第14話「嵐のあとに残る、雪解けのフロマージュ」
嵐が去ったあとの「Le Fondue」には、高級な葉巻の残香と、使い果たした精神エネルギーの虚脱感が漂っていた。
ジェイドはカウンターに突っ伏したまま、まるで骨が抜けたように動かない。
梢とオタク君も、あまりの非日常的な光景に、まだ魂が半分抜けたような顔で立ち尽くしている。
「……はぁ。あのお節介は、何年経っても変わらないな」
総一郎が、珍しく肩の力を抜いて深く椅子に腰掛けた。いつも完璧な彼の髪がわずかに乱れているのが、事の壮絶さを物語っている。
「オーナー、もう今日は閉店にしよう……。僕、おじさんの愛情に当てられて、知能指数が3ポイントくらい下がった気がする」
ジェイドが恨めしそうに顔を上げる。
「そうですね。今日は皆さんを巻き込んでしまった。……お詫びと言っては何ですが、父の持ってきた騒がしさを中和するような、特別な『癒やし』を用意しましょう」
総一郎が立ち上がり、冷蔵庫の奥から大切に保管されていた小さな木箱を取り出した。
それは、バルでも出さなかった、身内だけの時間のために用意していた秘密の素材だった。
総一郎が作り始めたのは、スイーツというよりは、一種の「飲む処方箋」だった。
まず、新鮮なフロマージュ・ブラン(白いチーズ)に、ほんの少しの生クリームと、自家製のレモンピールを混ぜ合わせる。そこへ、パパのいたずらな豪華さとは対極にある、素朴だが力強い「森の蜂蜜」をゆっくりと垂らした。
「これは……?」 梢が、小皿に盛り付けられた真っ白な塊を見つめる。
「『クレーム・ダンジュ』の総一郎流アレンジです。疲れた脳には、良質なタンパク質と、角のない穏やかな糖分が必要ですから」
総一郎はさらに、仕上げにクラッシュしたピスタチオと、冷たいベリーのソースを添えた。
「さあ、食べてください。父の持ち込んだ『黄金の騒音』を、この雪解けのよう
な甘さで洗い流しましょう」
オタク君が恐る恐る一口運ぶ。
「……っ、ふわふわだ。甘いのに、後味がすごくスッキリしてて……なんだか、今日あったことが全部、遠い昔の出来事みたいに思えてきます」
「本当ですね……。胸のつかえが、すーっと溶けていくみたい」
梢も、一口ごとに表情を和らげていく。
ジェイドも無言で皿を抱え、まるで栄養を吸収する小動物のように一心不乱にスプーンを動かしていた。
「……オーナー、これ、おじさんには絶対教えないでね。教えたら、このスイーツのために牛を百頭くらい送ってきそうだから」
ジェイドがようやく毒を吐きながら、最後の一口を惜しむように飲み込んだ。
「ああ、分かっている。これは、私たちのための味だ」
総一郎が自分の分の小皿を手に、ふと窓の外を見た。夜の商店街。高級車が去ったあとのいつもの暗がりに、ぼんやりとした街灯が灯っている。
この小さな皿の上にある「救い」だけは、誰にも奪えない。
「さて、明日からはまた、普通の『チーズ屋』に戻りますよ」
「梢が掃除な!」
「えー! 掃除はジェイドさんの担当ですよね!」
「梢、そこは流体力学的に僕がやるより君がやったほうが効率的……」
「また逃げようとしてる!」
賑やかな言い合いが戻ってきた店内に、総一郎は満足げに目を細めた。
パパが置いていったのは、嵐のような混乱。
けれど、その嵐が去ったあとのこの静けさと、甘いフロマージュ。 それこそが、今の総一郎にとって、どんな遺産よりも価値のある「旨味」だった。
「ごめんね。僕の父が……。2人にはお店も方も手伝ってもらうことになっちゃったのに」総一郎が、ふっと困ったように笑って呟いた。
解ける魔法、クレーム・ダンジュ
フランスのアンジュ地方から届いた「天使の贈り物」。 それは、一口食べれば心まで軽くなるような、繊細な口溶けのチーズケーキです。
【材料】(3〜4人前)
フロマージュ・ブラン:200g(手に入らなければ、水切りしたプレーンヨーグルトで代
用可)
生クリーム:100ml(乳脂肪分45%以上の濃厚なもの)
グラニュー糖:30g
卵白:1個分(冷やしておく)
レモン汁:小さじ1
ベリーソース:適量
【作り方:総一郎の工程】
純白のメレンゲ ボウルに卵白を入れ、グラニュー糖を数回に分けて加えながら、角がピンと立つまで泡立てます。総一郎の助言:「メレンゲは、これから訪れる希望の象徴です。一寸の隙もなく、真っ白に、力強く打ち立ててください」
乳の融合 別のボウルで生クリームを8分立てにし、フロマージュ・ブランとレモン汁を混ぜ合わせます。ここに1のメレンゲを加え、泡を潰さないようにヘラで「切るように」優しく混ぜます。
「しずく」を待つ 湿らせたガーゼを敷いたザルに、2の生地を流し込みます。包み込むようにして紐で結び、冷蔵庫で一晩(最低4時間)吊るして、余分な水分ホエーを落とします。総一郎の助言:「余計なものを捨て去ることで、味の本質だけが残ります。この待つ時間も、料理の一部です」
天使の顕現 ガーゼをそっと開くと、そこには雪の塊のような、ふんわりとしたクレーム・ダンジュが現れます。お皿に盛り、赤いベリーソースを鮮やかに流します。
ジェイドの科学的ワンポイント
「オーナーは『天使』なんてロマンチックなこと言ってるけど。これ、要は『タンパク質の網目構造に閉じ込められた空気の安定化』なんだよね。メレンゲと生クリームの泡を、チーズの脂肪分がコーティングして崩れないようにしてる。だから、口に入れた瞬間に体温でその構造が崩壊して、香りが一気に鼻へ抜ける……。天才的な物理設計だよ、これ」




