02-8
そう言えばあの煩いリビングから、確か、誰かが連れ出してくれたっけ。
……ティナ? それが名前か?
ブロンドの真っすぐな髪をツインテールにして、若草色のワンピースを着ている女の子が心に浮かんだ。
今の自分より年上だった気がする。五年生か六年生くらいだったかな。
「みんながおばあ様から怒られたのも、あんたのせいよっ。あんたなんか、大っ嫌いなんだからっ」
涼しげな声が何かを叫んだ。日本語ではないので何を言われたのかは分からない。
口調は強く、怒鳴りつけられた。
「だけどここまで来たなら仕方ないから、相手してあげるっ。今日はわたしが初めて〈ひとりで〉クッキーを焼いているの。あんたにはそれを食べてもらうんだからねっ」
怖い表情で怒鳴っているのに、貴堂の手を引っ張って、リビングを出たのだ。一緒に。
引っ張られるまま、廊下を早足で移動する。
左手に窓があった。窓の外はいつの間にか雪が降っていて、庭木の枝にうっすらと積もっていた。
そのままキッチンへ連れ込まれ、シンク傍のテーブルへ座らされた。
貴堂はわけが分からず、彼女の動作を見つめる事しか出来ない。
彼女は「よいしょ」とオーブンの扉を引き開け、鍋掴みのようなグローブをはめ、中へ腕を入れた。
ゆっくりと引き出されたのは、黒い天板だった。
クッキングペーパーの上に、きつね色の焼き菓子が乗っていた。
甘い香りがする。
――おやつ?
こんな時におやつ、とは。
さっきまでの空気との違いに、貴堂は驚いた。
「はい!」と貴堂の前に出されたのは、白い皿に乗せられたクッキー、であった。
ハートの形や動物のシルエットが並んでいる。
でも、食べていいのだろうか。
彼女の表情はあまり和らいではいない。まだちょっと、軽く睨まれている。
――どっどうすれば……。
戸惑い、身動き出来ないでいると、突然。
ティナはその中の一枚を指先でつまんだ。
そしてそれは、貴堂のくちびるに強く押し当てられたのである。
まだ温かいクッキーを口先で咥え、貴堂は呆然とした。
数秒間そのままにしていると、くちびるから水分がクッキーへ吸収されたのが分かった。
全身が戸惑いに支配され、それを食べていいのかどうかの判断も出来なくなっていた。
するとクッキーは彼女の手によって強引に、更に口の中に押し込められ、顎を指先で何度もリズミカルに叩かれた。
驚きながらもその指に誘われるまま、顎を動かしてモグモグとクッキーを咀嚼する。させられた。
――……かたい~。
味もそんなに甘くはなかったし、感触もボソボソしてるし、香りもあまりよくはない。
正直、好みではなかった。
けれど、まぁ外国のお菓子ってこんな物なのかも知れない。
あまり甘くないから、大人好みのクッキーなのかも。
口の中の水分が、思い切り奪われた。
「あんた、すごく正直ね。美味しく無いって表情に出てる」
低い声でティナが呟く。
顔を見ると、眉がピクピクとていた。どうやらまだ怒りは続いているらしい。
彼女の思惑通り自分はクッキーをこうやって食べているのだから、少しくらい態度を軟化させてくれてもいいようなものなのに。
貴堂は俯いた。
自分は何をどうしても、この家の人達には受け入れてはもらえないらしい。完全に嫌われているのだ。
――かえりたい……よぉ。
なぜ父は、ひとりでホテルに残ったのだ。
なぜ自分はひとりでここに来なければならなかったのだ。
貴堂がひとりで来なければならない理由があったのだろう。
それはそれで、仕方の無い事だ。
しかし、優しく迎え入れてくれたのはあのエリサだけ。
優しい声で「ヒロ」と呼んでくれる。この一言だけが自分の存在を認めてくれていた。
ぽたっ。ぽたっ。
涙が顎から零れ落ちる。
帰りたい。怖くて悲しくて、つら過ぎる。
事情も何も分からないのだ。父だって、何も言わず明るく送り出してくれたのに。
なぜ自分は今、こんな場所でこんな気持ちで泣かなければならないのだろう。
帰りたい。日本に帰りたい……!
