第9話 黄金の貴公子を見つけた夜――地下のチーズ屋に届いた取材依頼
活気と焦燥が入り混じる編集室。
山積みの資料の向こうから、デスクの主である美咲が、後輩の立花に向かって野太い声を飛ばした。
「立花〜! お前、あの『次世代の名店』企画の取材アポ、取れたのかよ〜!」
キーボードを叩く音や電話のベルが鳴り響く中、立花はひらりと手を振って応える。
「美咲さん。そんな大きな声で言われなくても聞こえてますよ〜。……バッチリです。地下にあるチーズの専門店なんですけど、ここ、マジで『映え』だけじゃないっす。めっちゃ美味しかったっすよ。今度ストリート・バルに出店するっていうんで、そこで本格的な取材日の調整をしようかと思ってます」
「ほう、私が唸るような店ならいいけどね。で、どんな感じなの?」
立花は手元のスマートフォンを操作し、美咲のデスクへ歩み寄った。
「あ、写真あるんで見てもらっていいですか? これなんですけど」
画面に映し出されたのは、仄暗い店内のカウンターで、スポットライトを浴びた宝石のように輝く一皿だった。
「これ、ミモレットっていうチーズの盛り合わせなんですけど。この鮮やかなオレンジ色、凄くないですか? まるで夕焼けですよ。味もカラスミみたいに濃厚で、お酒が進むなんてレベルじゃなかったっす」
美咲は画面をスワイプしながら、食い入るように写真を見つめる。
「……ミモレットね。確かにこの色は誌面映えするわね。でも、ただのチーズバーじゃないんでしょ?」
「ええ。オーナーがまた、ちょっと浮世離れした美男子で。『あなたの思いも旨味に変わります』なんて、サラッと言っちゃうんですよ。これ、絶対に読者に刺さりますって」
「……思いを、旨味にね。ふん、面白いじゃない。そのバル、私もこっそり覗きに行ってみようかしら」
美咲の口元に、鋭い編集者の笑みが浮かんだ。
「美男子か。映えに、旨味もプラスね……。で、その肝心の『美男子』の写真は撮ってあるんでしょうね?」
美咲は身を乗り出し、眼鏡の奥の目を鋭く光らせた。編集者としての嗅覚が、その店主に強い「物語性」を感じ取っている。
「いやぁ、それが……。なんか、カメラを向けるのが憚られるような独特の空気感があって。とりあえず、接客中の横顔をコッソリ一枚だけ。これなんですけど」
立花が少し申し訳なさそうに、スマートフォンの画面をさらにスワイプした。
そこには、カウンターで静かにナイフを動かす総一郎の横顔が写っていた。控えめな照明が彼の端正な鼻筋を縁取り、伏せられた長い睫毛が、手元のチーズに深い情熱を注いでいることを物語っている。
「……なるほど。確かにこれは、安っぽい『イケメン店主』の枠には収まらないわね。何か重い過去か、あるいは譲れない哲学を抱えてそうな……いい顔してる」
美咲は画面を指先で拡大しながら、小さく舌を巻いた。
「でしょう? しかもこの人、ただ立ってるだけで絵になるっていうか、地下の店全体の空気がこの人を中心に回ってる感じなんですよ。あ、ちなみにこっちが助手のジェイド。こっちは元気なワンコ系で、また別の層に受けそうです」
「ふん、キャラ立ちも完璧じゃない。……決めたわ。バルの取材、ただのグルメレポじゃなくて、このオーナーの『哲学』に焦点を当てた人間ドキュメンタリー風の特集で行きましょう。立花、当日までにしっかり外堀を埋めておきなさいよ」
「了解っす! 腕が鳴るなぁ……」
編集室の喧騒の中で、二人の視線は画面の中の「美男子」と、彼が紡ぎ出す未知の味に釘付けになっていた。
(……どっかで見たことあるような)
「まさかね。あの二人がこんなところに?なんでこんなところにいるんだ……」
