5-2(隼人) 高層ホテル
秋山訪問から三か月が過ぎた。太陽の日差しは強く、暑さや湿気はピークに達して久しい。
残業が常態化している省内の空気は、相変わらず乾いている。パソコンのキーボードを叩く音、稼働し過ぎて回転するパソコンのファンの音、時折どこかで鳴るプリンタの排紙音が静けさを破っている。
その中で自席の内線が鳴り響いた。
受話器を取ると、相手は先程まで隣の自席にいた神谷課長からだった。外に出て電話を掛けて来たようだ。
「今夜、時間取れるか」表の仕事をしている時とは異なる低く押し殺した声。
「会わせたい人間がいる」一瞬、心臓が反応する。
「はい」短く答えたが、受話器を置く手のひらがこの短時間でほんのりと汗ばんでいた。
指定場所は国会議事堂からもほど近い高級ホテル。その名を聞いただけで、胸の奥に警戒の信号が灯る。
普段なら早くてもは二十一時過ぎの退勤だが、この日は二十時半に切り上げた。課長とは別々に職場を出たが、省の裏通りで落ち合い、呼んでいたタクシーに乗り込む。窓の外に流れる街灯が、ガラス越しに等間隔の光の帯を描いていく。
神谷課長は終始無言で、スマートフォンも見ない。その沈黙の中で、僕は自然と背筋を正していた。
目的地のホテルは、都心の高層ビル群の中にあって、落ち着いた暖かな光を放っている。正面玄関に停めると思っていたが、課長が短く運転手に言った。
「地下の駐車場へお願いします」
地下の照明は青白く、人工的な冷たさを放っていた。課長が車を降り、制服姿のホテルスタッフに名前を告げる。すぐに奥から黒スーツの男が現れた。ホテルの従業員には見えない。スーツの襟元には無線用のマイクが光っている。彼は無言でこちらを確認し、無線で何かを告げた。
専用エレベーターはカードキーがなければ動かない。エレベーターに乗り込む三人。黒スーツの男がカードを近付けると、ボタンを押さずとも自動で三十四階が選択される。通常の訪問ルートであれば最上階の三十六階のフロントを経由することになるが、こちらは裏のルートなのだろう。
ドアが閉まると空気が一段と密になる。ただそれは自分の心情によるものが強く、エレベーターの内装自体は天井も高く、高級感のある落ち着いた設えになっている。
課長は依然として何も言わない。その沈黙が、これから起こることの重さを予告しているように思えた。
三十四階。
扉が開くと、別の黒スーツの男が待っていた。右耳に無線用のイヤホン。
フロアの照明は抑えられており、廊下の絨毯は厚く、歩いても足音が吸い込まれる。フロア全体がスイートルームなのだろう。彼に導かれて、豪華なドアの前まで進み、そのままドアを開ける。
中に入ると、前室となるスペースになっている。そこには場違いなほど簡素なスチールラックが一つ置かれていた。高級ホテルの調度とは到底釣り合わない。おそらく外部から自前で持ち込んだものなのだろう。すなわち、それだけ長期間この部屋を借りている、もしくは借りる予定があるのだろう。
「使わない手荷物、通信機器、録音機器はこちらに置いてください」黒スーツの男が丁寧ながら有無を言わさぬ声で言う。
課長は慣れた手つきで筆記用具だけを取り出し、カバンを下段に置いた。ラックの中段のところにはトレーがいくつか置いてあり、その一つに課長はスマートフォンを置いた。
僕もそれにならう。
黒スーツの男が手持ちの金属探知機で課長と僕のボディチェックを行う。無言の圧が伝わる。
前室には三つのドアがあった。左右と中央。僕たちは右側のドアへと誘導された。そこはリビングルームのように広い空間で、手前側には六人掛けのダイニングテーブルが置かれていた。会議もできそうだ。
奥の窓際にはソファとローテーブル。窓の外には高層階からの美しい夜景が一面に広がる。課長は迷わず窓際のソファの方に向かう。
後ろから黒スーツの声が聞こえる。「先生は間もなく来られます」
僕は後ろを振り返らず窓に反射した黒スーツの男を見る。
課長は二人掛けのソファの奥側、すなわち窓際の方に腰を下ろす。僕はその隣に座る。
二、三分後。
玄関のドアの開く音がした。課長が即座に立ち上がる。
