第7話「第40階層」
第50階層を越えてから、歩く速度が上がった。
道が分かりやすくなったこともある。採掘に使われている通路には印があり、上層へ続く道を探す時間がほとんどいらない。
だが、それだけではない。
「……減ったな」
魔物が減った。正確には、見つけても逃げるのが簡単になった。
第48階層で見かけた獣型の魔物は、足音で接近に気づいた。第46階層の大型甲虫は、岩陰から様子を見て通り過ぎるのを待った。第44階層では2匹の魔物が争っていたので、遠回りした。
それだけだ。
第100階層では、姿を見る前から逃げなければ死んだ。物音1つで進路を変え、臭いが残っているだけで引き返した。それに比べれば、ここはずいぶん歩きやすい。
「第40階層台なんだけどな」
少し前の俺なら、絶対にそんなことは言わなかった。
◇
第43階層で、見覚えのある魔物を見つけた。
「……岩爪狼か」
灰色の毛皮。前脚だけが異様に太く、爪の表面を石のような殻が覆っている。
第30階層付近にも出る魔物だ。ただし、目の前にいる個体は大きい。俺が知っているものより一回り以上ある。
岩爪狼は鼻が利く。風向きを確認する。
「こっちが風上か」
俺はすぐに下がった。戦う理由はない。岩陰を回り込み、別の通路へ移る。
それで終わった。
「……なんだ」
自分でも拍子抜けした。
以前なら、岩爪狼を見つけた時点で緊張していた。仲間がいても、できれば避けたい相手だった。今は、どちらへ逃げれば見つからないかを考えただけだ。
怖くないわけではない。
ただ、何をすればいいか分かる。
それだけで、ずいぶん違った。
◇
第42階層で、階段へ続く道が塞がれていた。巨大な魔物の死骸が通路の真ん中に転がっている。
「またか」
第100階層から何度も見た光景だ。
近づかない。まず周囲を見る。
血は乾いている。臭いは強いが、新しくはない。食い荒らされた跡がある。
俺は壁際を確認した。
足跡。
大きい。
「まだいるな」
引き返した。別の道を探す。
第30階層にいたころなら、死骸を見つけたら素材を確認していたかもしれない。高く売れる部位が残っていないか、少しくらい近づいたはずだ。
今はやらない。
死骸があるなら、それを殺したものか、食いに来たものがいる。先に考えるのはそちらだ。
「……成長したな、俺」
嬉しいような、あまり嬉しくないような成長だった。
◇
第41階層。
上へ続く階段を探している途中で、人の声が聞こえた気がした。
「ん?」
止まって耳を澄ませる。
何も聞こえない。
「気のせいか」
人間の痕跡は増えている。だが、まだ誰とも会っていない。採掘班が常にいるわけではないのだろう。
少し残念だった。
誰でもいい。そろそろ、生きている人間と話したい。
「あと10階だ」
第30階層まで戻れば、少なくとも誰かいる。ロイドたちがまだ探してくれているかもしれない。
いや。
「何日経った?」
途中から数えるのをやめていた。俺が消えてから、かなり経っている。さすがに第30階層で待ち続けてはいないだろう。
「帰ったら怒られるな」
誰に何を言われるのか想像して、少し笑った。
そのとき、前方から音がした。
硬いものが岩を叩く音。
一度。
二度。
規則的に近づいてくる。
俺はすぐに壁際へ寄った。
◇
現れた魔物を見て、息が止まった。
「……こいつ」
黒い甲殻。6本の脚。頭部から伸びる太い角。
第100階層で最初に遭遇した魔物と似ていた。
もちろん、同じものではない。大きさが違う。
第100階層で見たやつは、通路を埋めるほど巨大だった。目の前の個体は、その半分もない。それでも十分に大きく、俺の胸ほどの高さがある。
「似てるだけか」
同じ種類なのかもしれない。深い階層ほど巨大になるのか。そんなことは分からない。
ただ、嫌な記憶が戻った。
第100階層。
剣を関節へ叩き込んだ。
弾かれた。
逃げた。
岩の裂け目へ飛び込んで、ぎりぎり助かった。
あのときは勝てるなんて一瞬も思わなかった。
目の前の魔物がこちらを向いた。
