第15話「黄金の雫と小さな冒険」
「ママ〜。」
ドンッ。
足元に響く小さな衝撃。総一郎は、納品されたばかりのチーズの箱を抱えたまま立ち止まる。
視線を落とすと、そこには短い腕で総一郎の膝をぎゅっと抱きしめる幼い影があった。
迷子かな? ママって僕? 総一郎の眉がわずかに動く。腕の中には、汚れひとつない真っ白なクマのぬいぐるみ。
それを持つ男の子は、ついさっきまで泣いていたのか、長いまつげに乾かぬ涙が宝石のように光っている。
「ママ? ママとはぐれたの?」
総一郎が膝をつき、視線を合わせると、男の子は首を横に振った。
「ちーがう」
「じゃあ、パパ?」
「あっち」
「あっち?」
男の子が指差した先は、賑わい始めたバル会場の喧騒の向こう側。
「ジュース」
「喉乾いたの?」
「うん。パパ買いに行った」
なるほど。パパが買い出しに行った隙に、クマと一緒に冒険に出たというわけか。
総一郎は、店先に出していた看板の裏に目を向ける。そこには、バル限定の「お預かりサービス」なんて項目はない。
だが、この潤んだ瞳を放っておくほど、彼の心は冷淡ではなかった。
「そうか、じゃあちょっとだけジュース先に飲んじゃおうっか」
総一郎は男の子の手を引き、店内のカウンターへ促す。
『ぬいぐるみを持った男の子お預かりしてます。Le Fondueにて』 店のカードに素早くメッセージを書き込むと、それを男の子がいた場所の近くの柱に、目立つように貼り付けた。
カウンターの奥で、総一郎は手早く動く。
子供の喉に刺激が強すぎず、けれど栄養と安らぎを与える一杯。
「はい。これは『黄金の雫』だ。飲むと勇気が湧いてくるよ」
差し出したのは、オレンジ果汁をベースに、少量のマスカルポーネを混ぜてシェイクした特製「オレンジ・ドルチェ・ジュース」。
男の子がそれを両手で抱え、ゴクゴクと喉を鳴らしている間、店内には平和な時間が流れる。
だが、その平穏は長くは続かない。
しばらくして。 勢いよく店のドアが鳴る。
「……ハァ、ハァ! すみません! うちの、うちの息子が……っ!」
飛び込んできたのは、額に汗を浮かべ、息を切らした一人の男。
その顔には、先ほどまで「あっち」を指していた男の子とそっくりの、真っ直ぐな眉があった。
男の子はジュースの泡を鼻につけたまま、パパの姿を見つけて顔を輝かせる。
「あ、パパ! クマさんもジュース飲んだよ!」
総一郎は、静かにグラスを拭きながら、安堵に崩れ落ちる父親を見つめて小さく微笑んだ。
バルの一夜は、まだ始まったばかりだ。
「おいおっさん。子供一人にしてジュース買いに行ってんじゃねぇよ」
カウンターの端で、腕組みをしながら状況を見ていたジェイドが、鋭い声を浴びせる。
その手には、書きかけの売上管理ノートと、使い古されたボールペンが握られたままだ。
父親は、怒鳴られた衝撃と安堵が混ざり合ったような顔で、ジェイドを呆然と見つめる。
「……す、すみません。すぐそこだと思って……」
「『すぐそこ』で迷子になんだよ、子供は。この街のバルを舐めんな」
ジェイドの冷徹な正論に、父親は肩をすくめてうつむく。
その横で、男の子だけが「お兄ちゃん、かっこいい!」と言わんばかりに、キラキラした目でジェイドを見上げていた。
総一郎は、苦笑いしながら新しいグラスを取り出す。
「ジェイド、それくらいにして。……お父さん、あなたも喉が渇いているでしょう。これはサービスです」
差し出されたのは、男の子が飲んでいるものと同じ、オレンジとマスカルポーネのジュース。
ただし、父親の方には香り付けにほんの少しだけ、苦味のあるトニックウォータ
ーが足されていた。
「……ありがとうございます」
父親が、震える手でグラスを受け取る。
「いいか。次に目を離したら、そのクマのぬいぐるみに発信機を埋め込むからな」
