5-3(遥) 2回目の夜警
旧秋山町を走る小型の乗用車。区分として軽自動車にはならないが、そのくらいの大きさである。夕方の空気はまだ熱気を帯びている。
遥は少しの衝動に任せる形で、ハンドルに指を食い込ませるように、新川から旧秋山町へと車を走らせた。今日は健太の移動販売とは無関係だ。自分の車、自分の判断、自分の責任でここに来た。
夜間の立ち入りは禁止されている。だから、日が傾き始めるころにはすでに町に入っていた。日没は、この土地では境界線のように機能する。
遥は放置車両の集まる一角へ向かった。草にうずもれた軽トラック、窓に蜘蛛の巣を張ったワンボックス、ナンバーの取り外されたセダン。かつての生活の足が無残な姿で並ぶ。前回健太と行った場所とは別だが、こうした場所が町内にはいくつかある。ここなら、車の中に車を紛れ込ませることができる。車を隠すなら車の中。
街灯は少ない。ライトを点けっぱなしでは目立つ。だが完全に消してしまえば、一人で車内にいるのが怖くなる。遥はライトを落として、メーターのわずかな光を頼りに呼吸を整えた。ライトで誰かに気づかれるのでは、と心配はある。けれど、そもそも採掘場からの車両が夜間に出入りしているなら、もし見つかっても「関係者のトラブル対応」という顔をしてやり過ごすつもりだった。以前のような車の故障さえ起きなければいい。そう自分に言い聞かせる。
正直、確たる見込みがあるわけではない。
ただ、前に隼人が話していた。神谷課長が旧町役場と、選挙事務所に使われたらしい古びた小屋から「何か」を回収した、と。証拠はすでに隠滅された可能性が高いが、その二か所を自分の目で確かめるしかない。
先に旧町役場へ向かった。アスファルトの上に積もった細かい砂がこすれて音を立てる。玄関に近づいた瞬間、パッ、と人感センサーのライトが点いた。反射的に身を引く。光だけなら動物でも反応するはずだ、と頭では理解しているのに、心臓が勝手に跳ねた。ひと呼吸置いて周囲を見渡す。警報は鳴らない。だが、ほかの警備システムが生きている可能性は十分ある。遥は早々に身を引いた。ここでは慎重さが重要になる。
それから例の小屋へ向かった。
昔もここを通ったことはあるが、当時は政治家のポスターなど気にすることもなかった。
二十年以上が経って、ポスターは跡形もない。だが掲示板の枠にうっすらと残る字だけは読めた。「自由国民党」と。
懐中電灯を絞り、正面のドアに手をかける。当然、鍵はかかっている。建物の側面に回り、窓から中を覗く。乱雑に置かれた折りたたみ机、紙くず、剥がれかけた養生テープの端。窓には鍵。
裏手に回る。裏口も閉ざされ、その横にすりガラスの小窓がある。ここから室内の様子はほとんど見えない。鍵も目視できない。サッシに触れると、白く粉を吹いてざらついている。だが、汚れの筋が見える。最近、誰かがここを開けた痕跡。
遥は息を殺し、そっと小窓を押し引きする。力を込め続けると、奥で固着していたゴムと金属がこすれるような「ガリ、ガリ」と断続的な音がして、ほんのわずか隙間が生まれた。そこからさらに押し広げる。誰かが鍵をかけ忘れたのだろうか。窓の高さは腰ほど。開いた幅は肩幅ぎりぎり。私は躊躇を飲み込み、二十年分の汚れも、服に付くかもしれない黒ずみも気にしないことにして、体を滑り込ませた。
内部は一間続きの大きな空間だった。
床面は古いフロア材。部屋に満ちているのは埃やカビの匂いだろうか。懐中電灯を壁際に向けると、白い四角が浮かび上がった。ホワイトボードだ。そこに、墨のような濃さで文字が書かれている。
「……漢詩?」
人去山河在
城秋山木深
一千村消失
感時花濺涙
「国破れて山河あり」——頭に浮かんだのは杜甫の『春望』だった。だが、並ぶ漢字は微妙に違う。
文字の輪郭はまだ鋭い。最近書かれたばかりなのだろう。ホワイトボードの周囲には消し跡や色あせた走り書きが残っているが、この四行だけが異様に濃く、そこだけ時間から切り離されているみたいだ。
遥はスマートフォンで写真を撮る。隼人の上司の課長が書いたのだろうか。
「誰が、何のために」言葉にはせず、心の中で呟いた。
机が六つほど島の形に配置され、その他にも二つ。机の上にパソコンや外付けの媒体は見当たらない。他には壁沿いに書棚が並ぶ。
机の引き出しを一つずつ開ける。古びたクリアファイルに入ったチラシが複数パターン。候補者の名前、スローガン、笑顔、そして色あせた党章。過ぎ去った年月を物語る。遥はざっと目を通し、また元に戻した。他にも書類がたくさんある。メモ書きがないかなども含めて確認していく。机の下には空の段ボール。
