第10話 ストリート・バル開幕――旨味に変わる時間
ストリート・バルの設営がほぼ完了し、夜の帳が下りた商店街。
街灯の光に照らされた特設ブースの前で、一人の老人が足を止めた。この街の商業を束ねる重鎮であり、今回のバルの実行委員長でもある神宮だ。
「今日は、どうもありがとうね。準備大変だっただろうが、楽しみにしているよ」
神宮の声は低く、しかし驚くほどの張りと威厳に満ちていた。
「神宮様。わざわざ足を運んでいただき、恐縮です」
総一郎は、仕込みの手を休め、完璧な角度で頭を下げた。それは日本的なお辞儀でありながら、凛とした気品を漂わせる動作だった。
「期待しているよ、総一郎君。君がこの街を選んでくれたこと。そして、あの『寿司勝』の代役を引き受けてくれたこと……。それがこの街にどんな風を吹かせるか、見届けさせてもらうよ」
神宮はそう言い残すと、付き添いの者を連れてゆっくりと歩き去った。その背中を見送りながら、ブースの影で機材を調整していたジェイドが顔を出す。
「……あの爺さん、そんなに気張らなくていいって言ってたのに。何だよあれ。」
「さてね。だが、彼が私を『総一郎』と呼んだのは、この街の住人として認めてくれた証拠だろう。今はそれだけで十分だ。明日が本番だ!」
総一郎は、バルのメインとなる巨大なコンテ・チーズの表面を、静かに、そして鋭く見つめた。
◆◆◆◆◆
ストリート・バルの熱気が最高潮に達した午後。
特設ステージの上で、総一郎が静かに一歩前へ出た。周囲の喧騒が、彼の登場とともに波が引くように静まり返る。
「……始まります」司会の掛け声とともに始まる。
その一言を合図に、ジェイドが巨大なコンテ・チーズの塊を恭しく台に据えた。熟成期間36ヶ月。フランスの山岳地帯で時を止めていた「黄金の岩」が、春の陽光を浴びて鈍く光る。
総一郎が手にしたのは、特注の細長いチーズナイフだった。
彼は目をつむり、巨大な塊の「声」を聴くように指先を添える。次の瞬間、ナイフが鮮やかな軌跡を描いて振り下ろされた。
途端、しっとりとした抵抗感とともに、コンテが「パキン」と心地よい音を立てて二つに割れた。
会場の最前列から、小さな歓声が漏れた。
「おぉ……!」
スマートフォンを掲げる人が一斉にシャッターを切る。
切り口からは熟成されたバターと、湿った山地の土を思わせる芳醇な香りが一気に溢れ出す。断面にはアミノ酸の結晶がちりばめられ、まるで磨き上げられた琥珀のように輝いていた。
観客からため息が漏れる。力任せではない。
素材の結晶構造を見極め、最小限の力で「時」を解体していくその所作は、まるで祈りを捧げる神官のようであり、あるいは冷徹な精密機械のようでもあった。
断面には熟成の結晶が、ダイヤモンドの粉を散らしたように輝いている。総一郎は繊細な手つきでそれを花びらのごとく削り出し、真っ白な陶器へ並べていく。
「孤独は、決して欠落ではありません。それは、自分という味を熟成させるために必要な時間なのです。……さあ、召し上がってください。この街で、皆さんが積み重ねてきた日々の味を。あなたの思いも旨味に変わります。」
その声は、音響設備を通さずとも、会場の隅々まで染み渡るような不思議な響きを持っていた。
香織は、身動きも忘れて特設ステージを見つめていた。
周囲の喧騒はもはや耳に届かない。
ただ、逆光を浴びて銀色に輝く総一郎のナイフ捌きと、彼の影のように、けれど驚くべき精度で立ち働くジェイドの動きだけに、彼女の意識は吸い寄せられていた。
そこに展開されていたのは、単なる調理ではなかった。
総一郎が炎を操るような手際でチーズを削る。その『炎舞』を繰り返す姿は、まるで舞台芸術のようだった。
「……なんて、綺麗なの」
香織の唇から、無意識に感嘆が漏れる。総一郎が削り出すチーズは、重力から解放されたかのように軽やかに舞い、真っ白な皿の上に「大輪のフロマージュ」として咲き誇っていく。
ジェイドがその傍らで、一滴の狂いもなくバルサミコのソースを点じ、ハーブ
の緑を添えるたび、一皿の料理は完成された静物画のような完成度を帯びていった。
香織にとって、食事とは空腹を満たすための記号に過ぎなかった。
けれど、目の前の二人が紡ぎ出すそれは、誰にも見せないはずの心の空洞を、温かな黄金色の光で満たしていくような、不思議な力を持っていた。
総一郎の、厳かですらある真剣な眼差し。 ジェイドの、どこか浮世離れした理知的な手元。
香織は、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じていた。
孤独を「旨味」だと言い切るその力強い哲学が、皿の上に具現化されていく。
彼女の瞳には、出来上がった料理だけでなく、それを作る二人の生き様そのものが、眩いほどの美しさで焼き付いていた。
梢「すごい」
オタク「わぁ、総一郎さんかっこいいな」
神宮「素晴らしいねぇ」
寿司勝の大将「総ちゃん、やるねぇ」各々が感嘆している。
デモンストレーションが終わり、Le Fondueのブースの前には長蛇の列が続いていた。
