第8話 アリシアの秘密
宿屋に戻ったマコトとアリシアは、さっそく宿泊費を支払った。
「二人分で銀貨四枚だね。食事もついているから、ゆっくりしていきな。」
女将に銀貨を渡すと、二人はようやく一息つくことができた。
荒れ地を抜けて村にたどり着いたものの、宿代を払えるかどうかさえわからなかったのだ。アリバースの商品を売ることで何とか現地の通貨を手に入れられたが、これから先も同じようにうまくいく保証はない。
それでも、今夜は屋根のある場所で休める。
「まずは食事にしようか。」
マコトがそう言うと、アリシアもうなずいた。
二人は宿にある食堂のテーブルにつき、女将が運んできた料理を待った。
しばらくして、目の前に木製の器が置かれた。中には肉と野菜の入ったスープがあり、隣には大きめのパンが添えられている。
「これが、この世界の夕食か。」
マコトは興味深そうに料理を眺めた。
食事代は一人につき銅貨三枚。宿泊費とは別料金だったが、初めてこの世界の通貨で食事をする機会でもある。
「いただきます。」
スプーンでスープをすくい、口に運ぶ。
「おっ、うまいな。」
思わず声が漏れた。
肉の旨味がしっかりと溶け込んだスープは、見た目よりも味わい深かった。野菜も柔らかく煮込まれていて、パンを浸して食べるとさらにおいしい。
異世界の料理ということで、正直なところ多少の不安はあった。味付けが合わなかったり、食材に癖があったりする可能性も考えていたのだが、そんな心配は必要なかったらしい。
「思っていたより、ずっとおいしいな。」
「ふふ、そうですね。とても美味しいです。」
アリシアもスープを口に運び、穏やかな笑顔を浮かべた。
マコトはパンをちぎりながら考えた。
この世界の食事が普通に口に合うのなら、食生活については何とかなるかもしれない。もちろん、毎日宿屋で食事をするとなれば費用はかさむが、自分で食材を購入したり、調理器具を用意したりすれば、出費を抑えられる可能性もある。
アリバースがあれば、現代の調味料や保存食も手に入る。現地の食材と組み合わせれば、食事の幅も広がるだろう。
「これなら、何とか生活していけそうだな。」
マコトは小さくつぶやいた。
荒れ地で目を覚ましたときには、生き延びられるかどうかさえわからなかった。それを考えれば、温かい食事をとり、安心して眠れる場所を確保できただけでも大きな進歩だった。
食事を終えた二人は、それぞれの部屋へ戻ることになった。
マコトに割り当てられた部屋は、ベッドと小さな机が置かれただけの簡素なものだった。それでも、野営のときとは比べものにならないほど快適だ。
「さて、これからどうするかな。」
マコトはベッドの端に腰を下ろし、今後のことを考え始めた。
まずは、この世界の通貨を稼ぐ方法を見つけなければならない。ガラス瓶を売って銀貨十枚を得られたのは幸運だったが、同じ品物を何度も売り続けられるとは限らない。
それに、アリバースで買い物をするたびに、日本の銀行口座からお金が減っていく。手元にある貯金は約五百万円。決して少ない金額ではないが、収入がなければいつか底をつく。
村で仕事を探すべきか。それとも、アリバースで仕入れた商品を売る商売を始めるべきか。
考えるべきことは多かった。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「はい?」
「マコトさん、少しお話ししてもよろしいでしょうか?」
アリシアの声だった。
「どうぞ。」
扉を開けると、アリシアが少し緊張した面持ちで立っていた。
「どうしたの?」
「少し、お伝えしたいことがあるのです。」
アリシアは部屋に入ると、マコトの向かいに腰を下ろした。そして、しばらく迷うように視線を落としたあと、ゆっくりと口を開いた。
「まずは、これまでのお礼を言わせてください。荒れ地で助けていただいたこと、食べ物や水を分けていただいたこと、そして村まで連れてきてくださったこと。本当にありがとうございました。」
「いや、そんなに改まらなくてもいいよ。俺だって、アリシアさんがいろいろ教えてくれたからここまで来られたんだし。」
マコトは照れくさそうに笑った。
