02-6
貴堂は祖母から〈マシュー〉を受け継ぎはしたものの、〈それ〉がどう言うものなのか。
ずうっと分からないまま過ごしていた。
もしかしたら引き継ぎの時に説明してくれたのかも知れない。
でも、異国の言葉は理解出来なかった。
そして嫌な思いを味わってしまったため、あれからすぐ父に質問する事も出来なかったのだ。
〈マシュー〉についての疑問を口にしたのは、小学校を卒業してからだった。
家族が卒業を祝ってくれた、その夜。
貴堂は寝ようとしていた父をリビングに呼び戻し、説明を求めた。
その疑問を口に出すまで、勇気と気力が揃うまで。
それだけの時間が必要だった。
それだけ、貴堂は〈マシュー〉の事で心をコテンパンに叩き潰されていたのだ。
約十年――子供にとっては長い、とても長い時間である。
「〈マシュー〉の事、なんだけど」と言葉にするだけで、苦い思いが神経を責める。
悪夢のように忘れ去りたい記憶だったが、夢のように意識から薄れてはくれなかった。
いや。
時が経つにつれ、思いは歪に変化したような気がする。
嫌悪感が膨れ上がり、父の事すら信頼出来なくなった時期もある。
どうしてあの時、父の実家に貴堂をひとりで行かせたのか。
実は父も、あの人達と同じ思いを自分に抱いているのではないだろうか。
そんな疑問が胸に降り積もった。
でも、このままじゃもういけない。
そう思ったあの頃。
卒業をきっかけにして、貴堂は一歩、〈マシュー〉に近寄る姿勢を示した。
「教えて欲しい。父さんの家の〈マシュー〉って、何?」
父は少し驚いたような表情をしたが、すぐに微笑みを浮かべた。
そして貴堂の頭にぽん、とその右手を置いた。
「〈マシュー〉か……オレにとっては手に入らなかった幻の紋章みたいな物だけど、そうだよな。ヒロにとっては〈現実〉なんだっけ」
現実、と言われてもその実感は無いのだけれど。
「お茶を飲みながら話そうか。オレはローズヒップとハイビスカスにしよう。ヒロは何がいい?」
「何でもいいよ、同じので」
父は貴堂をソファで待つように促し、すぐにガラスのティーポットを持って来た。
赤い液体が揺れている。香りは華やかで、寒い夜にぬくもりが広がる。
リビングの中でふたりきり。横並びに座ってお茶を飲む。
「お前、イヤな思いしたろ?」
誰にも言えなかったのに、父は知っていたのか。
貴堂は「まぁ、ね」と返した。
「オレも子供の頃、殺気立つ親戚連中を見て来たよ。かあさ……お前のばぁちゃん、みんなに嫉妬されてイヤミ言われて、可哀想だった」
そうか。父も、それは知っていたのか。あの日だけ特別にあの人達がキレたわけじゃなかったのだな。
考えてみれば普段から〈マシュー〉を狙っていたに決まってる、あいつら。
「その人達にとって〈マシュー〉って何なんだよ」
「あいつらにとっては権威的なものって言うか……。ベックフォード家、大きかったろ?」
「うん。驚いた。父さん、一言も教えてくれないんだもん」
「あの辺りの集落は大昔からあったらしくてな。言い伝えでは、キリストが生まれるまだ、ずうっと前の時代からあるらしい」
「紀元前からあの土地で暮らしていたわけ? へぇ」
「驚かないんだな? キリストより前だぞ?」
「驚かないよ。自分の生まれる前の事は、一日前でも百年前でも、俺にとっては〈現実〉じゃないんだから」
「ドライだなぁ、お前」
「ドライって言うの? こーゆーの」
「いや、どうだろう? オレはさ、その事を聞いた時、凄いなって思ったから」
「凄い、って何が」
「え。ウチが続いている事が」
「……今生きてる人間の全員分の家系って、そうなんじゃないの」
「そりゃそーなんだろうけど……何か話し難いな」
「あ、ごめん」
「いや、いいよ。で、そんな昔からウチは、集落の人達にとって重宝されてたらしいんだな」
「どうして」
「魔女、って聞いた事あるだろ」
貴堂は一瞬、お茶を吹き出しそうになった。
「ま……魔女ぉ~っ?」
魔女と言うと、魔法を駆使して権力者達から嫌われ、火あぶりになった人達だとか。
あるいはお伽話の悪役だとか。
あまりいいイメージは無いのだが。
「魔女術を駆使する人間が居たらしいんだ」
――な……なんだそれマジか。俺が幽霊見えたり精霊見えたりするのと関係あるのかっ?