「……まずい」
角が下がる。突進の構え。
逃げる。
そう思って、足を引いた。
魔物が動いた。
「…………」
見えた。
前脚が沈む。角がわずかに左へ傾く。体重が前へ移る。
来る。
俺は横へ動いた。
次の瞬間、魔物が突進した。横を通り過ぎる。
「……え?」
振り返る。魔物も向きを変えている。
もう一度、こちらへ角を向けた。前脚が沈む。体重が前へ移る。
「…………遅い」
口から勝手に出た。
◇
魔物が突っ込んでくる。俺は直前まで動かず、右へ避けた。角が横を通る。
近い。
だが、怖くない。
第100階層のやつは違った。速さも、重さも、何もかも違った。
あれから逃げた。第90階層でも逃げた。第80階層でも、第70階層でも、勝てない魔物を何度も見た。
相手が動く前に見る。足、目、重心。逃げる方向を先に決める。
そうしなければ死んだから、ずっとやってきた。
目の前の魔物が、また向きを変える。
「分かるぞ」
次に何をするのか。
魔物が前脚を上げた。突進ではない。
横から薙ぐ。
俺は一歩下がった。爪が目の前を通り過ぎる。
そのまま踏み込み、剣を振った。
狙うのは甲殻ではない。
脚の付け根。
刃が入った。
魔物が大きく揺れる。
「入るのか」
第100階層では弾かれた。
今度は違う。
魔物が暴れたので、すぐに距離を取る。追わない。
傷ついた脚をかばっている。動きが変わった。
「次」
今度は左へ回る。魔物がこちらを追うが、傷ついた脚が遅れる。
角を向ける。前脚が沈む。
突進。
横へ避ける。
すれ違う瞬間、首と甲殻の境目が見えた。
剣を突き込む。
硬い。
だが、通った。
魔物は数歩進み、そのまま崩れた。
俺はすぐには近づかなかった。待つ。
脚が動かない。
さらに待つ。
「……死んだか?」
石を投げる。反応しない。
ようやく近づき、剣先で触れた。
動かない。
「倒した?」
自分で言って、変な感じがした。
倒した。
俺が。
仲間もいない。
罠もない。
別の魔物が弱らせたわけでもない。
俺が倒した。
「…………」
魔物を見る。
第100階層で遭遇したものより、ずっと小さい。弱い。それは分かっている。
俺が突然、とんでもなく強くなったわけではない。
それでも。
「勝ったな」
笑った。
◇
素材を取るか迷った。
甲殻。角。爪。どれも売れるはずだ。
「……重いんだよな」
背負い袋を見る。第100階層から持ってきた魔晶石。途中で拾った素材。すでに十分重い。
目の前の魔物は第40階層台。
俺の荷物には、第100階層のものが入っている。
「いらないか」
数秒歩いた。
止まった。
振り返った。
「いや、角くらいなら」
戻った。角の先端だけ切り取る。
「これくらいだ。これ以上は拾わない」
何度目か分からない言葉を口にして、背負い袋へ入れた。
少し重くなった。
◇
第40階層へ上がった。
階層計を見る。
《40》
「あと10階」
第30階層まで。
最初は70階あった。
それが10階になった。
俺は壁際へ座り、水を飲んだ。
第100階層で最初の魔物から逃げたとき、地上へ戻れるとは思っていなかった。
第90階層で人間の文字を見つけた。
第80階層で、その人間に名前がついた。
第70階層で、ディーンが帰ったと知った。
第60階層で、人間が今も深層へ来ていると知った。
第50階層で、自分が事故ではなく意図的に飛ばされたと気づいた。
そして第40階層。
魔物を倒した。
「強くなったのか?」
自分の手を見る。
腕が太くなったわけではない。剣も同じ。新しい魔法を覚えたわけでもない。
ただ、分かるようになった。
危ない場所。
逃げるべき相手。
戦える相手。
攻撃が来る瞬間。
生き残るために、ずっと見てきた。
「まあ、いいか」
強くなったかどうかなんて、どうでもいい。帰れればいい。
そして、第30階層へ戻れば確かめることがある。
ディーン・バルガス。
ハルヴェイン商会。
あの監督役。
「あと10階」
俺は立ち上がった。
もう、第40階層は怖くなかった。




