7-2 懐古
その日の夜急遽、長谷川先生と打合せをすることになった。
長谷川先生は会合を取りやめたとのことで、僕と神谷課長は慌ただしく資料をまとめてタクシーに乗り込む。場所はいつものホテル。自宅でも議員宿舎でもなく、長谷川先生はここを実質的な寝泊まりの場としている。部屋までの段取りは前回と同様だった。
いつものようにリビングルームに入る。奥のソファには既に長谷川先生が座り、父は飲み物を用意しているところだった。
長谷川先生が僕たちに一言声を掛ける。
「おう、ご苦労」低く、通る声だった。
課長と僕はソファに腰を下ろした。先生はすぐに本題に入った。
「さすがに二十年も経って提訴されるとは思わなかったな。状況について話してくれ」
僕は用意してきたメモを開いた。
「原告団の代表は旧秋山町民会の会長の桐生雅文。元々秋山町立小・中学校にて勤務し、居住制限区域の指定に伴う廃校により、新川の市立中学校に転任して定年まで勤めています。」
父が口を挟む。
「隼人が中学時代にも校長をしていたので、私も面識があります。まさか桐生校長が出てくるとは」
「人前で喋ることに慣れている様子だったが、そういうことか」長谷川先生は一度頷き、グラスを手に取る。
僕は続けた。
「続けます。秋山の他に六つの地域が名を連ねています。○○県・羽黒村、○○県・真ヶ谷町、○○県・川代町、○○県・風早村、○○県・久峰村、○○県・白岩町。このうち二つについては、不当な指定であったのでは、という根拠として、人口以外の問題も挙げています。真ヶ谷町については、国有鉱山跡地に有害物質の処理問題が解決できないために住民を追い出したのではないか、というもの。白岩町については、防災拠点整備のための立ち退きを円滑にするために住民を追い出したのでは、というものです。」
神谷課長が聞く。
「ちなみに、この六つの地域については何かご記憶にありますか」
「いや、記憶にない。秋山の指定が不自然にならないようにカモフラージュしろ、という話はしたが、具体的な地域名を挙げたものはない」
父が静かに言う。
「そうなると、実際に不当な指定だった可能性もあるが、真相は当時の準備室時代の担当者しかわかりませんね」
——準備室。地域再生促進課の前身で、地域再生促進法制定段階に存在した地域再生準備室のことである。法律制定後の組織再編で名称が地域再生促進課に変更された。
「で、今後はどういう流れになる。相手方の要求は何だ」先生が膝の上で手を組み、身を乗り出す。
「『国家賠償請求訴訟』と『確認訴訟』の二本立てになりますが、主旨としましては、移住促進区域の指定が不当なものであったため損害賠償請求をする、というものです」
「確か数百万円程度だったな。そのくらいであれば払って済ませるわけにはいかんのか」先生の口調には苛立ちが混じっている。
「本件に限らず、国の対応手順としては、金額の多寡にかかわらず必ず『争う』姿勢を取るのが基本です」
「……そうか。ならば、そもそも二十年も前のことだ、時効にはならんのか」
「裁判所の判断にはなりますが、相手方からは『違法な指定であったと最近知った』という主張をするでしょう。そうなると消滅時効は適用されない可能性があります」
「警察や地検が調査に動くのか」
「いえ、この訴訟は民事なので動きません。国交省側としては、相手方の主張に対して、指定は適法であったことを証明する書類を提出していく形になります」
神谷課長が静かに補足する「いかんせん二十年も前のことなので、どこまで当時の資料が残っているかは調べてみないとわかりませんが、いずれにせよ、原告側から指定が不当であったことを証明する書類が出て来ない限りは問題ありません」
「物的証拠は残っていないだろうな」先生が聞くと、課長がすぐに応じた。
「はい。本省の方は過去の担当者がきちんと対応してくださっているので大丈夫です。それから、秋山町役場と選挙事務所の方は以前ご報告した通り、対処済みですので問題ありません」
「そうか。であれば心配無用だな」先生はふっと表情を緩め、背もたれに体を預けた。
僕は慎重に言葉を選んだ。
「実務的な話になりますが、裁判自体は二~三年は結論が出ませんので、政治的な影響は当面限定的です。しかし……、裁判で勝つ負ける以上に、世論がどう受け取るかは問題です。有権者にネガティブなイメージが広がることは憂慮すべき事項かと思います」
「では、マスコミの方には別の餌をまいておくことにしよう。民間の方については、内調に指示をしてネット上でもこの話題だけが大きくならないように調整させる」
——「内調」。内閣官房内閣情報調査室。世論操作も担っていると噂には聞いていた。だが、実際にそういった活動もしているのを知ったのは初めてだ。
