第4話「第70階層」
第79階層から先も、やることは変わらなかった。
魔物を避ける。水と食料を探す。上へ続く道を探す。そして、ディーンの痕跡を探す。
第76階層では見つからなかった。第74階層にもなかった。
「毎回残してるわけじゃないよな」
当たり前だ。あいつだって、生きて帰るために必死だったはずだ。後から来る俺のために旅をしていたわけじゃない。それでも、気づけば探している。
第72階層で古い布切れを見つけたときは、しばらく調べた。人間が加工した布だったが、ディーンのものかは分からなかった。
「まあ、生きてたならそれでいいか」
俺は布を元の場所へ戻した。自分で言ってから、少しおかしくなった。
生きていた。過去形だ。
ディーン・バルガスが今どうしているのか、俺は知らない。
◇
第70階層へ入った。
《70》
「30階」
第100階層から30階上った。第30階層までは、あと40階。まだ遠い。だが、最初よりはずっと近い。
第70階層は岩だらけだった。これまでの階層より高低差が激しく、細い道が何本も上下に入り組んでいる。
半日ほど進んだところで、俺は足を止めた。
「……なんだ、これ」
道がない。正確には、道が途中で消えている。
俺の前には巨大な亀裂があった。底は見えない。左右を見ても、どこまで続いているのか分からない。第70階層そのものを、巨大な亀裂が真っ二つに割っていた。
「いやいやいや」
俺は縁から数歩下がった。小石を拾って落とす。
待つ。
音がしない。
「……深すぎるだろ」
向こう側は見える。場所によって幅は違うが、簡単に飛び越えられる距離ではない。しかも、向こうには洞窟が続いている。
上へ行くなら、どう考えてもあちら側だ。
「勘弁してくれよ」
まず右へ向かった。2時間ほど歩いても亀裂は続いていた。戻って、今度は左へ向かう。同じだった。
その日は、渡れる場所を見つけられなかった。
◇
2日目。
亀裂沿いをさらに調べた。幅が狭くなっている場所はいくつかあったが、それでも跳べるほどではない。
下へ降りることも考えた。縁から覗く。
「無理だな」
即座に却下した。底すら見えない場所へ、長さの足りない縄で降りるほど死に急いではいない。
そのまま亀裂沿いを歩き続ける。昼を過ぎたころ、岩陰に黒い跡を見つけた。
「……焚き火?」
近づく。古い。第80階層で見つけた野営跡と同じくらい古い。
周囲を調べると、岩壁に文字が残っていた。
『ディーン・バルガス』
「いた」
思わず笑った。
「やっぱり、お前もここまで来たか」
名前の下にも文字がある。ところどころ削れていたが、まだ読めた。
『向こうへ行く』
「…………」
俺は亀裂を見る。向こう側は遠い。
「簡単に書くなよ」
文句を言った。だが、嬉しかった。
第80階層から10階。ディーンはここまで来た。そして、向こうへ行こうとした。成功したかどうかは分からない。
それでも俺は、岩壁の文字を何度か読み返した。
『向こうへ行く』
「俺もだよ」
亀裂へ向き直った。
◇
3日目も渡れる場所を探した。4日目にはさらに範囲を広げ、5日目の午後、ようやく可能性のありそうな場所を見つけた。
亀裂の途中へ向かって、細い岩棚が伸びている。その先には斜め上へ突き出した巨大な岩柱があり、岩柱の先端と反対側の崖との距離はかなり短い。
一直線には渡れない。岩棚を進み、岩柱へ移り、そこを登る。最後だけ跳ぶ。
「……これか」
安全とは言えない。だが、他に見つからなかった。
俺は背負い袋を下ろして中身を確認した。食料、水、道具。それに第100階層から拾ってきた魔晶石や鉱石、魔物の牙。
「重いな」
魔晶石を1つ取り出す。捨てれば楽になる。
しばらく考えた。
「……まだいける」
戻した。代わりに、もう使わない道具と傷んだ装備をいくつか捨てた。これなら動ける。