暗がりで懐中電灯の小さな光だけを頼りに作業を進める。天井のライトを点けることができればもう少し円滑に進むが、人に見つかるわけはいかないし、そもそも電気は点かないだろう。
時間が溶ける。どれくらい調べただろう。感覚では二時間近い。
その時、地面の低いところから這い上がってくるような重い音がした。
遠い、けれど確かな——大型車両の走行音。採掘場のダンプカーだろうか。遥は懐中電灯を消し、側面の窓際に身を寄せる。外は、街灯の少ない闇。目が慣れるまで数秒。我慢して、瞳孔がひらくのを待つ。やがて、輪郭が出る。道路の上で、黒い塊が動いていた。ヘッドライトは消されている。影が動くことでしか、その存在がわからない。屋根から上半身だけ出してあたりを見張る人影と、水平方向に延びる銃のような影。詳しくないので車種はわからないが、自衛隊車両だとわかる。
車両は小屋の前を素通りせず、少し先で止まった。
どうやら、自分の車と小屋の間に停車したらしい。自分の車は陰に入り、ここからは見えない。自衛隊の車両から、ドアの開閉音が二度。二人降りた。懐中電灯の光はない。暗視スコープを使っている——そう直感する。
低い声が、夏の夜気に溶ける。
「ナンバーはついてますね」
「なら不法投棄じゃねえな。後ろも誰もいないか?」
「なし」
「なら、どうせガス欠か故障だろ」
「気温が暑いからわかりにくいですが、エンジンも冷えてそうです」
遥は息を止める。喉が勝手に鳴らないように、舌を上顎に軽く押し当てる。手のひらは冷たい。
そのとき、車両の上からこちらの方を見張っていた隊員が短い声を上げた。
「……何かいます!」
心臓が跳ね上がる。全身の筋肉が、反射で強張る。
暗視スコープで自分の姿が見えたのだろうか。
次の瞬間、草むらがざわ、と割れて、黒い塊が駆け抜けた。低い唸り声。
「……イノシシか。ビビらせやがって」
外にいる一人が、肩の力を抜いた気配を見せる。
「班長、この車どうします?」
「ガス欠だ。どうせまた取りに来る。……っていうか外の方が涼しいな」
ぶつぶつとぼやきながら、二人は車に戻った。エンジン音がゆっくりと遠ざかり、振動が消える。
私はそのまま床に座り込んだ。喉が渇いているのに、飲み水に手を伸ばすのが怖い。
「……助かった」
声に出す代わりに、胸の内側でそう言った。
さて、どうする。
次の巡回が同じルートを通った時、車が忽然と消えていたら怪しまれる可能性がある。しかし、私の車の情報が引き継がれていなければ、何も気にすることはない。それに、違うルートを巡回する可能性もあるし、もう今日は巡回がないかもしれない。朝までいるべきか。あるいは、ここで切り上げるべきか。
私は小屋の中にもう一度視線を巡らせた。ホワイトボード。四行の詩。
いずれにせよこのままここで少し様子を見る必要があるので、漢詩の意味だけでも掴んでおきたい。
遥はスマートフォンを取り出し、先ほど撮影したホワイトボードの写真を、AIの解析アプリに読み込ませた。
「人去りて山河在り、城秋にして山木深し。一千村消失し、時に感じては花にも涙を濺ぐ。」
杜甫『春望』の変奏。
ベースは同じだが、語の置き換えと現代の状況に寄せた改変が見られる──という解説。
現代語訳が表示される。
「人は去っても、山河はそのままにある。町は秋になり、山の木々が深く茂っている。千の村が消え去った。時の移ろいに胸を打たれ、花までも涙をこぼす。」
遥は画面を見つめたまま、思考を巡らせた。
「人は去っても、山河はそのままにある」の感覚は、今の秋山にそのまま重なる。
「千の村が消えた」——それは誇張だろう。けれど確かに、秋山以外にも多くの地域が居住制限区域に指定され、人が去って行った。
誰が、いつ、なぜ、ここにこの詩を書いたのか。単なる趣味だろうか。単なる趣味だったとしても、書き手はきっと自分の気持ちを表現しているのだろう。
スマートフォンの画面を閉じる。今夜はここで引くべきだ。
「もう巡視は来ないだろう。車のナンバーも控えられてはいないはず」——慢心もあるが、自分自身に言い聞かせる。
私は入ってきた窓から、来た時と同じ慎重さで体を外へ戻した。サッシを元の位置にそっと引き寄せ、指先で粉を払う。
車に戻る。ドアを開け、シートに沈み、深く息を吐く。
「成果なし」
はっきりと口に出してみる。悔しさが、言葉に触れて輪郭を得る。けれど、落ち込むことはない。ここには何もないことがわかった。
エンジンをかけ、ライトを上げ、ミラーに小屋の黒い四角を一度だけ映してから、車を走らせる。
人は去っても、山河は在る。
私は私のやり方で、この町に戻る道を探し続けるだけだ。今夜は、それでいい。




