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螺旋の行方 ―居住地域制限法―  作者: 越智康生
第4章:採掘場の秘密
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4-2(隼人) 新情報

東京に戻った僕は、再びいつもの日常へと身体を溶け込ませた。

霞が関のビル群に朝日が反射し、国交省の入る庁舎の壁面を白く照らしている。どこの省庁もそうだが、外観は古くとも内部は改修が進み、ガラスのパーティションや白いデスクが整然と並ぶ。書類の束と静かなキーボードの音だけが現実感を与えている。

地域再生促進課——総勢二十人弱。

窓際の一列に、神谷課長、僕、もう一人の課長補佐の長峰さんが横並びで座っている。そこの向かい側に二つのデスク島があり、係長以下の課員が資料をめくりながらパソコンに向かっている。昼休みのざわめきさえ控えめで、どの声も抑えたトーンだ。

隣の部署との仕切りとして成人男性の胸元辺りの高さのスチール製の書棚が置かれているが、日本地図がマグネットで貼られている。その地図は全国の移住促進区域・居住制限区域が記されているが、直近三年は新規の指定がなされていないため、それ以前に作成されたものとなっている。居住制限区域の位置には数字と赤丸が記され、別表で旧地域名が書かれている。秋山町の位置だけが僕にとって特別な印となっていた。


出張から戻った後、現地での簡易調査の結果を踏まえて、旧秋山町の「再都市化」に関わる各種調査の準備を続けている。

机の上には、分厚いバインダーが積み上げられている。資料のデータ化も多く進んでいるが、行政上どうしても紙でなければいけないもの、手書きのメモ、デジタルデータよりも紙の方が見やすい、といったことも理由にはある。

作業自体は係長以下にも割り振りながら進めている。人に作成してもらったデータを見ながら、旧秋山町の地図を見て確認する。地図上の道路、建物を追うたびに、かつての通学路の景色が頭に浮かぶ。

そういった感傷に思考が途切れる時もあるが、実務としては進めていかなければならない。旧秋山町の土地や建物の所有権は移住時にほとんど国に移っている。つまり、今秋山町に残る土地の大半は国有地であり、国交省が直接管理している。

どの建物がまだ使用可能なのか、どこまでが改修可能で、どの範囲は老朽化して解体が必要か。さらに、公共インフラ——道路・上下水道・通信——どれもが複雑に絡んでいる。調査事項は山のようにあり、優先順位を付けるだけでも一苦労だ。

以前から調査業務発注の入札書類を作成していたが、今回の簡易調査の内容を添付して、正式な書類にしていく。


「秋津君、あの件どうなった?」

神谷課長が隣から声を掛ける。

「地整の調整担当から依頼を掛けてもらっているので、その結果報告待ちですが、恐らく予定通りに進められそうです」

「了解。じゃあ来週は現地出張よろしく頼むな」


こうして、僕は再び新川市を訪れることになった。今回は単独出張。

現地で地整、すなわち地方整備局の職員一名と一緒に行動する。メールで連絡を取り合っていた黒川という若手だ。地方整備局は国土交通省の地方出先機関で、道路や河川の管理、地域再生事業の実務調整など現場を担っている。


***


新幹線を降りると、湿気を帯びた風が吹きつけた。駅前の広場には県庁所在地らしい整然とした並木道が続き、日差しが歩道を照らしている。

ロータリーにはタクシー、民間の乗用車、バスなどが並んでいるが、白いライトバンがロータリーの端に停まっていた。民間でも使用されている車両だが、側面に「国土交通省 地方整備局」と書かれているので一目でわかる。