「他は大丈夫そうかな。……で、例の採掘場の事業者変更の件は進んでいるか。居住制限区域の解除前に、防衛省の外郭団体にしておかんといかん」
「はい、法人格は既に設立済みです。次年度から本格的に移行作業を進めていく予定です」
長谷川先生の関心は既に次の話題に変わって行った。そこから三十分程度話して、僕たち三人は先生の部屋を後にした。
一階のロビーで正面玄関を出る時、父から「少し話さないか」と誘われた。課長とはそこで別れ、父と並んで外へ出る。夜風が強い。
坂を下るとすぐに見えてくる橋を渡った。そこから先は、先程までの落ち着いた雰囲気とは打って変わって、居酒屋の看板が雑居ビルにひしめいていた
行きつけの店なのか、父は迷うことなく雑居ビルに入るバーに入った。
薄暗く、穏やかな音楽が流れている。客はカウンターに三人。父は慣れた様子で、カウンターの奥にいるマスターらしき人に目で合図を送り、二人席に腰を下ろした。
父は「いつもの」という枕詞を付けて、ウイスキーの銘柄名を告げる。父はロックだが、自分はソーダ割、いわゆるハイボールにした。まだ味がわかるほど大人ではない。
程なくして飲み物が届いた。
父はグラスを手に取りながら、穏やかに言った。
「先生との仕事にも慣れて来ただろう。今日は少しゆっくり話そうと思ってな」
確かにこうして腰を据えて父と話すのは久しぶりだ。
僕は国交省での表の業務、そして裏での「先生のための仕事」について話した。二つの顔を持つことが「通常」になってしまった自分がいた。
「それにしても、今日のあれは驚いたな。あと、校長の隣にいたのは佐伯君だろ、お前の同級生の」
「卒業以来顔見てないから確信はなかったけど、それ聞いて確信した。元気そうなのは良かったけど、まさかこんな形で近況を知ることになるとは思わなかったな——で、実際他の地域も何か事情があってあの区域の指定がされたの?」
「先生も当時の細部までは覚えていないだろう。だから、実際のところは調べてみないとわからないな。ただ、現時点でこちら側で把握しているものはない」父の言葉は慎重だった。それが「ない」のか、「言えない」のかは、判断がつかなかった。
僕は少し間を置いて尋ねた。
「ところでさ、先生とはどう知り合ったの?」
「懐かしいな。お前が小学生の時、俺が二年ほど東京で単身赴任していたの覚えてるか?」父は懐かしそうに微笑んだ。
「そういう時期もあったね」昔のことを思い出した。
「当時、俺は内閣府の地方再生推進事務局に出向していてな。そこで『地方交通・生活インフラ維持モデル事業』っていうプロジェクトに関わっていた。目的は、人口減少で崩壊しつつあった地方の交通をどうやって維持するか。自治体と企業、それに国が一緒になって模索することだった。内閣府、国土交通省、総務省、経産省が合同で動く、いわば省庁横断の事業だ。そのときの上司の上司にあたるのが、地方創生担当の政務官をしていた先生だよ。」
「そうだったんだ。でも町役場から中央官庁への出向なんて珍しいね」
「形式的には県庁に出向して、そこから内閣府派遣になるが、派遣元の県庁としては、やはり実際に過疎地域の現実をわかっている人が望ましい、となったらしい」
「なるほど。そうなると、学歴、実力からすると順当な人選だったわけだ」
「煽てなくていい」と言って笑うが、父も東京の最高学府を出ており、一部の地域だけにその能力を置いておくのはもったいない人物であった。
「あの頃の先生はまだ一議員でしかなかったが、地方役人が接する初めての国会議員というのは新鮮なものだった。当時はまだ先生も血気盛んな年齢だったから、あの熱意には圧倒された。『先生であればこの国を変えられるのではないか』と」
先程までこちらに視線を向けていた父がグラスを手に取り、琥珀色の液体を見つめながら独り言のように呟く。
「たらればの話でしかないが……もし少子化が進まず、働く場所があり、それなりの娯楽もあれば、秋山町はどうなっていたかな、なんて考えてしまうな。」
「時代の流れだから、誰にも止められなかったよ」
父はうなずき、微かに笑った。だが、その笑みはどこか寂しげだった。
父が支払いを済ませ、店を出る。伝票に書かれた数字がちらりと見えたが、この金額であれば店に来るのは相応の支払い能力のある客に限られるはずだ。父が来るのも頷ける。
「戻るのか?」
「うん。資料作成を若手に任せっきりにしてるからね」
「ならタクシーチケットを送るから使え」
早々にスマートフォンに通知が来る。タクシーチケットの二次元コードを受け取る。
「助かる」
僕は大通りに出てタクシーを拾う。見送る父の表情は少し力が抜けた穏やかな顔をしていた。