「先日は大変お世話になりました」その声にジェイドが顔を上げる。
そこには、先日お店で約束を反故にされ、一人で大泣きしていたあの「梢」が立っていた。
あの時の絶望した表情とは違い、今日は総一郎のデモンストレーションに勇気をもらったような、明るい兆しが瞳に宿っている。
「いえ、今日来てくださったんですね。どうもありがとうございます。楽しんでいってくださいね」
総一郎が、流れるような手つきでチーズを削りながら微笑む。その穏やかな声は、かつて彼女の心を救ったあの夜のトーンと同じだった。
しかし、総一郎が挨拶を終えるや否や、あまりの忙しさにジェイドが叫んだ。
「梢! これ見てわかんだろ。ちょっと手伝ってくれよ!」
「えっ……私!?」
梢は驚いて目を見開く。
自分はただ、お礼を伝えに来ただけの客なのに。
けれど、目の前でジェイドが必死に皿を並べ、総一郎が極限の集中力で「炎舞」を繰り返す姿を見て、彼女の胸に「誰かの役に立ちたい」という熱い感情が込み上げた。
「物理的に手が足りないんだ! お客さんを待たせるのは、オーナーの美学に反する。……頼む!」
「……わかりました! 私、やります!」
「ごめんね。梢さん。でも、手伝ってもらえて助かるよ」
息つく暇もないオーダーの合間に、総一郎がふと視線を向け、穏やかに、けれど真摯な声で言った。
その一言には、無理な願いを許してくれたことへの申し訳なさと、彼女が今そこにいてくれることへの確かな信頼が込められていた。
「い、いえ! 先日はあんなに見苦しいところをお見せしたのに、こうしてまた声をかけていただけるなんて……私の方こそ、ありがとうございます」
梢は顔を赤らめながらも、慣れない手つきで皿を拭き、ジェイドが盛り付けた料理の脇にフォークを添えていく。
「ありがとう。君のおかげで、この一皿が完成する。」
かつて孤独に打ちひしがれ、店のカウンターで涙を流した彼女は、今、そのカウンターにも似たブースの内側で「誰かの喜び」を支える側へと回っていた。
デモンストレーションを見届けた神宮が、列の最後尾から再び姿を現した。傍らには、街の有力者たちも連れている。
「おお、大盛況じゃないか! おまえさんは器量良し、料理もうまい。あんなすごいもの見せられたら来ないわけにはいかんのう」
彼の豪快な笑い声は、並んでいた客たちの緊張を解きほぐし、ブースの周囲をさらに華やかな空気で包み込んだ。
「神宮様、お運びいただき光栄です。先ほどの言葉を胸に、精一杯務めさせていただいております」
総一郎は、梢から受け取った真っ白な皿を手に、神宮の前へ進み出た。
その皿の上には、先ほどの「炎舞」によって生まれたばかりの、黄金の花びらのようなチーズが美しく鎮座している。
「ありがとうございます。……ジェイド、梢さん。次のお客様へ、最高の一皿を
」
「任せて!」
「はい、オーナー!」
「あっ、す、すみません!」「あっ、すみません……っ」
人混みの波に揉まれ、左右に揺られながら、不器用に突き進んでくる影があった。
先日、店でタブレットを手に震えていた「オタク君」だ。彼は何度も周囲に頭を下げ、リュックのストラップを握りしめながら、ようやくカウンターの最前列に辿り着いた。
「あ、あの。ステージの、りょ、料理を……く、くださいっ」
息を切らし、顔を真っ赤にしながら絞り出したその声に、総一郎は作業の手を止め、慈しむような眼差しを向けた。
「あっ、いらしてくださったんですね。ありがとうございます。どう? バルは楽しめてる?」
「あ、すみません、あッ……!」
総一郎の優しい問いかけに答えようとした瞬間、後ろから来た客にぶつかられ、彼は危うく転びそうになる。
謝りながら右往左往するその姿は、あまりにも危なっかしく、周囲の喧騒に飲み込まれてしまいそうだった。
見かねたジェイドが、カウンターの隙間からひょいと身を乗り出し、彼の腕を掴んだ。
「おまえ、そんなところにいたらまた怪我するぞ。」
有無を言わせず、彼を厨房脇の空いたスペースへ連れて行った。
「……ほら、こっちに来い。ここで座って食べていいから。その代わり、食べ終わったら皿洗いくらい手伝えよな」
「えっ、あ、あ、あの……!」
戸惑う彼の手元に、総一郎が手際よく仕上げた「大輪のフロマージュ炎舞」の一皿が置かれた。炎の余熱が残る黄金のチーズが、彼の眼鏡を白く曇らせる。
「……ここでは、誰も君を突き飛ばしたりしない。ゆっくりと、その『時間』を味わってください」
◇◇◇◇◇
バルのために開発したメニュータルティーヌ(第4話参照)
【レシピ】三種のフロマージュ・タルティーヌのうちの最期の1品紹介
【共通のベース】
バゲット:1cm厚にスライスし、軽くガーリックバターを塗ってトーストしたもの。
3. 雪解けのタルティーヌ:『ブッラータ風クリームと生ハム』
具材:割いたモッツァレラ+生クリーム(第1話の再現)、プロシュート、セルフィーユ。
哲学:バルで再会した香織に捧げる一品。口の中でクリームが溢れ出し、すべてを優しく包み込みます。
梢の一言:「これ、私が一番に運びたいです!」




