチーズの熟成庫へと向けられていた。
「おい、オーナー……聞いてたかよ。また変なのが一人、あんたの劇薬に当てられちまったみたいだぞ」
ジェイドが呆れたように肩をすくめると、総一郎は顔を上げず、研ぎ澄まされた手つきでパセリを散らしながら、静かに口を開いた。
「……ジェイド。スープが冷める。まずはその『和解のスープ』を、彼女にも一杯差し出しなさい。……話は、彼女がそれを飲み干し、自分の中の毒をすべて吐き出してからだ」
「……チッ。人使いが荒いんだよ、この店は」
ジェイドは毒づきながらも、サナエのために新しく用意されたボウルをトレイに乗せた。
「ほら、そこ座ってなよ。……うちの『ママ』が、あんたの分も作れってさ」
「……えっ? ママ?」
サナエが目を丸くするのを背中に受けながら、ジェイドは再び、静まり返った団体客のテーブルへと歩き出した。