背負い袋をきつく固定し、岩棚へ足を乗せる。右側は岩壁。左側は底の見えない亀裂だ。
「見るな」
下は見ない。一歩ずつ進む。途中で小石が落ちたが、音は返ってこなかった。
「聞かなかったことにしよう」
岩棚の先へ着く。次は岩柱だ。
両手を使って登る。足をかける場所を確かめ、体を引き上げる。急ぐ必要はない。少しずつ高度が上がり、やがて岩柱の上へ出た。
反対側まで、あと2メートルほど。
「最後だけか」
普段なら跳べる。問題は、落ちたら終わることだ。助走を取れる距離も短い。
俺は背負い袋の紐をもう一度確認した。息を整え、向こう側だけを見る。
「よし」
走った。跳ぶ。
右足が岩へ届いた。左足も着く。勢いを殺せず、そのまま前へ転がった。
「っ……!」
肩を打った。痛い。
だが。
「……渡った」
仰向けになったまま亀裂の上を見る。天井しか見えない。
「渡ったぞ、ディーン」
笑いが出た。返事はない。いつも通りだ。
◇
しばらく休んでから、体を起こした。
亀裂の向こう側。さっきまでいた場所と、大して景色は変わらない。
だが、数分歩いただけで最初の違和感を見つけた。
「杭?」
岩壁に鉄製の杭が打ち込まれている。古いものではない。その先には、足場を削った跡もある。人間が歩きやすいように岩の出っ張りを落としていた。
「……なんだ?」
さらに進むと、野営跡があった。1つではない。
石組みの炉が3つ。座るために運んできたらしい平らな石。壁際には薪まで積まれている。
「…………」
第80階層とは違う。あれは、1人の人間が必死に生き延びた跡だった。
これは違う。
人間がここを使っている。何度も。
俺は炉の1つへ近づいた。灰は残っているが、第80階層で見たものとは比べものにならないほど新しい。
岩壁にも文字がある。
『第7次調査』
その下に、何人かの名前が並んでいた。3人、4人と目で追っていく。
そして。
『ディーン・バルガス』
「……いた」
指で名前に触れる。間違いない。
だが、第80階層とは違う。あそこで見つけた冒険者証は、土に埋まり、革紐まで腐っていた。この文字は新しい。
しかも『第7次調査』。
「7回……?」
少なくとも、1回ではない。
周囲を見る。複数の炉。積まれた薪。整備された足場。何人もの名前。そして、新しいディーンの名前。
俺は亀裂を振り返った。
向こう側に、5年前のディーンがいる。
『向こうへ行く』
あいつは渡った。俺と同じように。
そして。
「帰ったのか」
ようやく分かった。
ディーンは帰った。第100階層から、第70階層の亀裂を越えて、地上へ。
それだけじゃない。
帰った後、またここまで来ている。今度は1人ではない。
「……なんなんだよ。お前、何やってるんだよ」
第100階層で剣を折った男。第90階層で『まだ生きている』と書いた男。第80階層で冒険者証を落とした男。
俺はずっと、死んだ人間の跡を追っているのかもしれないと思っていた。
違った。
ディーンは帰った。
俺は岩壁に刻まれた名前を見る。
「帰れるんだな」
今まで何度も考えた。帰れるかもしれない。道はあるかもしれない。ディーンも上まで行ったかもしれない。
全部、可能性だった。
今は違う。
「俺も帰れる」
初めて、そう言い切れた。
そして、もう1つ。
人類の最深到達地点は第30階層。俺はそう教えられてきた。冒険者なら誰でも知っている。
だが、ここは第70階層だ。
何人もの人間が来ている。何度も。
「どういうことだ?」
答えはない。だが、今までとは違う。答えを知っている人間がいる。
ディーンは生きて帰った。そして誰かと一緒に、ここへ戻ってきた。
俺は歩き出した。階層計はまだ《70》を示している。
それでも、地上までの距離が一気に縮まった気がした。