僕は車両の方に近付きながら、車の脇に立つ男性に手で合図を送る。向こうも気が付き、会釈する。

「秋津補佐ですね?黒川です、よろしくお願いします」

「よろしく」

僕は軽く会釈して後部座席のドアを開け、カバンを置いた。今回は一泊二日。最小限の荷物に資料とパソコン、宿泊セット一式を詰め込んでいる。


車が走り出すと、車内には新車特有の樹脂の匂いが漂った。

「自分、新川の出身なんで、案内は任せてください」

「そうか、地元か」

「はい、生まれも育ちも新川で、大学も県内の国立です。卒業後に地方採用で整備局に入りました。ずっとこっちです」

「俺も生まれは秋山だよ。高校から東京にいるけど」

「そうなんですね、秋津補佐は秋山のご出身だったんですね。秋山と言えば、小学校の低学年の時に、結構な人数が転校してきましたよ」

地域再生促進法により移住が進んだのは約二十年前。その時に小学校低学年ということは黒川君は三十歳手前くらいだろうか。

「じゃあ、やっぱり地域再促法の影響で東京に?」

「そう、話が早くて助かる」

東京に引っ越した経緯を話す時にはこの法律の話からしなければならないが、黒川君は地元民だけあって事情を知っている。

「で、今日は不動産業者を三軒回る予定だけど、先方は大丈夫そう?」

「はい、今のところ予定変更の連絡は来ていないんで大丈夫だと思います」

事前にメールで段取りはやり取りしているが、今日は新川市の不動産会社を訪問することになっている。

二十年前に地域再生促進法が施行され、秋山町からの移住者の新川への移住調整を行った不動産業者だ。今回は逆に、旧秋山町からの移住者を主な対象として、「旧秋山町への移住希望に関する意識調査」を行うために、不動産業者に協力してもらうことになった。

旧秋山町が再都市化された場合、南海トラフ地震の被災者の新たな居住場所としても想定はされているが、その他の移住希望者も募る予定となっている。そのためのアンケート調査だ。


昼前に新川に着いた。県庁所在地から一時間強。電車でも一時間半くらいなので、それほど変わらない。

駅前から続く商店街は、地方都市としては活気がある方だ。昼食は地元民の黒川君の勧めてくれた定食屋だった。暖簾をくぐると、昼前だが既に何組か客が入っている。厨房では老夫婦が忙しそうに作業をしている。老夫婦は黒川君の顔を見るなり笑顔で「いらっしゃい」と声を掛ける。黒川君の先導で二人掛けの席に座る。

「ここ、子供の頃からお世話になってるんです。焼き魚が絶品で」

入店した時から焼きたての魚の香りが鼻をくすぐっている。


食事を済ませて、午後一時半に最初の不動産会社に訪問した。駅から少し離れた通り沿いにある、二階建ての事務所だ。地方都市の中堅規模の不動産会社で、新川市の中でも勢いのある会社だ。

ドアを開けると、一番近くにいた女性スタッフが立ち上がって丁寧に会釈した。黒川君が訪問趣旨を伝えると、僕らは応接室へと案内された。白いテーブルの上には既にペットボトルのお茶が人数分用意されている。

ほどなくして扉がノックされ、三名の男性が入って来た。社長、営業部長、そして実務担当の社員。三人とも礼儀正しいが、入室時の硬い表情からは、こちらの要件に対する「距離」のようなものが感じ取れた。

「本日はお時間を頂きありがとうございます。国土交通省 地域再生促進課の秋津と申します」

僕が名刺を差し出すと、三人はそれぞれ受け取りながら軽く会釈した。

同様に黒川君も挨拶をする「メールでやり取りさせていただいた地方整備局 地域再生企画調整課の黒川です」

冒頭の形式的な挨拶を終え、黒川君が再び訪問趣旨を補足する。

「先日メールでもお伝えしておりますが、本日は秋山町の再都市化に関するアンケート調査へのご協力をお願いしたく参りました」

言葉通り、事前連絡はしてある。だが、三人の態度には「官庁の依頼だから仕方なく」という空気が明確に漂っていた。

「どうせまた手間が増えるだけだ」といった本音が表情の端に浮かんでいる。

それでも、この種の業務では相手に「納得する理由」を与えることがすべてだ。僕は姿勢を正して話し始めた。

「昨今、テレビのニュースなどでも取り上げられておりますが、居住制限区域に指定されていた旧秋山町を、再び『住める町』として再都市化できるかどうか、現在検討が進んでおります。その第一段階として、どの程度の移住需要が見込めるかを把握するため、旧住民を中心にアンケートを実施する運びとなりました。そこで、当時秋山町から新川市への移住を仲介された貴社のような不動産事業者様にご協力をお願いしております」