「それでも、感謝しています。もしマコトさんに出会っていなければ、私は今ごろどうなっていたかわかりません。」
アリシアは真剣な表情で頭を下げた。
「それで、今日はもう一つ、お話ししたいことがあるのです。」
「話したいこと?」
「はい。私がなぜ荒れ地にいたのか、ということです。」
マコトは姿勢を正した。
これまで、アリシアが男たちに襲われていた理由については詳しく聞いていなかった。彼女にも話したくない事情があるのだろうと思い、無理に尋ねることは避けていたのだ。
「実は、私は貴族の家に生まれた人間なのです。」
「貴族?」
マコトは思わず聞き返した。
アリシアの立ち居振る舞いには品があり、言葉遣いも丁寧だった。どこか育ちのよさを感じてはいたが、まさか本当に貴族だったとは思っていなかった。
「私の本名は、アリシア・フォン・ティルムッドといいます。」
「アリシア・フォン・ティルムッド。」
と言われてもマコトはその名前の意味がわからない。強いて言うなら、名前に含まれる「フォン」という言葉が、いかにも貴族らしい響きを持っていると思ったくらいだ。
「それで、どうしてあの荒れ地に?」
マコトが尋ねると、アリシアは苦しそうに表情を曇らせた。
「私の家では、後継者を巡る争いが起きています。兄は、自分が家を継ぐことを当然だと考えているようですが、私の存在を邪魔に思っているのでしょう。」
「つまり、兄さんと仲が悪いってこと?」
「単に仲が悪いというだけなら、ここまでのことにはならなかったと思います。」
アリシアは両手を握りしめた。
「私はある日、護衛とともに移動していました。その途中で襲撃を受け、護衛とはぐれてしまったのです。その後、気がついたときには荒れ地の近くにいました。」
「それって……。」
「兄が関わっているのではないかと考えています。私を遠くへ追いやり、帰れないようにするつもりだったのかもしれません。」
アリシアは断言しなかった。
証拠があるわけではない。兄が直接指示したのか、それとも別の人物が動いたのかもわからない。ただ、後継者争いの中で自分が邪魔者として扱われていたことを考えれば、そう疑わずにはいられなかった。
マコトは眉をひそめた。
「自分の妹を、そんな危険な場所に置き去りにするなんて。」
「私も、信じたくはありませんでした。でも、今はそう考えるのが自然だと思っています。」
アリシアは一度目を閉じ、静かに息を吐いた。
「それから、荒れ地でマコトさんに出会ったのです。」
「なるほど。」
マコトはうなずいた。
アリシアが何かを隠していることは感じていた。しかし、まさか貴族の後継者争いに巻き込まれていたとは思わなかった。
「それで、アリシアさんが住んでいた場所って、この村から遠いの?」
「はい、恐らくですがかなり遠いです。私が暮らしていたのは、ここからずっと離れた街です。馬を使っても、簡単に行き来できる距離ではありません。」
「そんなに遠いのか。」
マコトは頭の中で地図を思い描こうとしたが、当然ながらこの世界の地理などわからない。意味のないことだとすぐに考えるのを辞めた。
そこで、ふと気になったことがあった。
「そういえば、最初に荒れ地の話を聞いたとき、アリシアさんはあそこがどこなのか、すぐにはわからなかったよね?」
「はい。荒れ地という場所自体は知っていました。ただ、私がいた場所から遠く離れているので、まさか自分がそこにいるとは思わなかったのです。」
アリシアは少し考えてから続けた。
「荒れ地といっても、似たような場所はあります。それに、私は魔物に襲われることなく、あの場所まで来てしまいました。ですから、最初は本当に噂のあるあの荒れ地なのか、確信が持てなかったのです。」
「それが、モバ村という名前を聞いて確信した?」
「はい。モバ村の名前は、以前に聞いたことがありました。有名な荒れ地の近くにモバという村があると。それがここだとわかったことで私がどこまで連れてこられたのか、ようやく理解できました。」
マコトは納得した。
荒れ地で魔物に遭遇しなかったことも、アリシアがすぐに自分の居場所を判断できなかった理由の一つだったらしい。
しかし、話を聞くほどに、彼女が置かれている状況の厳しさが伝わってきた。
