第3話「第80階層」
第89階層を出てから、俺は少しだけ変わった。
相変わらず魔物からは逃げる。危険そうな場所には近づかない。食べられるものを探し、水を確保し、上へ続く道を探す。
だが、それとは別に探すものが増えた。
「今日は何もなしか」
第87階層。人間の痕跡はなかった。第85階層にもなかった。
第83階層では、岩壁に人工的な傷を見つけて駆け寄った。近くで見れば、ただ魔物が爪を立てた跡だった。
「紛らわしいんだよ」
誰に文句を言っているのか分からない。
第90階層で見つけた『13日目。まだ生きている』という文字。それから、俺は先行者の痕跡を探すようになっていた。
役に立つからではない。あの男が何かを残したところで、俺が同じ道を通るとは限らない。何年も経っていれば、魔物の縄張りも地形も変わっている。
ただ、見つけたい。
それだけだった。
◇
第82階層で、初めて魔物の素材を拾った。
倒したわけじゃない。
巨大な鳥のような魔物が、別の魔物の死骸を食っていた。俺は遠くから隠れて見ていた。
食事を終えた魔物が飛び去ってから、しばらく待つ。戻ってこないことを確認して、死骸へ近づいた。
「……これ、持って帰ったらいくらになるんだ?」
残っていたのは硬い外皮と、何本かの牙だった。外皮は切れない。諦める。
牙を1本だけ拾った。
いや。
2本。
「これくらいだ」
第100階層で同じことを言った気がする。
背負い袋は少しずつ重くなっていた。第100階層の魔晶石。途中で見つけた、明らかに第30階層産より質のいい鉱石。そして今度は魔物の牙。
「これ以上は拾わない」
言ってから、自分でも信用できないと思った。
帰ることが最優先だ。分かっている。だが、帰れたときに金になるものを全部捨てていくのも違う。
命より金が大事なわけじゃない。
生きて帰った後には、生活がある。
「まあ、重くなったら捨てればいい」
そういうことにした。
◇
第80階層へ入ったのは、第90階層を出てから6日後だった。
《80》
「あと50階」
第30階層まで。
地上までは79階だが、まずは第30階層へ戻りたい。そこまで行けば人がいる。仲間がいる。冒険者ギルドがある。
俺の知っている世界がある。
「まだ半分以上あるけどな」
第100階層から見れば20階上った。そう考えることにした。
第80階層は広かった。天井は高く、巨大な地下空洞の中に岩山がいくつも並んでいる。
俺はその一つを回り込んだところで足を止めた。
「……おい」
見覚えがある。
石を円形に並べた焚き火跡。
古い。
完全に冷え切っている。
それでも俺には、もう分かった。
「いたな」
笑ってしまった。
「お前、ここにも来たな」
第90階層以来だ。
焚き火跡の周囲を探す。割れた水筒の蓋。布切れ。骨を削って作った針。
そして、岩壁に文字があった。
『第80階層』
「それは知ってる」
階層計を見れば分かる。
その下に続きがある。
『ここまで来た』
俺は黙った。
たったそれだけ。
第90階層の『13日目。まだ生きている』と大して変わらない。
何を食べたのかも書いていない。どんな魔物がいるのかも書いていない。上への道がどこにあるのかも書いていない。
何の役にも立たない。
「……そうか」
俺は文字を撫でた。
「ここまで来たか」
第100階層。
第90階層。
第80階層。
同じ人間だという証拠は、まだない。それでも俺は、もう同じ人間だと思っていた。
あいつは上っている。
俺よりずっと前に。
俺と同じように、1階ずつ。
◇
その日の野営地は、あいつと同じ場所にした。
別に意味はない。風を防げる。焚き火も外から見えにくい。野営地として悪くなかった。
火を起こし、茸を焼く。
「今日も茸だ」
岩壁へ話しかける。
「魚が食いたい」
返事はない。
「肉でもいい」
当然、返事はない。
「お前、何食ってたんだ?」
俺は茸をかじった。
「……まずいぞ、これ」
やっていることは、第90階層と変わらない。だが、不思議と落ち着いた。
誰もいない。それでも、ここで誰かが火を焚いた。同じ壁を見た。同じように腹を空かせたかもしれない。
そんなことを考えているうちに、俺は焚き火の横で眠った。
◇
翌朝。
火を消し、出発の準備をする。最後に焚き火跡へ土をかぶせていると、指先に何かが引っかかった。
「ん?」
土の中から、腐りかけた革紐が出ている。
引っ張ると途中で切れ、その先から小さな金属板が転がり出した。
「……これ」
拾い上げる。
泥と錆に覆われている。穴の開いた長方形の金属板には、切れた革紐の一部がまだ残っていた。
見覚えがある。
「冒険者証……?」
今使われているものより古い型だ。表面は傷だらけで、文字もかなり潰れている。
俺は袖で何度も擦った。
名前が出てくる。
『ディーン・バルガス』
「ディーン……バルガス?」
どこかで聞いたことがある。
裏返すと、冒険者ギルドの刻印と等級を示す印が残っていた。
「上級冒険者……」
俺より上だ。それなら、第100階層からここまで生き延びたことにも納得できる。
だが、それだけじゃない。
ディーン・バルガス。
どこで聞いた。
酒場か。ギルドか。昔組んだ冒険者からか。
そして思い出した。
「……第30階層」
何年か前、第30階層で冒険者が1人、消息を絶った。
当時は少し話題になった。第30階層は危険だ。死者も出る。行方不明者だって珍しくない。
だが、その男は上級冒険者だった。しかも、死体も装備も見つからなかった。
俺自身、詳しく知っていたわけじゃない。噂を聞いた程度だ。名前まで覚えていなかった。
だが。
「ディーン・バルガス……」
確か、そんな名前だった。
俺は冒険者証を見る。
嫌なものが背中を走った。
第30階層で消えた男。
その冒険者証が、第80階層にある。
「待てよ」
俺も第30階層にいた。
古い遺構を調査していた。魔法陣が光った。そして第100階層へ飛ばされた。
「お前も……?」
ディーンも第30階層から消えた。
もし、同じだったとしたら。
偶然、第100階層へ迷い込んだ人間ではない。
第30階層から。
第100階層へ。
俺と同じように飛ばされた。
「…………」
冒険者証を握る。
ただの遭難だと思っていた。ダンジョンのどこかに、そういう転移罠があるのだと思っていた。
だが、5年ほど前にも同じことが起きていたのなら。
「なんなんだ、あの遺構」
第30階層。古い魔法陣。消えた上級冒険者。そして俺。
偶然という言葉で片づけるには、少し出来すぎている。
答えはまだない。
ディーンがどうなったのかも分からない。
だが、初めて分かったことがある。
俺は冒険者証を見た。
「ディーン」
名前を呼ぶ。
今までずっと「あいつ」だった。
名前も知らない、昔ここにいた誰か。
それが今、ディーン・バルガスになった。
「俺も第80階層まで来たぞ」
返事はない。
いつも通りだ。
それでも、少しだけ違った。
「次は第70階層だ」
冒険者証を背負い袋へ入れる。
「先に行ってるぞ、ディーン」
俺は歩き出した。
もう、知らない誰かの跡を追っている気はしなかった。