社長は静かに頷いているが、依然として感情の色は薄い。彼らにとって国交省の調査協力は、実益よりも負担の方が大きい。アンケートの配布、説明、回収——いずれも時間と人員を取られる仕事だ。こちらもその事情を承知している。だからこそ、「見返り」を提示する必要がある。

「将来的に旧秋山町への移住者を募集する際には、当然ながら不動産仲介業務が発生します。ただし、現時点で秋山町には一社も不動産事業者が存在しません。したがって、実務を担っていただくのは、皆様のような新川市の事業者ということになります。事業者選定については入札ではなく『総合評価方式』を採用する予定です。たとえば、今回のようなアンケート協力の実績や、地域貢献度といった要素を評価項目に含める方針です」

社長の表情がわずかに動いた。明確な報酬ではなくても、「評価される」という構図を示すことで、彼らにとっての「意義」が生まれる。

僕は続けて、アンケートの内容について具体的に説明した。

「旧秋山町の元住民の方々に、『戻りたいですか?』と単純に尋ねても、実際の意向は測れません。重要なのは、『どのような条件が整えば戻れるのか』という観点です。ですので、今回のアンケートでは、いくつかの段階を想定しています」

テーブルの上に置いた資料を開き、指先で順に示す。

「第一段階は、生活の基盤を成すインフラの復旧です。電気、水道、ガス、通信——これらが最低限整備され、加えて診療所・駐在所・消防機能といった公共サービスが再稼働する。 この段階で戻ることを希望される方々、主に健康な年金生活者やリモートワークが可能な層を把握します。

第二段階では、民間の店舗や教育機関の再整備を進めます。食料品店、ガソリンスタンド、学校など。新川市など近隣地域に職場を持ち、自家用車で通勤可能な世帯——いわば「日常の足場」をこの地域に求める層が対象です。

第三段階として、秋山町内に雇用拠点を設け、定住・就労を前提とする移住希望を把握します。これにより、行政支援と民間経済活動の両輪で再都市化を進める計画です」


説明を終えると、黒川君がタイミングよく書類の束を取り出した。A4サイズのアンケート用紙の束、それに返信用封筒。アンケート用紙には「国土交通省 地方整備局 地域再生企画調整課」と記され、下部にはオンライン回答用の二次元コードも印刷されている。

「市役所を通じた周知も進めますが、旧秋山町出身の方との接点がある事業者様からのご協力が不可欠です。郵送でも、店舗での手渡しでも構いません。どうかお力添えをお願いします」

