03-2
あの頃パトリスが居たのは、中流よりもかなり貧し目な家庭だった。
母親がひとりで三人の子供を育てていた。
パトリスは一番の下の娘で、姉と兄に面倒を見られていた。
母親はもちろん、仕事をしている。
何の仕事をしていたのかまでは幼いリカードも知らなかったが、きっとそう高い賃金をもらえていたわけではないだろう。
いくつかの仕事を掛け持っていたかも知れない。
ハドリーと自分のふたりで迎えに行った。
最初に行った時は母親が留守で、二度目、三度目と空振りをくり返し、四度目の訪問でやっと会えたのである。
下町の、古いアパートメントだった。
その町を行き交うどの人もファッションに気を使っているような人は居らず、誰もが古ぼけた服を着ていた。
パトリスが可愛い服に執着するのは、当時の影響があるかも知れない。
ハドリーが母親と話をしている間、リカードはアパートの外で待った。
ここを訪れる前、リカードは自分を責め続けていた。
ハドリーに言われたからとは言え、ひとりの少女を家族から引き離すのに手を貸すような真似をするだなんて。
でも。このような環境から連れ出してあげる事は、実はいい事なのではないか? と思い始めていた。
その日は日曜で、休日だった。
でもこの町に暮らす子供達は、平日でも学校には行っていないような気がした。
午前中、教会にすら行っていないかも知れない。
ボンヤリ景色を眺めていると、アパートから男の子が出て来た。
リカードと同じくらいか、年上に見える少年だ。
髪が短く刈られた、とても痩せた男の子だった。
「おい、お前っ。オレの妹を連れて行くのかっ」
襟首を掴まれ、壁に押し付けられた。
乱暴で、迫力があった。
力が強かったかどうかは覚えていないけれど、壁に後頭部をぶつけて痛かった事は覚えている。
「どうなんだよっ!」
声にも、顔にかかる息にも迫力があった。
掴まれた襟首を揺すられ、首が絞まる。
「あいつ、パトリスをっ! 連れて行くのか……行っちゃうのかよぉ!」
気づくと彼は、泣いていた。
リカードを罪悪感が襲う。
この少年から可愛い妹を引き離し、連れて行こうとしている。
それは家族にとってやはり、残酷な事だったのだ。
「ねーちゃんは彼氏の所に入り浸ってるし、パトリスまで連れて行くのかよぉ……オレ、ひとりぼっちじゃねぇかよぉ! ……くそ。畜生っ!」
リカードは震えた。
そして必死で「ごめんなさい」と声を絞り出す。
だが、彼は言うのだ。
「ありがとぅなぁ……」と。
「……え」
「うちの母親、酒浸りでさ……矯正施設を出たり入ったりしてる。でも、未だに毎日呑んで、オレ達に暴力振るうんだ。そして言うんだ……ガキなんか生むんじゃなかった、って。お前達なんて要らないんだ、って。邪魔だ、って。憎い、って!」
リカードの頭の中で、耳鳴りが鳴る。
「パトリスを連れて行ってくれるんだったら、オレもこの家を出られる。あの母親を捨てられる! なぁ、連れて行くなら絶対……絶対にあいつを幸せにしてやってくれよ、なぁ。頼むよ、なぁぁ!」
彼は膝から崩れ落ち、泣いた。
人目があるのも関係無く、大声で泣いた。
自分では妹を守ってやれない、と嘆き、悲しんだ。
リカードは息を飲み込んだ。
世の中にそんな家庭があるなんて、知らなかった。
貧乏なのはともかく、酒を呑んだ親が子供に暴力を振るう?
リカードの中の常識が初めて崩れた瞬間だった。
ハドリーが引き取ったパトリスは、学校に行くかわりに家庭教師が派遣された。
ハドリーは、会社からなるべくあの子を出したくないようだった。
あの町で教育も与えられず過ごすよりは、良かったのかも知れない。
あの兄の言葉を信じるなら、多分そうなのだろう。
ABCの読み書きからスタートして、今では携帯やパソコンでネットを自由に利用出来ている。
あのままだったら出来なかったかも知れない事だ。
――日本に行きたい、憧れの国、か……。
たまには外に連れ出してやりたい。
もう八年。会社に軟禁されているのだから。
――ウンと言うかな、あの人。
M310社の会長であり、現在の最高権力者。
ハドリー・ワインバーグ。
リカードの祖父と青春を共に過ごした男である。
祖父アンソニー・オルムステッドがその昔、彼ハドリー・ワインバーグに言ったそうだ。
世の中には〈ボス〉を助ける〈星〉をホロスコープに持った人間――〈ラッキーチャイルド〉と呼ばれる人間が存在する事を。
ハドリー・ワインバーグは祖父が亡くなってから数年後、リカードの元へとやって来た。
「きみは彼のお孫さんのリカードくんだろう? どうだろう、私の依頼をひとつ受けて欲しい」
初等科の、マリーン先生のクラスに在籍していた頃の事だ。
――おじい様の知り合いなのか。
リカードが多少なりとも、オカルトの世界を覗ける人間であると言う事を知っている他人は、居ないはずだった。
両親と祖父母のみで、伯父夫婦や従姉も知らない。
不思議な世界を〈読める〉だなんて知られれば、肯定にしろ否定にしろ、ややこしい人間関係が構築されてしまう。
祖父はその事を、身を以て知っている人であった。
だから長い間、愛妻である祖母しか知らなかった秘密を、リカードが生まれた時。
彼の息子であり、リカードの父親であるヨハンに、初めて話して聞かせたらしいのだ。
『この子は普通の子供とは違う。見ているがいい。きっと、お前達の手におえなくなる日がやって来る。そうなった時、絶対にこの子を責めてはいけないよ。困った時は、僕に預けてくれればいいから』
そう言って、話す予定の無かった自分の〈もうひとつの顔〉について話したのだと言う。
霊を見、星を読み、精霊の声を聞き、科学とは違うシステムの理論を実行する事が出来る。と言う事を。
ヨハンは苦笑いをし「はいはい」と聞き流したらしい。
祖父も、息子が真面目に受け取るとは思っていなかっただろう。
一通り話してからすぐ、新生児室を出た。
アッサリとしたものだったらしい。
それから早々に、リカードは祖父母の元へ預けられる事になる。
まだ一歳になっていなかった、と聞いている。
連日、窓の外に不思議な光がゆらめき、複数の人影が朝から晩まで家中をウロウロとし、ベビーベッドの上で燃え盛る火を何度も見たそうだ。
なのにそれはベッドを焦がす事もなく、リカードは機嫌良さそうに瞳をパチパチさせていたと言う。
祖父に預けられたリカードは、自分と他人の違いを観察し、慎重に人付き合いをするよう訓練させられた。
「見えるのだと、分かるのだと、他人に言わない方がいい。リカードが〈気づいている〉のだと、相手に気づかれてもダメだ。望みもしない〈災い〉がやって来るからね」
そして数年後。
祖父は自身の予言の通りに亡くなり、意識が途切れる瞬間までリカードの手を握り、微笑んでいた。




