4-6(隼人) 2回目の修学旅行
暑さが厳しくなった頃、ある土曜日の午後に僕は浅草のホテルに向かって歩いていた。
二十年ほど前、中学の修学旅行で泊まったホテルだ。当時はただの宿泊施設に過ぎなかったが、今ではロビーに外国人客があふれ、外国に来たかのような錯覚に陥る。不思議な感覚だった。かつては同級生と騒いだ廊下を、今は一人で静かに歩く。
ホテルの一階にある喫茶店。
予定していた時間より早く着いたが、先に席に着いてアイスコーヒーを頼む。数分後、ガラス越しに見覚えのある姿が近づいてくる。
遥だった。白いブラウスにグレーのスカート。前よりも少し痩せたように見えるが、表情は以前より落ち着いている。彼女は僕に気づくと軽く手を振り、まっすぐ歩いてきた。
「久しぶり」
「本当に。……東京に来るのはいつぶり?」
「高校の修学旅行以来かも。あのとき泊まったホテルがここだったから、なんとなくこの場所を選んだの」
彼女の声には懐かしさと、ほんの少しの緊張が混じっていた。彼女もアイスコーヒーを注文する。店内には静かなジャズが流れている。窓の外では人々がせわしなく行き交っていた。
やがて、遥は姿勢を正し、テーブルの上に小さな封筒を置いた。
「……旧採掘場のこと。確信があるわけじゃないけど、やっぱり何かがおかしい」
僕は黙ってうなずき、続きを促した。
「夜、トラックが出入りしてるのを見た。作業員はたぶん秋山分屯地の旧小学校棟に寝泊まりしてる。父は『特定秘密』って言葉まで出して、何も話そうとしない。でもね——あれはただの鉱山じゃない。今も、国家機密レベルの何かをやってる」
彼女の手がわずかに震えていた。その手を包むように封筒の中から数枚の紙を取り出す。
現地で撮ったという写真と、採掘場付近の地図、そして手書きのメモが挟まっている。
「ほら、この位置」
地図上で採掘場に続く道の入口を遥が指をさす。
「この位置から撮影したのがこの写真」
そう言って遥は真っ黒な写真を僕に見せる。
「搬出しているのか、搬入しているのかまでは見えなかったけど……採掘場を出て行った車がまた戻って来たんだと思う」
「危険だっただろう」
「そうね。でもここまで来たからには後戻りできない」
彼女の声には迷いがなかった。その確信の強さに、僕はわずかに息を呑んだ。
僕も、机の上に持参した資料を広げた。
「実はこっちでも調べてる。旧採掘場の所有者は防衛省じゃなく、国交省の名義になってる。ただ、そこを民間企業が借りてるんだ。会社の名前は『東亜開発工業株式会社』。けど、入札記録も公告も一切ない。ウェブサイトもなく、実態が見えない。登記上は都内の小さな雑居ビルが所在地になってる」
「つまり、形だけの会社?」
「おそらく。資本金も低く、従業員もほとんどいない」
「……えっ?」
遥が声を上げる。登記簿謄本の役員の一人を指差してこちらに見せる。
「知ってる名前?」
彼女は小さく頷いた。
「……父の会社の先輩」
取締役に名を連ねる木島重信。
「なるほどな」
僕は無意識にペンを回した。昭一の話では「採掘量が減った」と言っていた。だが、もし木島がこの会社の役員として今も関わっているなら、採掘そのものが続いていた可能性が高い。
「でも、父の話と矛盾する……」遥が呟いた。
特定秘密保護法があるにもかかわらず、「採掘量が減っていること」は隠さずに話した。
「でも、『採掘量が減った』とは言ったけど、『枯渇した』とは言ってない。それに、何か別のことをしているのかも」
僕は腕を組んだ。
「特定秘密保護法を持ち出すということは、何か国家レベルのプロジェクトが絡んでいる可能性がある」
「例えば?」
「……何か別の資源?あるいは、資源以外の『何か』とか?」
僕たちは黙った。コーヒーの氷が静かに音を立て、沈黙が長く続いた。
「もし、このために故郷を奪われたのだとしたら……私、納得できない」
遥の声は低く、しかし芯があった。
「わかる。俺も同じだ。秋山町の人たちを追い出してまで、何を守ろうとしているのか」
店内の窓際から、夏の光が差し込む。遠くで誰かの笑い声が聞こえたが、僕らのテーブルの周りだけ時間が止まったようだった。
「他に手掛かりは?」僕は尋ねた。
「写真はこれだけ」
その時、僕はふと思い出した。