黒川君の口調は誠実だった。地方職員らしい実直さがあり、机の向こうの三人もそれを感じ取ったのだろう。社長が腕を組んで小さく息を吐き、ようやく言葉を返した。

「そうですね……できる限りの協力はさせていただきます」

その瞬間、室内の空気がわずかに和らいだ。だが、そのまま終わらせるのももったいない。黒川君がさりげなく口を開いた。

「実は秋津補佐は秋山町のご出身なんですよ」

三人の視線が一斉にこちらに向いた。

「そうでしたか」

「それは、それは……」

当初の警戒心が嘘のように消え、社長が穏やかな笑みを浮かべた。

「移住先は新川でしたか?」

「いえ。私は家族で東京に移りました」

「そうでしたか。……あの、桐生教頭はご存じですか?」

不意に出た名前に、僕にはすぐ思い浮かぶ顔が一つあった。

「桐生教頭……もしかすると、私が秋山中学に通っていた頃の校長先生のことかもしれません」

「やっぱり。うちの倅が中学生の頃、秋山から転任されてきたんです。当時、PTAの会合で何度かご一緒したんですよ」

社長の声に、懐かしい記憶が呼び起こされる。朝礼や式典のスピーチの際の桐生校長の落ち着いた声。

「そうですか……。奇遇ですね」

「ええ。今でもたまに会うんですよ。元気にされてます。今度お会いしたときに、秋津さんのことを話しておきますよ」

「恐縮です」

軽い世間話の後、社長は立ち上がり、深々と頭を下げた。

「本日はわざわざご足労いただきありがとうございました。こちらも地域のためにできることを考えます」

玄関を出て車のところに向かう途中、黒川君が小声で言った。

「やっぱり地元の出身って強いですね。場の空気が一気に変わりました」

僕は苦笑しながら答えた。

「便利な時もあれば、やりにくい時もあるよ」

午後の陽光が道路を照らしていた。


午後三時、二軒目。午後四時半、三軒目。先程と同様のやり取りをこなす。

新川の主要な不動産会社三社への依頼を予定通り終え、黒川君と共に車へ戻る。

午後の日差しが少し傾き始めていた。


助手席に乗り込んだ時、僕はふと考えた。

——せっかくここまで来たのなら、ここで一晩過ごしてもよいのではないか。

「黒川君、悪いけど予定を少し変えるよ」

「え?」

「このまま県庁所在地まで一緒に戻るつもりだったけど、新川に泊まることにする」

「了解です。駅前のホテルですか?」

「そう。前回も泊まった駅前のホテル。あそこ、空いてるか電話してみるよ」

電話で確認すると、幸いシングルの部屋を確保できた。

「じゃあ、駅の近くまでお願いできる?」

「了解です。そこなら地図がなくてもわかります」

「大回りさせて悪いね」このまま県庁所在地まで戻るつもりだったので、新川駅に行くのは反対方向になる。

彼の運転は丁寧だった。車線変更のたびに小さくウインカーを鳴らし、信号待ちでは癖のようにサイドミラーを確認している。

「今日は助かったよ。現場慣れしてて頼もしかった」

「ありがとうございます。僕も秋津補佐と一緒に回れて勉強になりました」

その言葉に、素直な好感が持てた。都心の役所にいると、どこか効率優先の空気に馴染んでしまう。だが彼のように「地元を良くしたい」という意思を持った職員と話していると、久しく忘れていた「原点」を思い出す。


雑談の流れで、黒川君がぽつりと漏らした。

「毎年、旧秋山町の建物の鍵の在庫チェックがあるんです。あれが一番面倒なんですよ」

「在庫チェック?」

「はい。国有化された建物は全部うちの管轄で、住居・事業所・公共施設を合わせると千三百戸くらいあります。住宅だけでも千百戸近く。年に一度、全部の鍵を確認して、所在リストと照らし合わせるんです」

「それは大変そうだな」

「ええ。普通の住宅なら一戸一鍵なんで簡単なんですが、事業用施設だと数十本単位になるんですよ」

「旧町役場は新川市役所の管轄だから除外するとして、秋山にそんな大きな建物あった?オフィスとかテナントビルは限られてたと思うけど。加工工場くらいかな」

「例えば、資源採掘場がありますよね?あれもうちの管轄なんですよ。あそこは鍵の数が群を抜いて多くて……」

僕は思わず運転中の彼の顔を見た。

「採掘場もうちの管轄なんだ。知らなかった。」

——課長は確か「自衛隊関連の研究施設」だと言っていた。

同じ場所を指しているはずなのに、管轄が食い違っている。矛盾が胸に引っかかった。


車が新川駅の近くまで戻って来た。車がホテル前に停まる。

「今日は普段と違う仕事で楽しかったです。ありがとうございました」

「こちらこそ。引き続きよろしく頼む」

僕は車を降り、後部座席に置いた荷物を取る。彼は笑顔で軽く頭を下げ、走り去っていった。


***


チェックインを済ませたあと、部屋のカーテンを開ける。目の前には新川の景色が広がっている。再びカーテンを閉めると、ふとした寂しさのような感覚を覚える。

急遽新川に泊まることにしたので、遥には事前に連絡はしていない。

僕はホテルから出て、夕食をどうしようかと考えながら、無意識のうちに足がある方向へ向かっていた。

商店街を抜けると、見覚えのあるマンションが見えてくる。遥の家だ。遥の家は、地域再生促進法の前後に再開発された、比較的駅にもほど近いエリアにあるマンションである。地方都市の中ではそれなりに高層のマンションである。