吐き捨てるように言ったジェイドだったが、その手はいつの間にか、男の子がカウンターに置いたぬいぐるみの毛並みを、不器用そうに整えていた。
「さあ、飲み終えたらお帰りください。祭りの主役は、迷子センターの職員ではなく、笑顔の家族であるべきですから」
総一郎の言葉に、店内を包んでいた緊張が、春の雪解けのようにふわりと消えていった。
「あ、ありがとうございました」
「でもなぜか、僕のことママって呼んでましたよ」
「……え?」
父親がグラスを持つ手を止め、きょとんとした顔で息子と総一郎を交互に見る。
「ママって……この、お兄さんのこと?」
「うん! ママ!」
男の子は屈託のない笑顔で、迷いなく総一郎を指差した。鼻の頭に白いクリームの泡をつけたまま、確信に満ちた声で。
その場に、妙な沈黙が流れる。
真っ白なコックコート、整えられた物腰、そしてどこか浮世離れした静謐な佇まい。
……どう見ても、がっしりとした体格の成人男性だ。
「ぷっ……はははは! ママ! 違いない、あははは!」
沈黙を切り裂いたのは、腹を抱えて笑い出したジェイドだった。カウンターを叩き、涙を流しながら総一郎を指差す。
「聞いたかよオーナー! あんたのその『包容力(笑)』、ついに性別を超えちまったぞ! 確かにそのエプロン姿、新妻っていうよりは……いや、熟練の肝っ玉母ちゃんに見えなくもないか?」
「ジェイド、黙れ」 総一郎は無表情のまま、ぴくりと眉を動かした。
だが、その耳たぶが心なしか少しだけ赤い。
「……あ、いや、すみません。たぶん、この子が持ってるクマのぬいぐるみを直してくれたのが、昨日の夜、ママだったもんで。優しい人をみんなママって呼ぶ癖があるというか……」
父親が恐縮しきった様子でフォローを入れるが、それはそれで総一郎の「
溢れ出す母性」を肯定しているようで、火に油を注ぐ結果になった。
「いいんですよ。子供の目には、本質が見えると言いますから」
総一郎は努めて冷静に、けれど少しだけ投げやりな手つきで、空になった男の子のグラスを下げた。
「ほら、ママが『早くパパと一緒に行け』って言ってるぞ。しっかり手、繋いどけよ」
ジェイドがニヤニヤしながら男の子の頭を撫で、出口へと促す。
「バイバイ、ママ! ジュース、おいしかった!」
元気よく手を振って店を出ていく親子。
静まり返った店内で、総一郎は深く、深いため息をついた。
「……ジェイド。次のシフト、一時間早めていいか?」
「は!? なんでだよ! 母さんのいじわる!」
「……二時間だ」
オレンジとマスカルポーネのジュース
100%オレンジジュース:150ml(できれば酸味がまろやかなもの)
マスカルポーネチーズ:大さじ1
蜂蜜:小さじ1(※1歳未満のお子様には砂糖で代用)
バニラエッセンス:1滴(香りの魔法)
氷:2〜3個(シェイク用)
【作り方:総一郎の工程】
乳のコクを溶かす ボウル(またはシェイカー)にマスカルポーネチーズと蜂蜜を入れ、少量のオレンジジュースを加えて、ペースト状になるまでよく練ります。総一郎の助言:「いきなり全部混ぜてはいけません。チーズを少しずつ液状に伸ばしていくのが、滑らかな口当たりを作るコツです」
空気を含ませる(シェイク) 残りのオレンジジュースとバニラエッセンス、氷を加え、勢いよく振ります。ジェイドの注釈:「しっかり振ることで、チーズの脂肪分とジュースが乳化して、カプチーノみたいなふわふわの泡ができるんだ。これが子供にはたまらない食感になる」
仕上げ 冷やしたグラスに注ぎます。表面には、細かく繊細な白い泡が層を成し、見た目はまるで「お酒じゃないビール」か「高級なラテ」のよう。
ジェイドの裏技(大人向けアレンジ)
「これ、大人が飲むならほんの少しだけトニックウォーターを足すといいよ。柑橘の皮の苦味が加わって、一気に『バカンスの味』に変わるから。迷子のパパに出したのは、そっちのバージョンだね」




