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螺旋の行方 ―居住地域制限法―  作者: 越智康生
第3章 故郷の再都市化に向けて
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3-6 不信感

出張三日目の朝。

夜明けの光はまだ柔らかく、町の屋根や木々の輪郭を金色に縁どっていた。

遥の家を出たのは午前六時前。彼女の母が「気をつけてね」と穏やかに声をかけてくれた。玄関先で礼を言い、深く頭を下げた。

マンションの下で車の後ろのトランクにキャリーケースを積み込んでいる時に、上から名前を呼ぶ声が聞こえた。家の前の廊下から寝起きの遥が顔を出していた。淡い朝の光の中、彼女は少し眩しそうな様子で手を振った。僕も軽く手を上げて応える。その光景を胸に刻みながら、車のエンジンをかけた。

道路は静かで、エンジン音だけが低く響く。

分屯地までの道は昨日通ったのと同じにも関わらず、まるで別の風景に見えた。

分屯地の営門に到着すると、警衛の自衛官が立哨している。「おはようございます」と声を掛けて来たので、僕は運転席に乗ったまま、昨日受け取った「特殊外来」のネームプレートを見せた。車を前に進める。

昨日と同じ外来駐車場に車を停め、建物の中へ入る。通りかかった若い隊員に念のために外来宿泊室の場所を聞いて二階に上がる。外来宿泊室は建物の端に廊下を挟んで向かい合わせに二室。扉には紙が貼られ、手書きで「国交省 秋津課長補佐」と書かれている。向かいの部屋を見ると、「国交省 神谷課長」とある。

僕は割り当てられた部屋の扉を開けた。ベッドが五つ並んでいる。個数に応じたロッカーもある。恐らく向かいの課長の部屋も同じく五人部屋で、今回はそれを個室として割り当ててくれたのだろう。一番奥の窓際のベッドの横に自分のキャリーケースを置く。

元々ここは空き教室だったはずだ。自分が入学するだいぶ以前には教室として使っていたはずだが、少子化により使われなくなっていた。

窓の外から、遠くで訓練する隊員たちの掛け声が届く。「いち、に、さん、し」——整然とした声が、体育の授業や部活動を思い起こさせ、あたかも学校としてまだ使われているかのように錯覚する。

準備を整えて部屋の外に出ると、神谷課長も向かいの自室から出てきたところで、「おはよう」と軽く声を掛けられる。

僕は「おはようございます。昨日はありがとうございました」と感謝を伝えた。


今日の業務は「道路の舗装状況の確認」だ。表向きは単純な確認作業だが、実際には旧秋山町のインフラ復旧の可否を判断するための重要な調査である。

二人で外来駐車場へ向かい、車に乗り込む。僕が運転席、課長は助手席。

分屯地から外に出る。

朝の光がフロントガラスに反射して眩しい。道の両脇には伸びた草が青々と揺れている。

道路をゆっくりと走行し、場合によっては行って戻ってを繰り返す。舗装道路は全体的に良好だった。ところどころひび割れがあり、アスファルトの継ぎ目には草が顔を出しているが、通行には支障がない。

こちらに来る時にも思ったが、分屯地と新川市を結ぶ道路は特に整備が行き届いており、振動を感じさせるようなひび割れはほとんどなかった。そして路肩の雑草も少ない。定期的に整備されているように見受けられる。

昼ご飯については、今日は分屯地でいただくことになっている。体育館が食堂として使われている。本来目的の運動で使用する際には、机椅子を端にどけるそうだ。

席数が限られているので、隊員の休憩時間とは少し時間をずらして昼食をいただく。昨日とは違い、落ち着いて食べることができる。

調理自体は、元々学校にあった給食用の厨房と、自衛隊の炊事車両を併用して使用しているそうだ。

二人で食事をとった後、集合時間までは自由行動することとし、神谷課長は外来宿泊室で少し休憩するとのことだった。

僕はその時間を利用して校舎の裏手に回り、百葉箱が立っていた場所の方に行ってみる。当時から周囲は木や雑草に覆われていたが、その雑草が大きく成長して外側は完全に見えない状態になっている。回り込んでみると、記憶の通りの位置に百葉箱がある。