「隼人君?」

突然背後から声を掛けられ、思わず振り返る。そこには遥の父・望月昭一の姿があった。

「お久しぶりです」

「やっぱり。遥と約束?」

「いえ、そういうわけじゃないんですが」

「そうか。遥、今日は外出してるからね。よかったら、うちでご飯食べていきなよ。どうせ一人なんだろう?」

断る理由はなかった。僕は恐縮しながらも招かれるままに望月家の玄関をくぐった。

相変わらず玄関はきちんと片づいていて、靴箱の上には小さな観葉植物が置かれている。

リビングには穏やかな照明が灯り、テーブルの上には湯気の立つ味噌汁と煮物の匂いが漂っていた。

「お母さん、お邪魔します」

「まあまあ、一か月ぶりくらいかしら。遠慮せず食べてって。遥ったら、もうご飯用意しているのに、いきなりいらないなんて連絡寄こすから」

申し訳なさを感じつつも、家庭の温かさが身に沁みた。

「今日遥、戻って来ないって。徹夜で作業があるらしい。大丈夫かな。」

昭一が遥に連絡を取ってくれたようだ。

「新川で人気の洋菓子屋があってね。遥の高校の同級生がやってるお店なんだけど、最近そこの手伝いを始めたんだ」

仕事を辞めて実家に戻ったとは聞いていたが、働き始めたようだ。

食後、昭一とソファの方に移動して晩酌することになった。

「仕事の方は順調か?」

「ええ、なんとか。旧秋山町の再都市化の準備をしてます」

「そうか……。秋山の名を聞くと、今でも胸がざわつくよ」

昭一はグラスをゆっくり傾けながら、どこか遠い目をしていた。

少し間を置いて、彼がぽつりと口を開く。

「多分、遥は話してないと思うけどな。あいつ……、結婚してたんだ」

「……えっ?」僕は思わずグラスを置いた。

「高校を出て、市内の会社に就職して、二十五のときに同じ職場の男と結婚した。いい奴だったよ。明るくて、誠実で」

昭一の声が静かに震える。

「でも、あの南海トラフ地震でな……」

重い沈黙が落ちた。

「出張で太平洋沿いの部品工場に行ってたらしい。地震直後に津波が工場一帯を襲い、建物はすべて流された。生存が確認されたのはわずか数名で、一緒に行っていた会社の人たちも行方不明だ。今もまだ見つかっていない。あいつ、最初は強がってたけど、少しずつ元気を失って、仕事も続けられなくなった。だからここに戻ってきたんだ」

昭一はグラスを握りしめたまま、ゆっくり息を吐いた。

「指輪のこと、気付いたか?」

「……指輪ですか?していませんでした」

「忘れたわけじゃないんだ。あれは、必要以上に思い出さないようにするためだ。でも指輪そのものは、ネックレスに通して今でも肌身離さず身につけてる。寝る時も外してないらしい」

彼の言葉を聞きながら、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

あの日、再会した日に見た遥の姿を思い出す。笑顔の裏に、こんな深い痛みを抱えていたとは思いもしなかった。

しばらくして、昭一はうつらうつらと眠りに落ちた。僕はそっと立ち上がり、タオルケットを肩に掛けてやる。

遥の母に声をかけて、僕は遥の家を後にした。


ホテルへ戻る道すがら、僕は足を止め、振り返る。

遥の部屋のある方角を見上げた。そこに遥はいないが、それから彼女は今まで、どんな思いで過ごしてきたのか——それを思うと、言葉にならなかった。

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