5-4(隼人) 沈黙の果て
父はダイニングテーブルの奥にある腰高の食器入れの前に立っていた。背を向けたまま、氷の入ったグラスに重厚なガラスのボトルから琥珀色の液体を静かに注いでいた。
自分も黙ったまま、その背中を見つめていた。背中越しに伝わる沈黙は、言葉より重かった。
父はウイスキーの入ったグラスを一つ僕の前に置き、さっきまで議員が座っていた席——つまり自分の正面に、ゆっくりと腰を下ろした。グラスの氷がウイスキーに溶けて、位置を変える。その音がやけに大きく響いた。
「……父さんは、いつから関わってた?」自分から切り出した。声は思ったよりも低く、かすれていた。
父は一瞬だけ目を伏せ、手元のグラスを軽く回した。氷が転がる音が、二人の間の沈黙をさらに深めていく。
「——概ね、最初からだ」
その言葉を聞いた瞬間、全身におもりを載せられたかのように体が重たくなった。信じたくなかった。だが、父の声には一切の迷いがなかった。父は続けた。
「採掘場の方から町役場に相談があったんだ。レアアースが眠っている可能性があるが、自分たちでは正確な調査ができない。政府の資金や技術的な援助を得られないか——そういう話だった。当時、俺は町役場の企画調整課にいた。すぐに長谷川先生に連絡を取った」
父は淡々と語る。
「仮にレアアースがあったとしても、地方の中小企業だけで採掘から事業化までやり遂げるのは難しい。あの頃でさえ町は限界だった。若い人材は外へ出て、残っているのは年寄りばかり。秋山を支えていた人たちは次々と町を離れていった。……だが、かといって外資や都市部の企業に好き勝手やらせるのも違うと思った。秋山を食い物にされたくはなかった。」
「第三セクター方式とか、国や自治体との共同事業にする手もあったのでは?」僕は思わず声が強くなった。
「もちろん考えたさ」父は静かに答えた。「大々的な事業にすれば雇用も生まれ、若者が戻ってくるかもしれない。だが、長谷川先生の会社が行った簡易調査の結果では、国レベルのプロジェクトにするほどの埋蔵量は見込めなかった。つまり、短期的には潤っても、採掘量が減れば再び衰退する。秋山の過疎化は止まらない。それどころか、下手をすると町そのものが消えてしまう。」
父はゆっくりとグラスを置き、僕を見つめる。
「俺は思ったんだ。大事なのは『土地』じゃなく『人』だと。土地は失っても、人のつながりさえ残れば、町の魂は生き続ける。秋山は、あのままではバラバラになって消えていく運命だった。全員ではなかったが、多くの人が一緒に新川に移住したことで、秋山という共同体の形は、かろうじて保たれた。あの決断がなければ、今ここに語る俺たちの『秋山』は、もう存在していない。」
その理屈の整い方が、逆に胸を締めつけた。
「……でも、それは本当に秋山が『生きている』ことになるの?過疎化が進んで、結果論として住民が離散することになったとしても、生活が不便であったとしても、その土地で終わりを迎える人生も、誰かにとっては誇りある選択だったのでは?」
父は静かに息を吐いた。
「もちろん反対もあったさ。生まれた土地で終わりを迎えたいというな。だが、きれいごとだけでは生きていけない。町が崩れていくのを、何もしないで見ていることはできなかった。俺は町役場の職員として、そうした問題を直視してきた。……先生が秋山を利用したのは事実だ。だが、俺は『人を散り散りにしない』という信念だけは譲れなかった。利害は違えど、同じ道を選んだ」
その言葉には、どこか自分自身への弁明の響きがあった。
「後悔がないとは言わない。だが、間違っていたとも思っていない。」
その頑なさに、言葉を失った。父が信じる「正義」は、こちらの理屈では届かないほど、長い時間と経験で固められていた。
「……だとしても、採掘を秘密裡に進める必要なんてあったの?」思わず問いただした。
「あるさ」父は即答した。「レアアースは国家の血液みたいなものだ。既存の輸入元との関係を壊すわけにはいかない。一定量の輸入を続けなければ、いざという時に供給を止められる。需給バランスを保ちながら国内で静かに採掘する——それが外交上の最善策だった。相手国に『こちらには代替ルートもある』と匂わせておけば、向こうも強気には出られない。外交とは、そういう駆け引きだ。」
まるで国の一部を背負っているかのような言葉だった。だが、自分の中では納得のいかない何かがずっと燻っていた。
正義を信じる者に、理屈は通じない。そして、自分の怒りは、どこか感情論の域を出ないこともわかっていた。
父は立ち上がり、グラスの氷を指先で軽く揺らした。
「今すぐ理解しろとは言わない。一晩考えてみろ。明日からの業務で、お前なりの答えを見せてくれ。」
そして、声を落とした。
「俺たちの仕事は、一般の人間が知るべきものではない。国交省の中でも限られた人間しか把握していない。神谷君以外とは、軽々しく話すな。電話もメールも注意しろ。」
少し間を置いて、付け加えた。
「……それから、遥ちゃんとの『探偵ごっこ』も、もうやめなさい」
胸の奥で何かが弾けた。言葉が出ないまま、手元のウイスキーを掴み、二、三口で一気に流し込んだ。喉が焼けるように熱かったが、その痛みがむしろ救いのように思えた。
僕は何も言わず、席を立った。そのまま部屋を出て黒スーツの誘導で一階に降り、正面玄関から外へ出た。
しばらくその場に立ち尽くしたあと、ポケットからスマートフォンを取り出す。躊躇いながら、指先が文字を打ち始める。
——「もう、あの件は終わりにしよう。」
「採掘場の明かり、気になってるんだ。時間があるときに、自分でも確かめてみようと思ってる」「秋山のこと、よろしくね」そう言った時の遥の瞳が頭をよぎる。
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に何かが静かに沈んでいった。