「あった」

懐かしさに思わず笑みがこぼれる。


そしてまた外来駐車場で神谷課長と集合して、道路の舗装状況の確認作業を再開する。

分屯地を出てしばらく作業を続けていると、どこからか、パンッ、パンッ、パパンッ、という乾いた銃声が断続的に聞こえてくる。

旧秋山町が居住制限区域に指定された後、山の麓の敷地を利用して自衛隊の演習場ができたと聞いた。今日はそこで実弾を使用した訓練をしているのだろう。


走行ルートの終盤、採掘場へと続く道が見えてきた。昨日見た明かりのことを思い出す。

そこに繋がる道路の入口は「落石危険」と書かれた看板で封鎖されている。

にもかかわらず、奥へ続く道は妙に整っている印象を受けた。誰かが頻繁に通っているのではないか——そんな風にも思えた。

思わず口を開いた。

「昨日の夕方、採掘場の建物に明かりが点いているのを見ました。あそこ、まだ使っているんですか?」

神谷課長は前を向いたまま一拍置き、

「自衛隊関連の研究施設だと聞いたことはある」

と短く答えた。それから軽く咳払いをして続ける。「落石危険の看板があるくらいだから、近づかない方がいいだろうな」

言葉の切れ方に不自然さを感じた。まるで、それ以上のことは口にできないと言わんばかりの調子。僕はハンドルを握る手に力が入るのを感じた。確信はない。ただ、何かを「避けている」という感覚だけが残った。

沈黙を破るように、課長が言った。

「ところでさ」

声のトーンは落ち着いているが、どこか探るような響きがあった。

「政治家の先生から圧力をかけられたことはあるか?」

あまりに唐突な質問だった。意図が読めず、思わず横顔を盗み見る。課長の表情はいつもと変わらない。だが、目の奥は鋭く光っていた。

「色々ありましたよ」

僕は慎重に言葉を選ぶ。

「小さなものから大きなものまで。小さいものだと、書類申請を優先して通してくれという程度ですが、大きいものだと南海トラフの時ですね。この地域を優先して復興しろ、とかはきつかったですね。」

「で、便宜を図ったのか?」

「まぁ、そういうものです。納得感のある大義名分を作ってもらえれば、こちらも動きやすいですし」

課長は短く笑った。

「所詮は公僕、宮仕え。従わざるを得ないよな」

その声には、乾いた響きがあった。車内に漂う沈黙が重たく感じられる。

大学時代の同級生は誰もが知るような大企業に入社し、官僚や公務員になったのは自分を含めて数えるほどだった。ネットのニュースで大企業の賞与が一回分だけで自分の年収を上回るという話を見る度、心が折れそうになることもあった。実際、理想と現実の板挟みに疲れて組織を去る人も一定数いた。それでもここまで続けて来たのは「国のため、国民のため」という思い、ただそれだけだった。


午後、全ての走行ルートを確認し終えて、町唯一のガソリンスタンドの跡地に向かう。その途中で助手席の神谷課長が駐屯地に電話を入れる。

旧ガソリンスタンドに着いてしばらくすると、昨日の中隊長が乗っていた四輪駆動車——パジェロ——が近づいて来て、目の前に停まった。

「お疲れ様です」外へ出た課長が声を掛ける。

中隊長はいなかったが隊員の方が二人降りて来て、一人がこちらに声を掛ける。

「作業は終わりましたか」

「おかげ様で無事に終わりました」課長が答える。

もう一人がガソリンスタンドの入口を規制しているチェーンの鍵を外した。

「では中へ車をどうぞ」

僕は車をガソリンスタンドの中に進め、給油レーンに横付けし、車の給油口を開けた。手際よく隊員の方がガソリンを入れてくれる。

ここは分屯地から少し離れてはいるが、分屯地の敷地内に新しく給油所を設けるよりも元々民間のガソリンスタンドとして使っていたところを活用することで費用を抑えている。


給油に来てくれた自衛隊車両と共に分屯地に戻ると、時計の針はちょうど午後五時を指していた。一旦外来宿泊室に戻り、荷物を置いて食堂(体育館)へ向かう。カレーの匂いが漂ってくる。食事開始の五時からはまだ二十分程しか経過していないが、自衛官は食べるスピードが速いので既に空席ができている。

トレーを取り、カレーを受け取る。テーブルに向かい合わせで課長と座る。

食後、神谷課長が立ち上がりながら言った。

「昨日の書類、処分して来る」

その言葉が妙に耳に残った。

旧町役場で持っていた封筒と、古い小屋から持ってきた小さな段ボール箱のことだろう。

わざわざ「処分」と口にする必要があるだろうか。それも、今このタイミングで。昨日自分がいない間に済ませることもできたはずだ。

神谷課長はそれ以上何も言わず、食堂を出て行った。その背中が扉の向こうに消えるまで、僕はその姿を見送った。

——封筒と段ボール箱に入っていた「書類」とは何だったのか。

昼間の会話を思い返しても、どこか核心を避けられている気がする。その割に意味ありげな言動も多い。

穏やかな態度の裏に、何かを隠している。そんな確信だけが、静かに胸の奥に沈殿していった。

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