「そういえば……以前、神谷課長が町役場と古びた小屋に立ち寄ってた。そこで封筒と段ボール箱で何かを持ち出していた。もしかしたら、あれも関係してるのかもしれない」
「書類か何か?今どこにあるの?」
「でもだめだ……分屯地にいた時に処分すると言っていた。」
「そっか……」
僕たちは手詰まりの状態に沈黙になった。
しばらくして遥が沈黙を破った。「考えてても仕方ないし、行こうか」
僕らは中学の修学旅行で行った場所のいくつかを回ることにしていた。まずはホテルからも徒歩圏内の「雷門」に向かう。そして仲見世通りを歩く。相変わらずの人の多さには多少辟易してしまう面もある。南海トラフ地震の後、しばらくは海外からの旅行者も激減していたが、今ではもうそんなことは忘れ去られてそれ以前の状態に戻っている。
その後、地下鉄に乗って新宿方面に向かう。あの時は先生が引率してくれていたが、今回は僕が引率する立場になっている。前回は新宿駅から歩いたが、今回は都庁にほど近い地下鉄駅で降りるので、東京都庁まで歩く時間はわずかだ。
当時ですら築年数は相当のものであったが、あの頃と同じ場所に今もこうして立っているのは感慨深い。もしこの都庁が沿岸部にあったら、南海トラフ地震の時に被害を受けていたかもしれない。
東京都庁の四十五階の展望台に上がる。都内の景色を一望する。
遥から聞かれた。
「あの時、ここでした会話覚えてる?」
「覚えてるよ」以前にも夢で見た内容だった。
「あの時はまだ移住促進区域に秋山が指定されるとは思ってなかったけど、まさか隼人が中学卒業と同時に東京に出ることになるとは思わなかったね」
「自分でもまさかこうなるとは思わなかった」と僕は答えながら微笑む。「ある意味ではここがもう第二のふるさとみたいな感じになってる」
「そうだよね。私も一回くらいは東京で生活してみてもいいかも」
「でも『いずれは地元に帰って暮らしたい』って言ってたよね」
「そう。そっちの方が私には合ってると思う」
「俺もそうかも」
展望室の窓に沿って回遊する。僕らは新たな思い出を上書きしながら、展望室を後にした。
二人で近くの飲食店に入って夕食をとる。
お酒を飲みながら、以前と同じような思い出話に花を咲かせて一段落した頃、遥が穏やかな口調で話始めた。
「もしかしたら聞いてるかもしれないんだけど……」そう言いながら、首元に手をやり、白いブラウスの中に隠れたネックレスを引き上げ、そこに引っ掛けている指輪を見せる。
「実は二十五歳の時に結婚したの」
「そうだったんだ……」僕は遥の父から聞いていた話は知らなかったことにした。
「うん。高校を出て、そのまま新川の会社に就職して、そこで知り合った人とね。今思うとどことなく雰囲気が隼人に似てたかも」遥は冗談っぽくそう言って笑う。
「でも……。毎月出張で県外の工場に行ってたんだけど、五年前、南海トラフ地震の時に……津波に巻き込まれて行方不明になってしまって。最初のうちは、どこかで生きてるかもしれない、記憶を失って戻れないだけかもしれないって、そんな風に自分に言い聞かせてた。でも、それもだんだん現実じゃないとわかってきた。気がついたら、働く気力もなくなって、仕事も辞めて実家に戻って、ただ毎日が過ぎていった」
「うん」僕は相槌だけ打ちながら話を聞いた。
「そんな時にね、秋山の居住制限が解除されるかもしれないって聞いて、思ったの。もし戻れるなら、秋山に戻りたい。私が生まれ育った町だから。彼との人生はもう取り戻せないけど、故郷で過ごす日々は取り戻せるかもしれない」
そこまでの思いがあったことは知らなかった。
「だからね、自分の故郷が誰かの都合で『奪われた』場所だったとしたら、それを許せないと思ってる——」遥の寂しそうな表情を見るのは辛い。
「なんてね」と遥は笑って冗談っぽく見せるが、空元気だろう。
「今度、行ってみようかな」と遥が明るく言う。
「どこに」
「町役場と、その古びた小屋」
「でも鍵がないと入れないし、町役場にしても当面は鍵を借りられる大義名分もない」
「そうだよね……」
秋山町の件について次の動きは見つけられない。でも彼女の思いを知った今、自分の思いだけでなく、彼女のためにもどうにかしたい、という思いが強まった。