服の摩擦音が聞こえ、リビングルームのドアが開く。
入って来たのは、テレビで何度も見た顔だった。
長谷川徹——与党・自由国民党の幹事長。あえて大臣職には就かず、政界全体を裏から操る「ドン」。その存在感は、声を出さずとも部屋の空気を支配する。
そして、その後ろにもう一人。見慣れた姿勢、見慣れた輪郭。
思考が追いつくより先に、体が反応した。
——父だ。
父がわずかに会釈した。その表情は私設秘書長としてのものだった。父としての柔らかさはどこにもない。
自分たちの座る二人掛けのソファの前にはローテーブルを挟んで一人掛けの椅子が二つある。父が窓際の課長の前に腰を下ろし、長谷川幹事長が僕の正面に座った。
ホテル特有の薄暗い照明の中、空気が張り詰める。
「秋津君。よく来てくれた」
長谷川幹事長が先に口を開いた。
「地域再生促進課での働き、聞いている。君がここに来たのは偶然ではない。」
その言葉で、全身の血の巡りが一瞬止まる。まるで体の中から動きを封じられたようだった。
「君もよく知っていると思うが、秋山の資源採掘場。あそこは既に廃鉱したことにはなっている」
声が低く沈む。
「だが現在は、レアアースの採掘場として稼働している」
予想していた言葉。だが、実際に口から出た瞬間、胃の奥がきしむ。
「しかし、だ。居住制限区域の指定が解除されて、人が秋山戻れば、その存在が露見する。それは国益の観点から極めてまずい。神谷君には以前から協力してもらっているが、一人では対処しきれないこともある。だから君を地域再生促進課に呼んだのだ」
自分の能力、経歴で得たポストだと思っていたが、どうやらそうではなかったようだ。あくまでも計画の駒として配置されたのだ。
思考の中でおおよその断片が繋がった。
二十数年前、秋山町の資源採掘場にレアアースが眠っているという情報を得た長谷川幹事長は、その利益を独占するために秋山町から人々を追い出し、裏でレアアースを採掘して私腹を肥やしていた。
「神谷君には君の実務力や適性を見てもらっていたが、見込みがありそうだというので、今回こうして直接話をさせてもらうことにしたんだ。」
最初の秋山出張も適性検査の一つだったというわけか。神谷課長は意図的にこちらに不審な行動を見せて様子を見ていたのか。
「神谷君には以前から伝えているが、二人に頼みたいのは、今後もこのレアアース採掘事業を安定して継続させることだ」
つまりは地域再生促進法で秋山町を移住促進区域に指定したことの理由が表に出ないこと、そして居住制限が解除されて人が戻って来てもレアアース採掘事業を合法的に継続したい、ということだろう。
課長は無言で頷いていた。
「国は、君のように道理のわかる人材を必要としている。ここまでの君の働きを評価している。だから、正式に『こちら側』に立って仕事をしてほしい」
「……『こちら側』とは?」自分でも驚くほど声が硬かった。
「国益の側だ」父が代わって言う。その声は低く、反論の余地を与えない響きを持っていた。
「隼人。お前はずっと国の仕事をしてきた。立場が明確になるだけだ」
故郷を奪われた自分が、今度は奪った側に立たされようとしている。怒りと羞恥が、同時に胸を満たす。
「細かいことは任せたぞ、秋津。」
長谷川幹事長が言う。しかし、その視線は僕ではなく父へ向けられていた。私設秘書長としての「秋津」だ。
「積もる話もあるだろう。久々に息子と男同士の話でもしていきなさい。必要ならルームサービスも使っていい。帰る時も声掛けはいらない。」
そう言い残し、長谷川幹事長は立ち上がった。神谷課長に目で合図を送る。二人がリビングを出て行く。
前室の方で「それでは失礼します」という課長の声がかすかに聞こえた。その後、別の扉が閉まる音。長谷川幹事長は前室の向こう、寝室と思われる部屋へ消えたようだ。
残されたのは父と自分だけだった。沈黙が重く降りる。
父を直視できなかった。
父はどこまで関与していたのか。秋山が移住促進区域の指定された最初の瞬間から関わっていたのか。
もしそうなら——あの日の全ては、家族の延長線上にあったということになる。
胸の奥で何かが軋んだ。