編集長デスクで美咲が凝視していたのは、店主・総一郎の立ち姿だった。 正確には、彼の所作――無駄のない、あまりに優雅なナイフの扱いだ。
「!!」
「立花。あんたが『美男子』と呼んだこの男。……本名はアレクサンドル・フォン・総一郎・……。ヨーロッパでも指折りの資産家、ザクセンローゼの一族の正当なる後継者とも噂さされているのよ」
美咲は震える指で画面を指した。
立花は、手にしていたスマートフォンを落としそうになりながら、美咲の横顔を凝視した。
「……ちょ、ちょっと待ってくださいよ!美咲さん。
あの優しそうなチーズ屋のオーナーが……“亡命した貴族”って……そんな漫画みたいな話、あるわけ……」
「あるのよ。現に、ここに証拠がある。」
美咲は机の引き出しから、一枚の古い雑誌を取り出した。
そこには、豪奢なホールで微笑む若き日のアレクサンドル――総一郎の姿が写っていた。
金色のシャンデリア。
宝石のような食器。
そして、彼の隣には幼いジェイドが、白衣に着られている。
「……本当に、同一人物だ。」
立花は息を呑んだ。
「でも……なんでそんな人が、こんな下町の地下でチーズ削ってるんですか?」
数年前、社交界から突如として姿を消した「黄金の貴公子」。
祖父との確執の末、地位も名誉も捨て、母親の故郷である日本へ逃亡したという噂は本当だったのだ。
「……じゃあ、隣にいるこの子供は?」
立花が尋ねると、美咲はさらに苦々しく表情を歪めた。
「子供? 笑わせないで。彼はジークフリート・ジェイド・フォン・ザクセンローゼ。9歳で大学を飛び級卒業した、物理学とバイオテクノロジーの天才よ。……まさか、彼まで一緒に日本に来ていたなんて」
写真の中のジェイドは、研究所の白衣ではなく、レストランのエプロンを付けて笑っている。
その天才的な頭脳を、今はチーズの熟成管理とオーナーのサポートのためだけに費やしているのだ。
「世界を動かせるはずの二人が、地下の店でチーズを削っている……。これはスクープなんてレベルじゃないわ。」
美咲は深く椅子に沈み込んだ。 明日、バルに現れるのは「街のチーズ屋」ではない。
黄金の檻を壊して飛び出した、二羽の青い鳥なのだ。
「しばらくは情報集めて、大スクープだ!」
◆◆◆◆◆
「オーナー。とうとう明日、待ちに待ったバルでの本番だね〜。……正直なところ、緊張してる?」
閉店後の片付けを終えたジェイドが、カウンターで明日の最終チェックをしていた総一郎に、少し茶化すような、けれど気遣わしげな声をかけた。
総一郎は、手元にあったパルミジャーノ・レッジャーノの大きな塊を、専用のナイフで愛おしそうに撫でながら手を止めた。
「緊張、か。……そうだね。心地よい高揚感はあるよ。大将から託された場所で、私たちが育ててきた『時』をお客様に届けるわけだからね」
「へへ、オーナーがそう言うなら安心だね。……僕はさ、あの野鳥好きの兄ちゃんや、ライターの立花さんたちが、どんな顔して食うのか想像しただけで、もう胃がキリキリしてんだけどさ!」
ジェイドは自分の腹をさすりながら、大げさに肩をすくめた。 総一郎はそんな助手の様子に、ふっと表情を和らげる。
「大丈夫だよ、ジェイド。君が一生懸命に磨いてくれたこのカウンターも、君が仕込んだサイドメニューも、すべてが明日の一皿を支えてくれる。……明日は、あの大きなパルミジャーノを削って、たっぷりの蜂蜜と黒胡椒で出そう。シンプルだが、力強い。今の私たちにふさわしい味だ」
「……おうよ! 最高の『旨味』、ぶちかましてやろうぜ」
二人は顔を見合わせ、静かに頷き合った。 地上では明日の祭りに向けた設営の音が、コンクリートを伝って微かに響いてくる。 地下の隠れ家で熟成を続けてきた哲学が、いよいよ光の当たる場所へと解き放たれようとしていた。




