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■03■
M310社は世界各国にいくつもビルを所有する大企業である。
その本社は市街地のオフィスビル街に建てられ、アグリビジネスの象徴のように君臨していた。
高層ビル群の中でも一番高い。
巨大な近代建築の中で、世界トップクラスの頭脳がバイオの研究に勤しんでいる。
会社は官僚や政治家とも強く結びつき、国家予算以上の純益を毎年たたき出していた。
国を代表する大企業であり、政府も無視は出来ない存在である。
本社ビルの最上階には、少女が住んでいた。
十五歳で、名はパトリスと言う。
黒い瞳で黒い髪の、目元が涼しげな少女だ。
背中まである黒髪は白い肌の上をサラサラと揺れ、シャープな印象を醸し出している。
最上階のフロア全てがパトリスの城だった。
白を基調とした空間に、ヨーロピアンリゾート邸宅スタイルの家具と調度品が揃えられている。
寝室にしろリビングにしろ全てが彼女の思い通りであり、どんなに高価なシャンデリアも、どんなに高級な最新の家電も、望みさえすればすぐに買い与えられた。
創業者の孫娘でもなく、社長の愛娘でもない。
パトリスはある日突然M310社に現れ、王女となった。
現れた、と言うより現会長のハドリー・ワインバーグに連れて来られたのだ。
当時、七歳。
社員達にはそれがどう言う事なのかなど、全く説明されなかった。
パトリスはただ〈居る〉だけなのだ。
まだ少女の彼女が仕事などするはずもなく、なのに会社の資産で好きに生きている。
何も産み出さず、無邪気に会社の資産を貪るだけの彼女が。
なぜか〈居る〉
会社に〈居る〉
社員達は皆、彼女に対する不満や疑問を口にはしなかった。
いや、しても解決などしないので、話題の対象ですらなくなったのだ。
なぜなら幹部達でさえ、疑問に対する答えを持っていはないから。
パトリスとは何者なのか。
なぜM310社に居るのか。
誰も知らない。
ただ公然と、パトリスはそこで暮らしている。
「リカードはさぁ、彼女居るの?」
パトリスの隣でコーヒーを飲んでいる少年は、それを吹き出しそうにして踏みとどまる。
「な……何だよ、突然っ」
「この間見てたドラマでね、お兄さんに恋人が出来た女の子が嫉妬する、と言うのがあったの。私にとってはリカードが兄みたいなものなのかな? と思って。どんな気分になるか聞いてみたの。で、どう? 好きな女性、居るの?」
リカードは口元からカップを放し、小さく息を吐いた。
「わざわざこんな時間に呼ぶから、何事かと思えば」
「な、何よーっ。どうせ会社の中に居たくせにっ」
「僕はきみと違って、会長からの依頼が色々とあるからね」
「人を暇人みたいに言わないで欲しいわっ」
「おや、多忙の割にドラマを見ているのはなぜかな。しかもその事で僕を呼び出しておいて」
「それは、その……仕事で疲れたリカードの気分転換になればいいなぁ、と思って。クッキーだって美味しいでしょ、ほらほらっ!」
白いプレートに乗せられた焼き菓子を、ぐいぐいと胸に押し付けてくる。
これもきっと、どこかの有名な菓子職人の作品なのだろう。
取り寄せたのか、買いに行かせたのかは知らないが。
ビルの中にあるコンビニエンスストアで買えるような品ではないはずだ。
パトリスの膨れた顔が、窓ガラスに映っている。
夜のオフィス街が広がる窓に向かって座り、ふたりでおやつタイムを過ごした。
最上階から見る景色は確かに素晴らしいのだけれど、リカードはあまり好きにはなれなかった。
こんな場所でひとりきりのパトリスも、気の毒である。
学校には行かせてもらえず、会社とハドリーのためにだけ、ここに居る。
「運動不足にはならないの?」
「地下のジムとプールに通ってるから、平気っ」
少女らしくない生活である。まるでセレブなマダムみたいだ。わざわざ運動をしないといけない生活だなんて。
彼女はまだ、十五歳なのに。