髪の色が薄いだとか、瞳が水色だとか、日本の人は貴堂の外見を色々と言うが、言葉が通じるだけマシだったのだ。
何も分からず責め続けられる事は、こんなにも痛くて悲しい!
トンッ! と、テーブルが鳴った。
貴堂はビクッ、として顔を上げる。
ティナが、マグカップを強くテーブルに置いた音、だった。
白地にチェックの模様が入ったカッブから、ほわほわと湯気が上っている。
「泣かないでよ……はい」
ティナが貴堂の手に、それを渡してくれた。
カッブは少し熱いくらいの温度で、手が気持ちよくあたたまってゆく。
「泣くほどマズかっただなんて。ムリヤリ食べさせてごめんね。でもあたしも……ショックよ」
ティナは横に座り、カップに手を添え、貴堂の口元に近づけてくれた。
白い液体が揺れている。ホットミルクだ。
「こぼさないで、ゆっくり飲んで」
さっきのクッキーで水分を失っていたので、素直にそれを飲み込んだ。
半分くらい飲んでから、カップを口から放す。
すると……ティナから、髪を撫でられたのである。
――……え?
驚いて彼女の顔を見上げる。
だって、優しくされるなんて思っていなかったから。
ティナは穏やかな瞳でこちらを見下ろしていた。
鼻がツンと細く高く、瞳はワンピースより落ち着いた緑色だ。
窓から入る冬の光に照らされ、彼女は、人形のように綺麗だった。
『ほら、ヒロ。あそこにティナが立っているな』
――えっ?
あそこ、とはどこだ。
貴堂は自分が公園に居た事を思い出し、視線を走らせた。
『外灯の手前だ。リスのオブジェの傍。……関係無いが、いつも不思議に思うんだが、なぜ児童公園に居る動物のオブジェは、リスと象が同じスケールなんだ? 日本独特のステージ文化〈黒子〉と言う存在もすぐさま理解出来たクールな俺だが、これだけは本当に理解出来ないぜ』
彼女の姿を目にした貴堂は、思わず立ち上がった。
あの頃のティナが、あの時と同じ服を着て、あそこに立っている。
――な……なんで! この見え方、まさかあれから間もなく亡くなっていたのか?
いや。
親戚の女の子が亡くなれば、父からその話くらい聞かされるような気がする。
そんな話題、チラリとも聞いた事はない。
それに、死者特有の〈カーテン越し〉のようにも感じられなかった。
信じられない。あんな所に彼女が居るわけがない。
なのに、彼女はこちらに気づく事なく、周囲の子供達をその視線で追いかけている。
ふわり、とワンピースの裾が風に揺れた。
それは、少し手前で友達と話している女の子の、リボンと同じタイミングで同じ方向に揺れたのである。
それは、ティナが〈あそこ〉に居ると言う事の、存在証明のようであった。
『よく見ろ。彼女のブーツの先に、小さな傷が入っているだろう』
少し遠くて……そんな小さな傷までは見えないのだが。
『あれはな、あのブーツを買って早々、階段で付けてしまった傷なんだ。兄と言い争いをしていて、イラだち紛れに階段を蹴ったのさ。その時の擦り傷だ』
――そ、そうなのか……。まぁ、そう言うコトやりそうだけど。
で、その傷がどうだと言うのだ。
『なぜティナがあそこに居るか、分かるか?』
「死んだ、の?」
『いいや。今日も学校で彼氏とケンカしたらしい』
――……っ?
『彼氏と言えばお前。幼稚園の頃、好きな女の子が居たよな』
心臓が飛び跳ねる。誰にも言った事の無い気持ちなのに。
――ゆゆゆゆーれいだからっ?
だから貴堂の秘密を知っている、のだろうか。そんなモノが、本当に幽霊なのか?
『ななこちゃん、って言ったっけ。あの子』
――あのこっ?
『ほら、そこにさ。公園の入り口から、こっちを見てるぞ』
――えええっ!
心臓がバクバクする。居るのか? 来ているのか? この公園にっ?