「ドクターと言う職業がまだ無い頃、薬草で人々の体調を治してやったり、気象を読んで天気を当てたり、そーゆー〈術〉ね」
「あー、そっちね……なんだ」
もっと何かこう、闇に通じる不気味な話かと思ったのに。
「だから当然、海や星や時も読めたんだよ。カレンダーの無い時代に種撒きのタイミングを指導したり、魚の流れを読んだりしたんだろう。何より重宝されたのは、水脈を読んだ事だと聞いてる。リーディングから導き出される言葉は、言ってみれば占いみたいなもので、他の者には真似が出来なかったのだと思う。だから知識の無い人々にとっては有り難いんだよ。そう言う人がベックフォードの先祖に居た、と言うわけさ」
「それが〈マシュー〉?」
「〈マシュー〉は初代なのか、強烈な能力を持った者だったのかオレはよく知らないんだ。まぁそれに関する人名だろうねぇ。何せ宗教観が整備されるずうっと前の時代の事だ。地元の人々にとって〈特別〉だったんじゃないのかな、その名前すら」
「なら当然、土地の盟主にもなれるわけか。その有り難い人を利用しようとする身内や取り巻きは、当然居ただろうしな」
「居ただろうねぇ。〈マシュー〉の名はミドルネームとして代々受け継がれて来たんだよ。ベックフォード家の長い歴史の中に時々、その能力を持った者が生まれたらしい。〈マシュー〉は次代の〈マシュー〉へと受け継がれて来た。現代ではもう形式的なものなのだろうけど、それを利用したい人達にとってはそれが誰へ受け継がれるのか、一大事と言うわけさ」
そんな……歴史のある大切な名前を。
「俺でよかったのかな」
「〈マシュー〉は指名制だから仕方ない。横取りする事も放棄する事も許されない」
「許されない、の?」
「なんじゃないかなー、って事。そんなややこしい、災いの元になるようなミドルネームが現代まで続いているから、そう思っただけ。だって〈マシュー〉って人物像は、聞くからに賢そうだろ? その人が次代へ譲り渡すと決めたのだから、何か意味があるんだとオレは思ってる」
「でも、ベックフォード家の〈マシュー〉じゃ、なくなっちゃったんだよ? 俺のせいで」
父は首を横に振った。
「それは違う。お前じゃない。オレの両親が結ばれた時から……いや、お前のばぁちゃんが〈マシュー〉を受け継いだ時から、それが貴堂の家に渡る事は決まっていたんだ。あの家に残したいのだったら、他の者を指名すればよかっただけ。そうだろう?」
確かに。
「意味があったのかも知れないよ。〈マシュー〉が日本に来る」
「……そう言えば父さんも、わざわざ日本に来たんだよね。どうして?」
「そりゃ興味があったからさ。自分のルーツだよ、日本は。来てみたらベックフォードとは違い、親戚の間で殺気立つほどの争奪戦は無いし、オレは本当に安心したよ。この国は治安がいいし、人は親切だし、食事は旨いし、女の子は可愛い。来てよかったと心の底から思ったさ。そしてこの国で生きよう、って決めたんだ」
「日本の事、好きなんだ?」
「あれ、お前嫌いなの?」
「嫌いなわけないよ」
でも生まれた時から住んでいると、この生活が当たり前でしかなくて。父のように感激は出来ない。
「オレは大好きだぞ。四季折々と言う言葉がある。寒さも暑さも思い切り体感出来て、穏やかな春と秋が巡り来て、それぞれに合わせた生活文化があって。神様がいっぱい居て、幸せな国だ」
「神様?」
「正月、ハロウィン、クリスマス――だけじゃない。花を愛で、月を愛で、自然を慕って酒を呑む。素晴らしいじゃないか」
「あまりお酒、強くないくせに」
「呑む量じゃないよ。雰囲気だ、雰囲気。日本人は常に神様と共に生きているだろう?」
「花や月も神様なの?」
「日本人にとってはそうなんだと思う。オレもヤハウェより好きだなぁ。日本の神様達」




