5-1(遥) 国益
東京での一泊二日の小旅行を終えて新川の駅に降り立つ。東京の一見華やかな街の明かり、喧噪と比べると…、もはや比べようがないほどに星空の方が目立つような穏やかな日常の風景。どちらが良い、悪いではなく、自分に合っているかどうかのものでしかない。
駅から歩いて自宅に帰る。帰宅したのは夜の九時を回った頃だった。リビングの扉を開けると、照明が明るく部屋を照らしていた。父が一人でテーブルのところに座り、タブレット端末で何かを見ている。ウェブ新聞のようだ。
「お帰り」父が画面から目を離してこちらに顔を向ける。
「ただいま」遥はテーブル側と反対にあるソファにカバンを置いた後、父の向かいに座った。
「お父さん、この前の話の続き、聞かせて」
昭一はタブレット端末を置き、しばらく無言のまま娘の顔を見た。わずかに遅れて、ため息が漏れる。
「この件に深入りするのは止めろといっただろう」呆れた声ではあるが、どこか硬さを含んでいた。
遥は静かに息を吸い、少し間を置いてから言葉を選ぶように口を開いた。
「お父さんの会社の先輩で、木島さんっていたよね。木島重信さん。私も子供の頃に遊んでもらった記憶がある」
昭一の目がわずかに動いた。テーブルの上で、コップが小さく音を立てる。
「その名前が出てくるってことは、秘密に少し近付いたんだな」観念したような口調だった。声の端に、あきらめとも寂しさともつかない響きが混ざる。
遥の脳裏に、幼い日の映像が浮かぶ。小学校の低学年くらいだったか、あの頃はまだ採掘場も活気があり、社員の家族を含めた会社行事をしていた。採掘場で家族を招いた夏祭りのようなイベントだった。
父といる私たちを見て木島さんが声を掛けてきてくれた。作業着はところどころ汚れたり、穴が空いていたりした。父よりも年上の男性に対して緊張を抱いたものの、雰囲気や穏やかな声から優しさを感じ、そうした緊張はすぐにほどけていった。普段から父だけでなく他の若手のことを気にかけてくれるみんなの兄貴分的存在とのことだった。
「木島さんもあの時、みんなと一緒に退職したことになっているが——」
父は言葉を継ぎながら、視線を遠くへ向けた。
「父さんと違って彼は採掘の技術者だった。だから、そのまま採掘事業に従事することになった。ご家族もいたから形式的には新川に移住して、単身赴任的に秋山には通っていた」
父の声は淡々としているのに、どこか懐かしさを滲ませていた。
遥は黙ってその表情を見つめる。
「教えてくれてありがとう。でもそれは話していいの?」
昭一は軽く笑うように息を吐いた。
「これは国家機密ではないからな。退職金上乗せの秘密保持契約には違反することになるが……まあ、これは最悪の場合でも違約金で解決できる」と冗談めかして言った。
秋山鉱山で採掘をしていた秋山産業株式会社——。
会社の清算の際、一定の秘密を知る一部の人だけは退職金が上乗せされて支払われたそうだ。遥はその言葉を聞きながら、記憶の中で過去の家計を思い返していた。
同級生は新川に移住する際に、行政主導で用意された空き家や、新たな住居に引っ越すことがほとんどであったのに対し、自分たちは再開発された地域の新しい高層のマンションに移り住んだ。それらが今になってようやく一つの線で結ばれていくように思えた。
「だからあの時こんないい場所に住めたんだね」
そうつぶやくと、父は無言でうなずいた。
「じゃあ……やっぱり、秋山が移住促進区域に入ったのって」
遥は唇を噛みしめた。
父は少し間を置いてから静かに答える。
「外からの強い力が働いた」
「外?」
「政治家に決まっているだろう」
昭一の声が、部屋の空気を重たくした。
「その政治家が『国益のため』と称していくつかの自治体を押し込んだ——そう言われている。秋山もその一つだった」
遥は言葉を失う。
政治家。国益。押し込む。
一つ一つの言葉が、胸にのしかかってくる。
「町長とか、役場も関わっていたの?」
「地域再促法の正式な窓口は県と国交省だ。だが……『別の窓口』もあった」
昭一は言葉を選びながら、視線をテーブルの一点に落とした。
「その政治家と秋山の間を調整した人間がいた」
「……誰?」
父は何も言わず、首を横に振った。その仕草が、否定ではなく「語れない」という意味であることを、遥は直感した。
「法律とか契約ではなく、言えないこともある。これは許してくれ」
部屋に沈黙が降りた。
沈黙の中で、遥の思考だけが進んでいく。町の外、議員、別の窓口——。
頭の中に、ひとりの人物の顔が浮かんだ。けれど、その名を口にすることができなかった。父が言葉を閉ざしたのに、自分がその名を出してしまえば、もう後戻りできない気がした。
「お父さんも……そこに関わっていたの?」
ようやく絞り出した声は少しかすれていた。
昭一はすぐには答えない。
「関わってはいない」静かな口調でそう言うと、しばらく目を閉じた。
「事情を少し聞いていただけだ。何もできなかった。……後付けでしかないが、今となってはそれが悔やまれる」
遥はその言葉を聞きながら、父の横顔を見つめた。長年、家族を支えてきた背中。だが今は、その背中の奥に、言葉にできない影のようなものが潜んでいるように思えた。
昭一はコップの水を一口飲み、低く言った。
「遥、過去は変えられない。もう今となってはどうしようもないことだ。深入りはするな」
その声は穏やかだったが、どこか命令のようでもあった。父の言葉の裏に、恐れと、後悔と、守ろうとする気持ちが入り混じっているように感じる。
遥は何も答えず、ただ頷いた。
席を立とうと椅子を引いた。足の木が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
元の廊下に戻り、玄関側の自室に入る。
開いたままのカーテンから月明かりが差し込み、床に淡い影を落としている。
「過去は変えられない」。
父の言葉が耳の奥で何度も繰り返された。けれど、心のどこかで別の声が囁く。
——変えられなくても、故郷で過ごす日々は取り戻せるかもしれない。
その想いを、遥は再び強く抱きながら、静かに部屋の扉を閉めた。




