1-2 二十年振りの故郷へ
「ふぅ」
僕は東京から新幹線に乗り、旧秋山町のある県内では一番大きな駅に降りた。
ここで新川市行きの在来線の電車に乗り換える。電車の側面と平行したシートには人はまばらに座り、僕はシートの端の空いたスペースに腰を下ろした。
県庁所在地であるこの駅までは仕事で来る機会もあった。けれど、自身の故郷である旧秋山町の方に向かうのは約二十年振りだった。
愛用の名刺入れから自分の名刺を一枚取り出して眺める。
「国土交通省 都市局 地域再生促進課 課長補佐 秋津隼人」
あの頃の自分が今の自分を見たらどう思うだろうか。課長補佐になってから数年経つが、今年四月の人事異動でこの部署に来た。三十代半ばともなれば実力も伴ってきて、指示をこなすだけでなく、自分の意思で動けるようにもなってくる。周囲からは「順調だな」と言われることが多くなった。
だが今回の出張に限っては、胸の奥に妙なざらつきが残っていた。向かう先は、二十年前に奪われた自分の故郷だったからだ。
よりにもよって、その町の出身者である自分が、旧秋山町の再都市化の事前調査のために向かうことになるとは思わなかった。
自分の職歴としては筋が通っている。けれど、感情はそうではない。
——そもそもなぜ旧秋山町が居住できない地域になったのか。
突き詰めれば、さらにもう一歩遡る必要がある。「なぜ地域再生促進法が制定されるに至ったのか」。
憲法においては「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と規定されている。しかし現実には、過疎化が進みすぎた町では地域コミュニティを維持できなくなっていた。そのため制限立法として「地域再生促進法」が制定されることになった。
例えば一般論としての数の目安。
コンビニは圏域人口三千人、食品スーパーは一万人、商店街・百貨店等は五万人が必要と言われている。地区診療所や訪問系の介護サービスも圏域人口五千人の規模でなければ持続的に維持できない。
それに対して、当時の秋山町は人口二千二百人。限界は見えていた。
政府は「コンパクトシティ構想」や「立地適正化計画」といった枠組みで自治体ごとの取り組みを促した。だが、自治体には大規模都市計画を推進するだけの予算もなく、住民に強制力を及ぼす手段もなかった。結果、全国的な少子高齢化の波に加え、高校や大学、働き口の乏しい地域からは若者が去り、高齢化と過疎化だけが残った。
そこで国は全面的にバックアップしながら、強制的に居住地域を制限する法律を成立させた。それが「地域再生促進法」である。
この法律によって二つの区分——「移住促進区域」と「地域再生支援都市」——が設けられた。前者は七十五の市町村——この中には行政区分的には既に隣接する自治体に合併されたものも含んでいるが——、後者は七十弱。旧秋山町は「移住促進区域」となり、隣接する「地域再生支援都市」である新川市に行政区分として合併された。そして旧秋山町自体には人が住めなくなり、住民は新川市をはじめ他地域に移住することとなった。
旧秋山町はたしかに人口や高齢化率といった移住促進区域の基準には合致していた。だが、旧秋山町よりも人口が少ないのに指定から外れた自治体もあったため、住民の間には強い不満が残った。
移住促進区域に指定されたからといってすぐに町を出なければならないわけではなく、約三年の猶予期間があった。その間に住民は移住先や仕事を探す。僕はちょうど中学を卒業する年度で、そのタイミングに合わせて移住を決める同級生が多かった。町には小学校と中学校までしかなく、高校に進学する場合は隣の新川市に通うのが一般的だった。
僕の家の場合は少し事情が違った。秋山町役場に勤めていた父が東京での仕事に声をかけられたのだ。ちょうどいい潮目だと考えた父は、家族三人で東京へ移り住む決断をした。
——それから二十年。
電車が緩やかに動き出し、窓の外で駅のホームが右から左へ流れていく。
昨夜はほとんど眠れなかった。出張の準備は滞りなく終えているはずなのに、故郷へ向かうというだけで、どこか落ち着かなかった。動き出した電車の揺れに身を任せていると、知らぬ間にまぶたが重くなっていった。




