02-7
父は好きだったのだ。日本の、八百万の神々を。
そして貴堂の胸の中で泣きじゃくっているこの女の子も、きっとその柱のひとり。
日本の食を守り育てる姫君。「いただきます」と手を合わせるのは、生命と神への感謝。
神様のひとりをこんなに泣かせてたら、きっと父に怒られる。
でも貴堂には、何も出来ないではないか。
彼女の同情など、どうしてやりようもないのだから。
「姫君。俺は……あの時決めたんです。俺にとって現実以外は、幻覚程度の価値しかない。だから、無視して生きようって」
姫君の呼吸が息を吸って、小さくなった。
「思い出したました。さっき櫛絽さん家の庭で、土地神様に言われた事を」
姫君は上体を起こし、こちらを見た。
瞳が潤んでとても綺麗だった。
鼻と頬を赤く染め、小さな子供のように泣くのだな、この姫君は。
「どうして貴堂の孫なんかに〈マシュー〉を譲渡しなきゃならないの!」
「そ、そうだ! おば様にとって確かに孫だけど、このベックフォード家にとっては部外者もいいところじゃないですか!」
「そうよお母さん。私達家族だけの問題ではなく、一族にとって大切な問題なのよ。それを一存で、しかもあの子を極秘で呼んでから突然、こんな発表……酷いわ」
「おば様がご結婚される時、大叔母様は大反対なさったそうね。それもそうよね、異国の血をこの家に入れるなんて穢らわしい、ありえない事だもの。いいですか? もうお年だからよく分からなくなってしまったのかも知れませんけど、〈マシュー〉は家宝に匹敵するくらい大切なものでしょ! 私達のブライドなのよ!」
「あぁ、やはりあなた達を呼んでよく分かったわ。〈マシュー〉は、あなた達には絶対に継がせられないと言う事が」
ひとりになった時、予告もなしにフと突然、その声は蘇って来る。
貴堂紘斗はランドセルを背負ったまま、俯いた。
話している内容は分からない、だって異国の言葉だったから。
だけど、自分が責められている事だけはイヤと言う程、理解出来た。
彼らは頬を紅潮させ目をつりあげ、時折こっちを睨みつけながら怒鳴り合っていたから。
「あれっ? きどうくん、どうしたの?」
背後からクラスの女子の声がした。
ハッとして顔を上げ、振り返る。
彼女は一瞬、驚いて、遠慮がちに言った。
「ないてたの?」と。
「どうしたの? おなかとかイタいの?」
貴堂は必死に笑顔を作り「ちがうよ」と言って目元を拭う。
放課後の通学路。
自分は小学生にもなったのに、未だにこんな記憶を忘れられないでいた。
嫌な気持ちを振り払うようにして「じゃあね!」と走り出した時、彼女の「きゃあ!」と言う悲鳴が聞こえて。
不快な、心の奥底からゾッとするような甲高い音がすぐ傍で聞こえたのである。
その時、音とは反対側の左腕を、誰かに引っ張られたような気がした。
そして背後に倒れ込みながら、目の前を黒い物が横切ってゆくのがスローモーションで見えたのである。
ギュリギュリギュリギュリ――!
焦げ付くような臭いがした。
身体の、ほんの少し先を、黒い物が右から左に通過したのだ。
叩き付けるようにクラクションを鳴らしながら、その物体は去って行った。
車、だった。
「ぼく、ぼく大丈夫っ? どこもぶつかっていないっ? スクールゾーンで酷い車ねぇっ! まだ入って来ちゃいけない時間帯なのに!」
通りすがりのおばさんが、走って来てくれた。
すぐ傍で、先ほどのクラスメートが泣き始める。
「痛いところはっ? 無いのっ?」
おばさんが背中や腕をさすってくれている。痛みは……感じない。
「だいじょうぶ……です」
「本当に? 頭とか打ってないわね?」
今度は頭を撫でてくれた。とてもゆっくり、慎重に。
「はい……」
貴堂は驚いて気が抜けてしまい、自分の出している声がどの程度の大きさかさえ判断出来ないでいる。
「立てる? 送って行ってあげようか?」
貴堂は両脇をおばさんに抱え上げられ、立たされた。
身体が崩れ――落ちたりはしないようだ。
大丈夫だ。立っていられる。
「ひとりでかえれます」
「本当に? 気分が悪くなったら、すぐに病院に連れて行ってもらうのよ?」
「はい。ありがとうございました」
「ほら、ビックリしたけど、あなたももう泣かないの、ね?」
おばさんは、今度は貴堂のクラスメートを慰めている。
貴堂は、ゆっくり歩き始めた。
大丈夫だ、歩ける。身体も痛くない。
痛いはず、ないのだ。どこも打っていないのだから。
ただ。
左腕に、掴まれた感触が生々しく残っている。
何だ? あれは、誰だったんだ?
左手を胸の前に上げ、袖をめくる。
手首の少し上に、圧迫された跡が赤くなっていた。
大人の手に掴まれたような大きさの跡、であった。
『ヒロ』
ずきんっ! と胃の辺りが痛んだ。強く驚いたのだ。
『話がある。あの公園へ行こう』
この道を少し行った先に、児童公園があった。
幻聴が、そこへ行こうと自分を誘っている。
貴堂は怖くなった。
時々、見える事はあった。声のようなものも聞いた事はある。
だけど、こんな風に直接話しかけられた事など、無い。
心臓がどくどくどく、と早くなる。
何だこれは。オバケか? オバケ、なのか?
いや。
自分が見て来た中で、こんな接触をして来る者など有りはしなかったし、出来るとも思えない。
あいつらは次元のどこか向こうで、イライラしたりボンヤリしたりしているだけだ。
他の人には見えないようだし、貴堂だって、目の前に居たとしても、レースのカーテン越しに見ているようにしか感じられなくて。
そう。こんなに生々しくはないのだ。
――なにこれなにこれなにこれっ!
気配が、分かる。
見ようとは思わないけれど、気配は感じる。
自分と一緒に移動しているのが、ハッキリと分かる。
親と一緒に歩いているような感じなのだ。
どきどき・どきどき・どきどき・どきどき!
――こわい……!
けれど誰かに「たすけて!」と訴えるわけにはいかなかった。
幽霊の事など、親に言ったって理解しては貰えないのだから。
父親は多少の理解を示そうとしてくれているが見えない人だし、母親にいたっては、始めから受け流しと言うかスルーと言うか、このような事をバカにさえしている。
ただ、父親は言っていた。
「そのような事はあるみたいだが、僕には全く分からないんだよ。けれどもしヒロがそれを強く感じ、困っているのなら、いつでも相談して欲しい」と。
理解しようとする姿勢は示してくれている。
ただ、相談したところで分かってはもらえないのだから、伝えようとする気も無くなっていたけど。
助けを求められない以上、違和感を我慢する事で自分なりに納得していたのに。
――なんで、こんなこと、とつぜんっ。こわいよぉっ!
公園に到着すると、数人の上級生達がボールを投げて遊んでいた。ゲームをしている人達も居る。
『ブランコ……いや、ベンチにしておこうか』
声が話しかけてくる。貴堂は腹の底がまたビクッ、とするのを感じた。
とにかく、促されるままベンチへ座る。
『さあヒロ、思い出してみようか。お前は祖母の国で、ティナにクッキーをご馳走になったな?』
え? と思い、貴堂は記憶を辿った。




