第6話「第50階層」
第60階層を出てから、人間の痕跡は途切れなくなった。
すべての通路が整備されているわけではない。それでも、魔晶石を掘った跡、岩壁に刻まれた区画番号、野営に使われた岩陰が何度も見つかる。
第58階層では、採掘を終えた壁に大きな印が刻まれていた。
『採掘終了』
「はいはい」
もう驚かない。
第57階層では分岐に矢印があった。
『56 上』
「助かる」
素直に従った。第100階層から第70階層まで、上へ続く道を探すだけで何日も使ったことがある。それを考えれば、矢印1つでもありがたい。
「人間って便利だな」
つい数日前まで、人間の痕跡を1つ見つけるだけで喜んでいた。今では道案内に使っている。
◇
第55階層で、俺は足を止めた。
岩壁に文字がある。
『搬出路 上層方面』
「搬出路……」
矢印は俺が進もうとしていた方向を示している。採った素材を運ぶための道。つまり、この先は確実に上へつながっている。
俺はしばらく矢印を見た。
「帰れるな」
もう願望ではない。
第70階層まで人間が来ている。第60階層では大人数が採掘している。そして第55階層には、上層へ素材を運ぶ道がある。この道を逆にたどればいい。
第100階層で目を覚ましたときには、地上がどちらにあるのかすら分からなかった。
今は違う。人間が使っている道がある。
「よし」
俺は歩き出した。
帰れる。
なら、次に考えるべきことがある。
帰った後のことだ。
◇
歩きながら、第30階層で起きたことを思い出した。
ロイド、ミナ、ガレス。いつもの3人。
そこに、あの日だけもう1人いた。
ハルヴェイン商会から派遣された監督役。
王都にも支店を持つ大商会だ。武器、防具、魔道具、鉱石。冒険者をやっていれば、名前を聞かずに暮らす方が難しい。
依頼は、第30階層で見つかった古代遺跡の調査だった。俺たちの仕事は護衛と周辺の安全確認。遺跡そのものについては、商会側でも調べると聞かされていた。
「……ハルヴェイン商会か」
今さら、その名前が引っかかった。
遺跡の調査を商会が依頼すること自体は珍しくない。価値のある遺物が見つかれば金になる。だから、あの日は何も疑わなかった。
だが、第60階層で見たものを知った今では話が違う。
深層では、大人数が素材を採掘している。採ったものを上へ運んでいる。当然、どこかで金が動いている。
そして俺を第30階層の遺跡へ連れていったのは、ハルヴェイン商会だった。
「偶然……だよな」
そう口にしたところで、あの日の光景が頭に浮かんだ。
◇
第30階層。
俺たちが案内されたのは、普段使う通路から外れた小部屋だった。床には古い魔法陣があり、壁にも読めない文字や図形が刻まれていた。
『これが今回の調査対象です』
監督役はそう言った。
魔物が潜んでいないことを確認した後、自然に役割が分かれた。ロイドは入口付近で周囲を警戒し、ミナは壁面の文字を調べる。ガレスは奥にあった石像のような遺物を見ていた。
俺は魔法陣を調べた。
床へしゃがみ込み、積もった砂を手で払う。
『これ、文字じゃないか?』
円の中央近くに、小さな刻印が並んでいた。
『読める?』
ミナが壁際から聞いた。
『いや。ちょっと待ってくれ』
さらに砂を払った。
そのとき、部屋の反対側では監督役が壁を調べていた。石板のようなものが埋め込まれていたはずだ。
あいつが、それに触れた。
床が光った。
ロイドが叫んだ。
ミナが俺へ手を伸ばした。
ガレスが剣を抜いた。
俺は何が起きたのか分からなかった。
そして。
監督役だけは。
俺を見ていた。
◇
「……待てよ」
俺は足を止めた。
記憶なんて曖昧だ。突然の出来事だった。後から都合よく作り替えている可能性だってある。
だが、引っかかる。
ロイドは明らかに驚いていた。ミナは俺を助けようとした。ガレスは何かに襲われたと思って剣を抜いた。
監督役は?