元の街に戻るには長い道のりを進まなければならない。しかも、帰ったところで兄が関わっている可能性のある争いが待っている。
「それで、アリシアさんはこれからどうしたいの?」
マコトが尋ねると、アリシアはまっすぐに彼を見た。
「元の街に戻りたいです。家のことも、兄のことも、まだ何もわかっていません。何より、私は自分の身に何が起きたのかを確かめたいのです。」
「でも、帰るためのお金がないんだよね。」
「はい。今の私には、旅を続けるための資金がありません。」
アリシアは一度視線を落としたあと、決意したように顔を上げた。
「そこで、お願いがあります。マコトさん、私が元の街に戻るために、お金を稼ぐ手助けをしていただけないでしょうか?」
突然の申し出に、マコトはすぐに返事ができなかった。
彼女の事情には同情する。荒れ地で命を助けた相手を見捨てたいとも思わない。しかし、貴族の後継者争いに関わるとなれば、危険が伴う可能性もある。
そもそも、マコト自身もこの世界に来たばかりだ。自分がどうやって生活していくかさえ、まだ決まっていない。
「正直、俺もこれからどうするか決めていないんだ。」
マコトは率直に答えた。
「この世界のお金はほとんど持っていない。今日だって、ガラス瓶を売ってようやく宿代を払えたくらいだ。」
「それでも、マコトさんには不思議な品物がたくさんあります。あのような品物を扱えるのなら、何か方法があるのではないかと思ったのです。」
アリシアは期待を込めた目を向けた。
マコトは少し困ったように頭をかいた。
確かに、アリバースは大きな武器になる。日本で安く購入できるものが、この世界では価値のある品物になる可能性もある。しかし、何を売ればいいのか、どれくらいの価格が適切なのか、まだ手探りの状態だ。
それに、銀行口座の残高にも限りがある。無計画に商品を買い続ければ、いずれ資金が尽きてしまう。
「簡単にはいかないと思うよ。それでもいい?」
「もちろんです。私もできる限り協力します。何もせずに助けを待つつもりはありません。」
アリシアの声には、強い意志がこもっていた。
マコトは彼女の表情を見つめた。
荒れ地で出会ったとき、アリシアは疲れ切っていた。男たちに襲われ、何もかも失った状態だった。それでも、ここまで歩き続け、村にたどり着いてからも、自分の置かれた状況を冷静に考えようとしている。
彼女がすべてを正直に話しているのか、マコトにはわからない。貴族の事情など、知識も経験もない。
それでも、今までの彼女の行動を見ている限り、信じてみる価値はあると思った。
「わかった。一緒に考えよう。」
「本当ですか?」
アリシアの表情が明るくなった。
「ただし、条件がある。」
マコトは指を一本立てた。
「無理はしないこと。危険なことに首を突っ込むときは、必ず相談すること。それと、俺もわからないことが多いからいろいろ教えてほしい。」
「はい。もちろんです。」
「よし。じゃあ、まずは二人で稼ぐ方法を考えよう。」
マコトはそう言って笑った。アリシアも、ようやく安心したように微笑んだ。
「私のことはアリシアと呼んでください。あなたのこともマコトと呼びます。」
「わかったよアリシア。」
「はい。マコト。」
しかし、話がまとまったからといって、問題が解決したわけではない。
二人には、元の街へ戻るための資金が必要だ。マコト自身も生活費を稼がなければならない。アリバースという便利な能力はあるが、何でも解決できる魔法の道具ではない。
「まずは、明日から仕事を探してみるか。それと、売れそうな商品も調べてみよう。」
「私も、村の方々に話を聞いてみます。何か役に立てることがあるかもしれません。」
「ああ。頼りにしてるよ、アリシア。」
こうして二人は、これから先も行動をともにすることになった。
荒れ地を抜け、ようやくたどり着いたモバ村。ここを拠点に、マコトは異世界で生きていくための第一歩を踏み出す。
そしてアリシアもまた、失ったものを取り戻すために動き始める。
二人の手元にある資金は、まだ心もとない。
それでも、協力者が一人増えたことは、マコトにとって大きな意味を持っていた。




