04-7
流水に、服が巻き込まれる。
それから絶叫するまで、一瞬の出来事だった。
だが。
それも、長い時間ではなかった。
氷のカケラのような、キラリとした透明の小さな粒が幾つも貴堂の視界を横切った。
どこかで見た事のある物だったが、頭が痛みで熱くて、思い出せない……。
でも、水流が自分を壊そうとしていたはずだが……止まった?
あの小さな粒に遮られたのか?
『お前は……豊穣の姫君!』
――あぁ、そうか……〈種子〉は、水を……。
飲む。
「わたくしの〈種子〉が必要としているのは、人を肉片にする為の水ではございません。土と、太陽の光と、清純な水とに育まれ、すくすく育ちます。それは、生命を次の世代へ繋げるため。あなたの怒りの水は、何を育んでくれますか」
『姫君もその人間を見過ごせと言うか!』
「人の事は人の世界で始末を付けるべきでございます。斯く言うわたくしも、此のたびの事に人である貴堂を巻き込んでしまいましたので、偉そうな事は申し上げられません」
『このまま無罪放免は、許さんぞ!』
「それはわたくし達では如何様にも出来ぬ事。人の世界は〈隣の世界〉でございます。人の世に影響を与えるためには、こちらも変化する事です。お互い影響し合うのが、人とわたくし達の関係でございましょう」
『人に託せと言うのか……そこまで言うのならば、見せてもらうぞ貴堂! お前の〈始末〉を!』
――俺の……始末……俺が……。
「お……俺が……っ。俺が砕くのは……〈あいつ〉っ!」
痛みで硬直していた身体が、徐々に動き始める。
まだまだ筋肉が強張っていて腕も腹筋も動かしづらく、声もよくは出ていないような気がする。
痛みを感じるのは、腰の近くの脇腹。
背中の筋肉と神経が引きつって、痛い。燃えるように痛い。
痛みを耐える汗も噴き出し続けて、止まらない。
でも、やる。自分は、やる。
この国を蹂躙してくれた悪意に、止めを刺してやる。
「俺は〈マシュー〉を受け継ぐ者……ケジメは着ける!」
きゅん! と呼吸が戻り、肺が大量に息を吸い込んだ。
「お前だあぁ――!」
貴堂の身体が空へと浮かび上がる。水の力ではない。
自分の身体が単体で浮かび、上昇したのだ。
山が、建物が、海が、町が……視界に見えている景色の〈果て〉が、緩い線を描いている。
それは地球の丸みであった。
空気は冷たく、酸素は薄く、気流がとても強い。
飛行機の航路よりは遥かに低いだろうが、生身が耐えられるような環境ではなかった。
けれどそこに、貴堂は浮かんでいる。
手にはいつの間にか、銀色の杖が握られていた。先端に十字架がデザインされた物だ。
グリップ部分を握り直すと、杖自身の重さが腕を通して身体に伝わって来た。
軽過ぎず、重過ぎず。
自分にとって丁度いい、これ以上無い重さであった。
手触りも最高で、肌にしっとりと密着している。
それを思い切り振り上げると、周囲で風の音が鳴り始めた。
ヒュンヒュンヒュンヒュン……と、幾つもの小さな音が鳴り響いている。
刃のような真空の小さな風が、自分の周囲に何個も発生していると分かった。
「行くぞ……」
貴堂の呟きに応えるように、眼下の……多分、自分の見えている範囲の全ての植物が、水分が、火が、土が、あらゆる生命に宿る精霊が……意識をこちらに合わせて来た。
杖が銀色に輝き始める。
貴堂は一度、瞳を閉じ呼吸を整えた。
そして目を開け、腕を振り下ろす。
地上からこちらを見上げている、たったひとりの……。
いや。
ひとつの影。それに向かって。
ヒステリー老人と繋がっている〈シルエット〉は、影であり、実物ではない。
だが、こちらも〈実物〉ではないのだ。
精霊達のエネルギーは、容易に相手のレベルへ波長をチューニング出来る。
恨みと、憎しみと、悲しみと、怒り。
迷惑をかけられた、などと言う生易しいものではないが、それでもどこかで決着をつけなければならない。
さぁ、恨みを晴らすがいい。
怒りをぶつけるがいい。
あれが悪意だ。
世界中の仲間を蹂躙してくれた〈最悪〉だ。
行け。そのための鍵なら開けてやる。
その感情を解放させ、終わらせるのだ。
仇を討って終わらせるのだ。
思いのままに貫けばいい。
気が済むまで砕けばいい。
今こそ溜飲を下げる時。
そしてつらくて苦しい〈憎悪〉から、自分達を解放しよう。
〈平穏〉を、我らの中へと取り戻すのだ。
再び空に星が流れる。
流星群でも訪れているのか、明るさを感じるほどに多い。
その光を受け、真空の風が轟音をてたながら地上に降りて行く。
銀色に輝く風が、矢のように速く、鋭く、空中を走り行く。
シルエットに向かって。
キンッ! と輝き、黒い影が砕け散るのに一秒もかかなかった。
貴堂は全身に汗を滴らせ、口で一生懸命呼吸をしながら、空に浮いていた。
その高所から、悪意が砕け散ったのを見届けた後。
意識がすうぅっ! と白くなり、突如身体に重力を感じた。
そして、地上に向かって落下を始める。
自分の意志など、そこには無かった。
今にも気絶してしまいそうな冷気と脱力感の中で、抵抗も出来ずに落ちてゆく。
ああ、仕方が無い。何も出来ない。
自分を助けられる気力など、もうこの身体のどこにも残ってはいない。
身体の、全ての細胞が、初めて人の限界を超えてしまったダメージをダイレクトに受けた。
呼吸が遅くなり、小さくなり、意識が途切れそうになった、その時。
『ヒロ』
懐かしい声に呼ばれる。
『まだ終わってないぞ』