「何してた?」
俺を見ていた。
それだけだった。
驚いていたか。
分からない。
叫んだか。
覚えていない。
少なくとも、俺を助けようとはしていなかった。
「いや、待て」
まだ決めつけるな。
古代遺跡だ。監督役自身も知らずに壁の何かを作動させた可能性はある。
事故だった。
そう考えることはできる。
だが、第70階層まで人間が来ている。第60階層では組織的な採掘が行われている。そしてディーンは5年前、第30階層で消息を絶った。
俺も第30階層の古代魔法陣から、深層へ飛ばされた。
「同じじゃないか」
俺は立ち止まったまま考えた。
ディーンの転移先が第100階層だったという直接の証拠はない。だが、第100階層には人間が武器を使った痕跡があった。第90階層にはディーンの文字があり、第80階層には冒険者証、第70階層には5年前の野営跡があった。
全部つながっている。
「ディーンも、あそこから飛ばされた?」
そう考えれば筋が通る。
5年前、第30階層でディーンが消えた。
第100階層から上ってきた。
生還した。
その後、深層で組織的な採掘が始まった。
そして今回、俺が第30階層の魔法陣から飛ばされた。
「…………」
偶然。
その一言で片づけるには、少し多すぎる。
◇
第52階層で野営した。
火を起こし、保存食をかじりながら、もう一度あの日のことを考える。
俺が魔法陣の上にいたこと自体はおかしくない。調査対象なのだから、誰かが調べる。たまたま俺だった。
監督役が壁際にいたこともおかしくない。壁面も調査対象だった。
問題は、その次だ。
監督役が壁の石板に触れた。
魔法陣が起動した。
そして俺が消えた。
「……あいつ、驚いてなかったよな」
今度はかなりはっきり思い出せた。
あの顔。
驚きではない。
俺が消えるのを見ていた。
確認していた。
そんな顔だった。
「でも、なんで俺だ?」
そこが分からない。
俺は特別な冒険者ではない。第30階層へ行ける程度には経験があるが、それだけだ。有名でもないし、特別な能力もない。
狙われる理由がない。
しばらく考えて、別の可能性に気づいた。
「俺じゃなくてもよかった?」
あの場で魔法陣を調べた人間。それが俺だった。
もしロイドが調べていれば、ロイドだった。
ミナならミナ。
ガレスならガレス。
監督役が必要としていたのは、俺ではない。
魔法陣の上にいる冒険者。
「……最悪だな」
その方が、ずっと納得できた。
俺には狙われる理由がない。
だからこそ、俺である必要がなかった。
誰か1人。
深層へ送る人間がいればよかった。
何のために。
そこまでは分からない。
だが、深層へ人間を送って、何が起きるか確かめようとしたのだとしたら。
「実験かよ」
保存食を持つ手が止まった。
さすがに、それ以上は考えたくなかった。
◇
第50階層へ入った。
《50》
「半分」
第100階層から50階上った。第30階層までは、あと20階。
この階層にも採掘跡があった。採掘区画を示す印がいくつもあり、人間が繰り返し出入りしていることが分かる。
岩壁には記録が残っていた。
『第五班 上層へ帰還』
「帰還」
その2文字を見て、俺は笑った。
「俺も混ぜてくれ」
矢印は上を示している。
俺は従った。
歩きながら、もう一度考える。
ハルヴェイン商会。
あの日の依頼主。
監督役。
壁の石板。
そして、魔法陣が光った瞬間。
ロイドは叫んだ。
ミナは俺へ手を伸ばした。
ガレスは剣を抜いた。
あいつだけは、俺を見ていた。
「……知ってたのか」
あの魔法陣で何かが起きることを。
ハルヴェイン商会そのものが何を知っているのかは分からない。
監督役が誰の命令で動いたのかも分からない。
そもそも、俺をどこへ送るつもりだったのかすら分からない。
だが、1つだけ。
もう、事故だったとは思えなかった。
「俺は事故で飛ばされたんじゃない」
第100階層で目を覚ました。
巨大な魔物から逃げた。
食えるものを探した。
何日も出口を探した。
死ぬと思った。
全部。
誰かが始めたことだった。
「意図的に飛ばされたんだ」
腹の底が熱くなる。
だが、剣を抜く相手はここにはいない。怒鳴っても何も変わらない。
だから帰る。
生きて帰る。
そして聞く。
「待ってろよ」
第30階層まで、あと20階。
帰る理由が1つ増えた。




