第99話「先触れ」
指の先の冷たさが、日を追うごとにはっきりしてきた。
塔で氷の学生と別れてから、幾日か。朝の実習で浅い層に下りるたび、僕は足の裏で床の下の気配をうかがう癖がついた。何か大きなものが、深いところで少しずつ寝返りを打っている。獣の気の立ち方がいつもと違う。数が増えたわけではない。だが、上のほうまで迷い上がってくる一匹一匹の目に下から押し出された者の慌てが混じっている。
冒険者のころ、僕はこの目を知っている。氾濫の前の獣の目だ。
黙っていられなくなった。
研究院の帰り、僕は思いきってモスに切り出した。
「塔の、下の層のことなんですが」
インクの染みた手が止まった。モスは老眼の目を上げて、僕を見た。
「近ごろ、深いところの魔物が浅いほうへ上がってきています。数ではなく、質が。……前に、こういう気配のあといっぺんに溢れたのを見たことがあって」
言いながら、僕は自分の言葉の細さに気づいていた。前に見た、とはどこで。誰の下で。何級の冒険者として。そのどれも、この学舎では言えない。灰の村の朝を生き延びた体が覚えている、とはなおのこと言えない。
モスはしばらく僕を眺めて、それからふ、と息を吐いた。
「実習の塔は、教官どもが毎朝見ている。異変があれば、とうに触れが出る」インクの手が、また写しへ戻った。「お前は編入したばかりだ。……悪いことは言わん。妙な触れ回りはしないほうがいい。下働き上がりがいらぬ口を利く、と言われるだけだぞ」
棘のある言い方ではなかった。むしろ案じる声だった。だからこそ、こたえた。
念のため、実技の教官にも言ってみた。
結果は、もっとそっけなかった。
「あの塔の下層は季節でざわつく。もとからだ」教官は帳面から目も上げなかった。「B級の札を持っているそうだな。冒険者の勘か。……ここは迷宮じゃない。学舎の実習場だ。規定どおり下りて規定どおり上がる。それだけでいい」
言い返す言葉を、僕は持たなかった。彼らの言うことは、たぶん正しい。正しいのだ。この塔で、氾濫らしい氾濫など何十年も起きていないのだろう。僕の指の冷たさは、証にならない。
ただ、冒険者のころ、この手のざわめきを軽く見た街を僕は一つ知っている。大丈夫だ、気の迷いだと皆が言った。そして、ある朝、下から獣が溢れた。前触れをいくつも踏み潰して。
いっそ一人で下りて確かめてやろうかとも思った。B級の札があれば、規定の層より下へも、咎められずに潜れる。だが、確かめてどうする。溢れる前触れを僕一人が数えたところで、それを触れに変える口を僕は持たない。編入したての下働き上がりの読み手だ。名も、後ろ盾もない。証を積んでも、聞く耳がなければただの独り言だった。
結局、僕にできるのは指の冷たさを忘れないでおくことだけだった。
その帰り道でだった。
学舎の裏門を出た石畳の陰に、あの男が立っていた。
仕立てのいい上着。掴みどころのない顔。研究院の廊下で、下働きのころから幾度か見た男だ。読める手を、暖かい囲いへ、と言って笑ったあの男。
「浮かない顔だ」男は、僕が驚くより先にそう言った。「聞いてもらえなかったか。……下の層の話を」
うなじが冷えた。僕がモスに何を言ったか、この男はもう知っている。
「教官というのは、帳面に載っていないものをなかなか信じない」男は石畳を一歩詰めた。「だが、私たちは違う。妙な胸騒ぎを頭から莫迦にしたりはしない。……もし君が、私たちの内側にいたなら。君の言葉にはちゃんと重みがつくのだがな」
囲いの、内。その言葉が、疲れた耳に、ぬるく滲みた。
誰も聞かない。ただ一人、この男だけが聞くと言う。孤立に慣れた身に、それは思っていたよりずっとこたえる誘いだった。
囲われた先で何を差し出すことになるのかは分からない。分からないが、ろくなものではないのだろう。谷で助けてくれた男も、あの娘も、皆、声を落として言った。変わった才は、囲われて、表から消える、と。
それでも、耳が一瞬ぐらついた。誰かに確かに聞いてもらいたかった。指の冷たさを莫迦だと笑わずに頷いてもらいたかった。たったそれだけのことに、僕はこんなにも飢えている。表に出て、面をかぶって、僕はいよいよ独りになった。その渇きを、この男は正しく見抜いている。
「……結構です」
僕は辛うじてそれだけ言った。
「そうか」男は拍子抜けするほどあっさり退いた。それから、去り際にふと足を止める。「一つだけ。……君の胸騒ぎは、たぶん、当たっている」
僕は、振り返った。
「あの塔の下で、近ごろ何かが動いているのは、私たちも掴んでいる」男は薄く笑った。感情の読めない笑いだった。「教官が気の迷いと言うものを、私たちはちゃんと数えている。……それだけでも、どちらの耳が確かか分かるだろう」
上着の背が、夕暮れの人混みに紛れて消えた。
残されたのは、僕一人と、いっそう冷たくなった指先だった。
あの組織は、この異変を知っている。知っていて、教官にも生徒にも触れを出さない。ただ、僕を釣る餌にした。下で何かが溢れかけていることさえ、あの男たちにはこちらの首に縄をかける道具の一つでしかない。もし本当に溢れたなら、その混乱すら、きっと何かに使うのだろう。
ぞっとした。教官の無関心よりも、この男たちの用意周到さのほうがよほど寒かった。
寮への道で、井戸端のあの娘とすれ違った。
「なによ、その顔」あの娘は、桶を汲む手を止めた。「幽霊でも見た?」
「……次の実習、一つ下の層だったな」
「そうだけど」
言おうとして、僕は言葉に詰まった。下りるな、とは言えない。理由を訊かれれば、答えられない。僕の勘だ、とだけ言ってこの娘を怖がらせるのも違う。
「気をつけろよ。前より、下が」
そこで、切れた。あとが続かなかった。
あの娘はしばらく僕を見ていた。それから、桶を持ち上げてこともなげに言った。
「あんたが横にいるんでしょ。なら、平気よ」
言い置いて、先へ歩いていく。赤い髪が、夕闇へ遠ざかる。
平気なものか、と思った。僕が横にいるから平気だとこの娘は言う。だが、僕が横にいて、それでも守れなかった朝を僕は知っている。指の冷たさは、消えなかった。むしろ、あの娘の背中を見送るあいだに、少しだけ増した気がした。
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