「可愛い服を着るためには、スタイル維持が不可欠だし」
「お菓子を食べながらぁ?」
「食べて維持しなきゃダメなのぉ! 別に見窄らしくなりたいわけじゃないもんっ。フライドポテト五キロとか、寝る前にピザ十枚とかに比べたら、クッキーとコーヒーなんて可愛いものよ」
「……そこと比べるのは違うんじゃ」
「そ、そぉね……」
パトリスが苦笑いを浮かべた。
「またドレス買ったの?」
「そうよ。ボスの出席するパーティには付き合わされるんだし」
「パーティに素敵な人、居た?」
「まさか。おじさんばっかり」
それでもスタイルは維持するのだな。
まぁ、自分のために頑張るのは悪い事ではない。根性も有るのはいい事だ。
「で、リカードの今日のご用は何だったの」
「今度、出張する事になったよ」
「えーっ。何日間っ?」
「まだ未定」
「リカード居なくなったら、遊び相手居ないじゃないのぉー! 未定って、どこまで行くのよっ」
パトリスが頬をぷうっ! と膨らませる。
「日本」
「……えっ」
「えっ?」
頬の膨らみが、しぼんだ。
「日本に行く、のぉ?」
人差し指を立て、それでリカードの腕をグリグリと押して来る。
「な……何だよ」
「私、も。行きたい、なぁーっ」
「えっ?」
「日本ってね、可愛い女の子がたくさん居るのよ。服の着こなしも可愛いのよ。シャンプーもボディソープも質が良くて、チョコレートもすっごく美味しいのよっ」
ぐいっ。と顔をこちらに近づけて来る。
「憧れの国なの!」
真顔で、真正面で、そう言われた。
頬が赤く染まっている。だけど。
「パトリスが行けるわけ、ないだろ」
学校にも行かせてもらえないのに。
「ううん。ひとつだけ、行ける手段があるのぉ」
「どうやって」
「そ・れ・はぁー。ジャーン! ボスと一緒に行く事でーっす」
彼女は両腕を開き、高々と持ち上げた。そのままソファから立ち上がり、くるくると踊り出す。
数回、ステップを踏んで気が済んだのか、回転は止まった。
「会長とぉ~? あの人が行く、なんて言うとは思えないなぁ」
「どうしてよ。だいたい、何の用事で日本に行くのよリカードはぁ!」
「それは、その……。ビジネスを邪魔し続けてくれた官僚達と保守派の政治家どもに仕返しをして来いって」
「うっわ。やっぱボスってそーゆートコあるのねぇ、私の前では普通にしてるけど」
「あんまりそんな事言うなよ。あれでもパトリスの事は大切にしてるんだから」
「分かってる。リカードの前でしか言わないもん」
「ならいいけど」
「でもそんな個人的な恨みをさぁ、正社員でもない十七歳のリカードにやらせるとか、ちょっとヘンだよねぇ」
リカードは苦笑いをして見せた。
「前々から思ってたんだけど、ボスとどう言う関係なの? 八年前に私を迎えに来たのって、確かリカードとボスのふたりだったよね」
「うちの祖父が会長の学生時代の友人だった、らしいよ」
「え。そんなプライベートな関係なの? リカードは生活苦で、だからその年齢で働いてるの?」
「う……まぁ、そんなカンジ」
「へーえ。人付き合いって大切なのねぇ。おじいさん達が仲悪かったら、私達も今、ここでこうやって会話してなかったんだぁ。なんだか不思議っ」
そんな会話で一時間ほど過ごした後、リカードはパトリスから解放された。
エレベーターで地下まで降り、会社の車へ乗り込む。
自分の住んでいるアパートメントまで送ってもらうためだ。
ここからはそう遠くないのだが、終電が行ってしまったので仕方がない。
道路はそれなりに広いのに、結構な車が行き来している。
商業地ではなくオフィス街。
なのにこれだけの車が走っていると言う事は、どこの会社も忙しいのだろう。
証券業界などは二十四時間稼働しているはずだし、時間外とは言え一秒たりとも油断の出来ない業種である。
後部座席のシートに身体を預け、窓の外を見た。ビルの明かりや外灯が、暗い景色の中を流れてゆく。
――もう八年になるのか。あの子は数えていたんだな。当たり前か。




